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- 覚醒
⇒「覚醒」廣石 望ゼファニヤ書1,2-11; I 古今東西に「時は金なり」と言います。時間はたいへん貴重だという意味です。時間は、それがあるうちに有効に使わないといけない。私たちは皆、一度きりの人生を生きています。先週は、相次いで二人の兄弟を天に送りました。一人ひとりに与えられた時間は限られており、私たちは有限な存在です。 他方で、「金なり」というとき、時間が「交換価値」であるという意味合いも、そこに感じられます。例えばある人のために自分の時間を使い、いつかその人に自分のための時間に協力してもらうという、ある種の「やりとり」が時間について可能なのでしょうか。そのとき時間は、かりにそれが同じ長さであったとしても、自分にとってなるべく最適のタイミングで、なるべく有効に使いたいと願うのが人情という
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- 清くなれ
⇒(MP3, 32kbps)「清くなれ」廣石 望レビ記14,1-9; 現在、入力作業中です。
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- 福音にふさわしい生活
⇒「福音にふさわしい生活」陶山 義雄イザヤ書61,1-4; パウロの手紙を読みますと、パウロが手紙を宛てた教会やキリスト者の間でさえ、人間的な思いや考え方の違いがもとで、不和や対立、時には分派が生じていたことが記されています。「私はパウロにつく」、「私はアポロに」、「私はケファに」。コリントの教会に起こった、このような分派のきざしを聞いて、パウロは忠告の手紙を書いておりますし、彼が訪ねた教会の中で、最も親しく、また、信頼を寄せていたフィリピの教会についても、「主にあって、同じ思いを抱きなさい」(フィリピ4:2)(口語訳:主にあって一つ思いになってほしい:どちらにも可能な訳)そのように、パウロをして語らしめるような不一致が起きていた様子を、私たちはフィリピの教会に宛てた手紙を通してしらされま
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- 福音を信じなさい
⇒(MP3, 32kbps)「福音を信じなさい」村上 伸イザヤ書53,1-5; 私の年齢や健康状態のことを考えると、この講壇から語る機会は今後少なくなる一方だと思われるので、今日は「説教」というよりも、私がどのような経緯でキリスト者になったか、また、私の信仰がどのような内容のものであるかということについて「証詞」をさせて頂きたいと思う。 私は今から65年前、1947年のクリスマスに受洗した。そのことについて話す前に、当時のと、について説明しておく。 私は1944年に陸軍幼年学校(陸軍の将校を養成する学校)に入った。14歳であった。その頃、一般のメディアもそうであったが、特にこの学校の教官たちは、《現人神天皇》・《神州不滅》・《悠久の大義》といった神話的イデオロギーに凝り固まっていて、戦局は
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- 愛の掟とイエスの十字架
⇒(MP3, 32kbps)「愛の掟とイエスの十字架」陶山 義雄詩編25編6-18; 教会の暦では先週の日曜日、2月26日から受難節に入りました。(22日が灰の水曜日) 今日は、受難節第二の日曜日になります。先ほどお読みした詩編第25編6節から11節は、この日から始まる1週間、修道院などで読まれる聖務日課になっておりまして、ラテン語の出だしが Reminiscere miserationum tuarum, Domine とあり、その最初の言葉 :思い起こして下さい、のラテン語 reminiscere をもって、受難節第二主日とその週が表されて来ました。受難節について若干お話ししておきますと、復活節の前の、六つの日曜日を除く、40日間が受難節にあたります。長いので、これもラテン語で「長い」
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- 何もかも捨てて
⇒(MP3, 32kbps)「何もかも捨てて」廣石 望アモス書7,10-15 ; ただいま入力作業中です。
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- 和解の使者
⇒(MP3, 32kbps)「和解の使者」廣石 望イザヤ書32,15-20; I 新しい一歩を踏み出そうとしている私たちを、深いところで支えるものは何でしょうか? 教会暦では、現在は受難節です。福音書によれば、イエスは十字架上で息絶えようとしたとき、「私の神さま、私の神さま、なぜ私をお見捨てになりましたか?」と叫んだと伝えられています(マルコ福音書15,34参照)。これは詩編の引用ですが(詩編22,1)、そのまま読めば、すべての望みが断たれた者の痛ましい叫びです。 この世にあって、あらゆる理由なき病気や事故、突然に襲いかかる死に呑みこまれかけた人は、誰であれ同じように叫ぶと思います。イエスもまた一人の生身の人間でした。 まことに哀れで孤独なこの死が、新約聖書では、人に救いをもたらす死であると
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- 十字架の言葉
⇒(MP3, 32kbps)「十字架の言葉」廣石 望エレミヤ書23,18-24 ; I 十字架は、社会一般にはどのように受けとめられているでしょうか? 十字架の図像化である十字形は――私たちに親しいのはクロスの下の部分がやや長い「ラテン十字」と呼ばれるものですが――地図では教会ないし墓地のマークです。さらに修道会や家の紋章、さまざまなキリスト教国の国旗、さらにはペンダントのデザインにも使われます。お守り・魔除けに使うこともあります。吸血鬼ドラキュラは十字架が苦手ですね。何れにせよ壮麗な礼拝堂の頂点に掲げられた白亜の十字架は、キリスト教式の結婚式などと相まって、美しくロマンチックな印象があると思います。 ところがこうした十字架ないし十字形のイメージは、さきほど朗読したパウロの手紙における十字
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- 世が裁かれる
⇒(MP3, 32kbps)「世が裁かれる」廣石 望イザヤ書42,1-9 ; I 今日のヨハネ福音書のテキストは、イエスのエルサレム入場に続く場面に属しています(ヨハネ12,1以下)。町の群衆がナツメヤシの枝をふって、「ホサナ、主の名によって来られる方に」と歓呼してイエスを迎えたという冒頭のエピソードは、他の福音書からも知られています(例えばマルコ11,9以下)。 しかしこれに続いて語られる、エルサレム入場後のイエスにギリシア人たちが面会を求めたというエピソードは、他の福音書に証言されていないヨハネ福音書だけが伝える話です。そこにイエスの受難死を暗示する、「一粒の麦が落ちて死ねば多くの実を結ぶ」という有名な言葉が現れます(12,24)。 それに続く今日の箇所で、イエスは自らの十字架の死につい
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- 復活の福音
⇒(MP3, 32kbps)「復活の福音」廣石 望ダニエル書12,1-4 ; I イースター、おめでとうございます。今日は福音の始まりを記念し、祝うための祭りです。福音は、イエスの復活への信仰とともに始まりました。今日は、パウロが伝えるテキストを手がかりに、福音とは何であるかを考えてみましょう。 パウロはコリント教会の信徒たちに宛てて、かつて自分が宣教した福音を思い起こさせようとしています。 イエスの死と顕現が起こったのが紀元30年ころ、パウロがコリント書簡を書いたのが紀元50年代の前半と言われていますので、イエスの死後、およそ四半世紀が過ぎた後の発言です。兄弟たち、私は君たちに告げる、私が君たちに宣教した福音を。それは君たちが受けたもの、そこに君たちが立ってきたもの、それを通して君たち
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- 朝の食事
⇒(MP3, 32kbps)「朝の食事」廣石 望イザヤ書25,6-10 ; I 福音書には、イエスの顕現について物語る数多くの伝承が保存されています。その中に、復活のイエスが弟子たちと食事をしたと報告するものがいくつかあります。 例えば、ルカ福音書に伝えられた有名なエマオ途上の物語がそうです(ルカ24,13以下)。二人の無名の弟子がエルサレムからエマオに向けて歩いていたところ、やがてそこにイエスが加わります。しかし彼らはそれが誰だか分からなかった。夕暮れに、途中の村に3人で宿泊することになり、食卓でイエスがパンを裂くのを目にした瞬間に、「彼らの目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)という不思議な物語です。これは夕ご飯ですね。 この二人は「時を移さず」エルサレムに引
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- ガン闘病と復活信仰
⇒(MP3, 32kbps)「ガン闘病と復活信仰」陶山 義雄イザヤ書53,1-12 ; 先ほどご一緒に歌いました讃美歌(571番)は、受難週から復活節にわたって歌うに相応しい讃美歌です。これは宗教改革者ルターより一世代あとに、フラウエンシュタットでペストが大流行した中で、牧師のヴァレリウス・ヘルベルガーと、音楽主任のメルキオール・テシュナーによって造られた讃美歌です。この二人は葬儀で忙殺されていたのですが、何とかして教会員と亡くなったご遺族を慰め、故人を天国に送るのに相応しいものを考えて、この讃美歌が造られました。今日でも、最も美しい葬儀の歌としても歌われています。「仮初めの世に私は別れを告げよう。罪深い悪しき生活を私は好みません。天国でこそ、相応しく暮らそう 彼方を私は憧れています。
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- 出発
⇒「出発」松本 敏之創世記11,27-12,9 ; (1)旅立ち 4月は新しい出発の時です。気持ちも新たにされる時です。皆さんは、何か生活に変化があったでしょうか。わが家では、ひとり息子が大学進学のために家を離れて行きました。息子は親元を離れ、のびのびと毎日新しい経験をしていることと思います。残された親のほうはちょっとさびしいですが、まあ何とかやっています。19年ぶりに夫婦二人っきりになって、最初の1週間位はちょっとぎこちない感じでしたが、大分慣れました。妻は食事作りも勝手が違う。ご飯の分量もよくわからないと言っていました。これまではわが家の食事も受験生の息子を中心にスタミナのつくようなメニューでしたが、息子がいなくなると、妻が私の人間ドックの結果を見て、「健康のために野菜と魚料理中心にしよ
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- 外に開かれたイエス共同体
⇒(MP3, 32kbps)「外に開かれたイエス共同体」陶山 義雄イザヤ書49,14-22 ; 先ほどご一緒に歌いました讃美歌51番は「説教の前に」と言う但し書きが施され、その言葉に相応しい礼拝の心構えと讃美の備えを歌った讃美歌です。「キリスト者の祈りの心と讃美の声」を合わせる歌を求めてヴァイデンの牧師をしていたトービアス・クラウスニツァー(1619~84)が造った讃美歌です。讃美の心はキリストの復活に与る希望と喜びから来ることを、先ほど「招きの言葉」で引用しました、コロサイの信徒への手紙3章1節から触発されて歌にしたと作者は述べています。この讃美歌を更に親しみを持って、世界中の教会で歌われるようになったのは、作曲者ヨハン・ルードルフ・アーレ(1625~73)の功績によると言われるほど、大
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- 力は弱さの中で
⇒(MP3, 32kbps)「力は弱さの中で」廣石 望ミカ書4,1-8 ; I 私たちはしょっちゅう、「もっと強くなりたい」と思います。その理由は大きく分けて二つあるでしょう。ひとつは他人のため、もうひとつは自分のためです。 他人のために強くなりたいと願うとき、それは自分が属し、愛してもいる人を助けたい、守りたいという思いからです。私が研修旅行で訪れるインドの貧しい地域の子どもたちに「将来何になりたいか?」と尋ね、「どうしてそうなりたいか?」と問いを重ねると、「家族を助けたいから」「困っている人たちのために」と返答する子どもが大勢います。 他方で、自分のために強くなりたいと願うとき、動機はさらに二種類に分かれると思います。ひとつはちっぽけなことでくよくよしたり、些細なことで動揺したり、他人を
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- 主の到来
⇒「主の到来」廣石 望ヨエル書3,1-5 ; I キリスト教の神の特徴に「到来する」というイメージがあります。 例えばヨハネ福音書の冒頭のロゴス賛歌は、キリストのできごとを「まことの光が世に来た」(ヨハネ1,9)と歌います。そのイエスは、「神の国は近づいた」(マルコ1,15; マタイ10,7; ルカ10,9参照)と宣言しました。彼が弟子たちに教えた主の祈りにも、「御国を来らせたまえ」とあります。 イエスは世の終わりについて、君たちは「目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰ってくるのか、…分からないからである」(マルコ13,35)と教えています。パウロも言います、「盗人が夜やってくるように、主の日は来る」(テサロニケ一 5,2)。 終末に到来する審判者「人の子」について、イエスはこう言います。
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- 真理の霊
⇒「真理の霊」廣石 望エレミヤ書31,31-34 ; I 今日は聖霊降臨祭――イエスの復活から第50(ペンテコステ)の日に、聖霊の降臨を受けて教会がスタートしたこと、つまり教会の誕生を祝う祭りです。その日のできごとは、使徒言行録2,1-4によれば次のようでした。 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 もっとも、この通りの物語は、他の新約聖書の諸文書にまったく証言されていません。しかし聖霊体験は、あらゆる原始キリスト教伝承に共通しています。すると
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- 顔と光
⇒「顔と光」廣石 望出エジプト記34,29-35 ; I先週、私たちは今年の教会暦で聖霊降臨祭(ペンテコステ)を祝いました。今日のパウロのテキストは「顔」、そして「光」という表現を使いながら、とくにモーセ律法との関係で、神ないしキリストの現臨について述べています。そもそも人間は、「顔」の表情に優れた生き物です。例えば証明写真がそうであるように、顔はその人本人を表します。誰かに会うとは、その顔に接することを含みます。顔を見れば、その人がそこにいること、喜怒哀楽の感情、そして私に向けられる眼差しが分かります。顔は、人格の現臨そのものです。他方で私たちは自分の顔を、自分の目で「じかに」見ることはできません。どんなに鏡を覗き込んでも左右逆ですし、写真や録画ビデオは、まるで録音テープで自分の声を聞くよ
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- 少年のパンと魚
⇒「少年のパンと魚」廣石 望I 昔、ガリラヤのカナという村に、ヨハナンくんという男の子が、お母さんとおじさんといっしょに住んでいました。 ある日、ヨハナンくんは、お母さんから5つの小さなパンと、2匹の干し魚を「お弁当」にもらって、おじさんといっしょに出かけました。隣村のナザレ出身のイエスという人が、神さまから特別な力を授かって、たくさんの病気を治すというので、いっしょに見に行こうというのです。 なんでも、おじさんが言うには、カファルナウムに住んでいる知りあいの息子さんが病気で死にそうになっていたのを、イエスは治したのだそうです。その人はたまたまカナの村にいたイエスを探し当ててお願いしたら、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言ってくれ、家に帰ってみたら子どもは元気になっていたんだそうです。
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- 仕えられるためではなく、仕えるために
⇒「仕えられるためではなく、仕えるために」陶山 義雄イザヤ書35,3-10; 「羊飼いは羊のために命を捨てる」「私は良い羊飼いである」(ヨハネ10:11)この言葉はヨハネ福音書10章の冒頭で、イエス・キリストが「羊の譬」を語られたあと、その結びで話された言葉です。それは、ご自身の身に起きる、受難の出来事を予測して語られた言葉でしたが、弟子達は、その意味が分からなかったために、とんでもない期待をイエスに寄せていたことが、本日、取り上げる第三回目の受難予告物語の中に描かれています。テキストに注目する前に、先ほどご一緒に歌いました313番を振り返りますと、受難の意味が良く歌われていることにお気づきになられたと思います。4)「羊飼いは 羊のために その命 あえて捨てる。 正しい主が 僕のために

- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
