I
なんと大胆なことでしょう――死に向かって、直接に語りかけるとは!
死は勝利に呑まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。(54-55節)
なぜ使徒パウロは、すべてのものの終わりである死に向かって、このようなことを言うことができたのでしょう?
人は、言うではありませんか。死者たちは、ただその人々とともに生きた私たちの記憶の中にだけ存在し、その私たちもやがて過ぎゆく。そのとき私たちとともに、愛する人々についての記憶も過ぎ去る。後には、何も残らないだろうと。
私たちは知っているではありませんか。年月とともに、いつか私たちの骨すらもさらさらになり、まったく塵に返ることを。
だから人は皆「朽ちゆくべき者」であり、死こそが万物の勝利者であると、私たちはうすうす考えているというのに。
いったい何を根拠にパウロは、〈死こそがすべての終わりである〉という命題に公然と抗い、命こそが最終決定的な現実である、という勝利宣言を行うことができたのでしょうか。いったい死者たちを、誰が思い起こすというのでしょうか?
II
私たちの教会は1997年、「上原教会」と「みくに伝道所」という二つの教会が合同して生まれました。そのとき以来、またそれに先立って天に召されていった信仰の仲間たち、および教会に関係の深かった方々のお名前が、本日の週報の裏面に印刷されています。
私はみくに伝道所の会員でした。だから教会合同以前に天に召された上原教会の方々とは、個人的には面識がありません。
教会は「生ける者」と「死ねる者」の両方から成る共同体です。その両者を裁きたまう主イエス・キリストの支配下にある群れです。
リストに名を記されているのは、私たちよりも先にキリストに従って生き、私たちの知らない人生のさまざまな苦労を経験し、多くの苦しみに耐えて、私たちに先んじて死を通り抜けるという大仕事の後に、主にある眠りに就いた方々です。
私が存じ上げるかぎり、その人たちは生前にあって決して偉ぶることなく、慎ましく、かつ忠実に生き、助けを必要とする人々には両手を広げながら、懸命に生きてこられました。この方々の後に、自分たちも続きたいと願います。
III
今日の聖書箇所は、「生ける者」と「死ねる者」の両方にキリストが何をなさるかについて述べています。キリストは私たちを等しく「朽ちないもの」へと変貌させるとあります。その意味するところは何でしょうか?
まずパウロは「肉と血」を指して、これを「朽ちるもの」と呼び、それらが「神の国」を継承することはないと言います(50節)。塵に返ってゆくものは「復活」のできごとに含まれない、とパウロは考えているようです。
続いてパウロは、ひとつの「神秘」について語ります(51節)。〈皆が眠りにつくわけではないが、皆が変貌させられる〉と彼は言います。暗黙裡に前提されているのは、世の終わりにキリストが再び来るという再臨信仰です。そのとき私たちは、死せる者も生ける者も、ともにキリストと同じあり方へと変えられる。別の書簡でパウロは、「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に代えて下さる」と語っています(フィリピ3,21)。
そのできごとは「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちに」生じるとあります(52節)。そのとき「死者は起こされて朽ちない者とされ、私たちもまた変えられる」。
もちろん私たちには、世の終わりに何が起こるのかは正確には分かりません。パウロもまた、独自の霊感を受けたのだろうと思いますが、同じ人間である以上、やはり本当のところは知らないでしょう。彼の発言には、切なる希望が込められているに違いありません。
IV
それでもこれは、経験的な根拠に基づく希望です。イエスの復活のできごとがそれです。
イエスは十字架刑で殺され、その「肉と血」は滅びました。彼は私たちど同じ死を死んだのです。今も死んだままです。そしてそのままに、イエスは神の命を生きており、私たちに働きかけます。その「霊」は彼の個性をはっきり備えています。だから新約聖書の時代を生きた人々は、そのようなイエスを指して「霊の体」「栄光の体」、つまり神の創造性によって新しく創設されたイエスの「私」、輝きの「彼自身」と呼んだのだと思います。そのイエスが、私たちをも神の命に向けて導くだろうと。
最後にパウロは、「朽ちるべきもの」「死ぬべきもの」が「朽ちないもの」「死なないもの」を「着る」と言います(53-54節)。「着る」とは、先に言われた〈変貌〉の言い換えでしょう。古代宗教思想で、しばしば肉体を「脱ぐ」ことで「霊」になる(/戻る)ことが救済と見なされたのに対してパウロは、私たちは「脱ぐ」のではなく「着る」と言いたいのでしょう。それは私たちの変貌が、身体性つまり私たち一人ひとりが「個」であることを消し去ることでなく、その新しい確立であることの強調です。キリストによって起こされる死者たちは、その個性的な相貌を新しく獲得するという理解です。
これは、キリストにあって眠りについた人々は、決して忘却の彼方に忘れ去られることなく、世の終わりに神によって〈思い起こされる〉ということだと思います。神の「おもい」とは、命を造り出す神の息吹のこと。その「思い/命の息吹」が、私たちを「起こし」、新しい個性的な人格として立てる――これがパウロの希望です。
V
いったいそれは、どんな出来事なのでしょうか? 二つのイメージが浮かびます。
ひとつは先ほど朗読したイザヤ書35章です。バビロン捕囚にとられたイスラエル民族が、ついにパレスティナの故郷に帰還する日、彼らが砂漠の真ん中を通り抜けてゆくとき、自然もまた変貌を遂げるだろうというヴィジョンです。
荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野ばらの花を一面に咲かせよ。
花を咲かせ
大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ
カルメルとシャロンの輝きに飾られる。(イザヤ35,1-2)
ところで古代中近東の人々にとって、砂漠は〈死者の国〉でもあります。すると続いて現れる次の言葉、
そのとき、見えない人の目が開き
聞こえない人の耳が開く。
そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。(5-6節)
――この言葉は、弱った人々に力が
もうひとつのイメージは、村上牧師が何度か紹介して下さった三好達治の詩です。鈴木秀子『死にゆく者からの言葉』に、山中で記憶喪失の状態であったのを施設に保護された「山のおじいさん」がふとした機会に諳んじたという、祈りのような詩です。
あはれいまひとたび
わがいとけなき日の名を
よびてたまはれ
風のふく日のとほくより
わが名をよびてたまはれ
庭のかたへに茶の花のさきのこる日の
ちらちらと雪のふる日のとほくより
わが名をよびてたまはれ
よびてたまはれ
わが名をよびてたまはれ
幼き日
母のよびたまいしわが名もて
われをよびてたまはれ
われをよびてたまはれ
主キリストもその再臨のとき、「幼き日、母の呼びたまいしわが名もて」私たちを呼び覚まして下さると思われてなりません。
そのとき私たちは――生ける者も死ねる者も――朽ちないものへと変貌させられ、そして、こう歌うことでしょう。
死は勝利に呑まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。
そのときまで、私たちは心を合わせて歩みたいと願います。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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