朝の食事

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

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「朝の食事」

廣石 望
イザヤ書25,6-10 ;

I

 福音書には、イエスの顕現について物語る数多くの伝承が保存されています。その中に、復活のイエスが弟子たちと食事をしたと報告するものがいくつかあります。

 例えば、ルカ福音書に伝えられた有名なエマオ途上の物語がそうです(ルカ24,13以下)。二人の無名の弟子がエルサレムからエマオに向けて歩いていたところ、やがてそこにイエスが加わります。しかし彼らはそれが誰だか分からなかった。夕暮れに、途中の村に3人で宿泊することになり、食卓でイエスがパンを裂くのを目にした瞬間に、「彼らの目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)という不思議な物語です。これは夕ご飯ですね。

 この二人は「時を移さず」エルサレムに引き返し、「11人とその仲間が集まっている」ところに合流したそうです(33節)。そのときイエスが「彼らの真ん中に立った」(36節)。そして「亡霊には肉も骨もないが…私にはそれがある」(39節)といって、弟子たちが差し出した焼魚の一切れを「彼らの前で食べた」(43節)。これは、たぶん朝ご飯ではないでしょうか。

 今日のヨハネ福音書のテキストも、そうした復活者イエスのお食事エピソードのひとつです。今度はエマオ途上でもエルサレムでもなく、彼らの故郷ガリラヤが舞台です。しかも夜明けに、イエスがガリラヤ湖の岸辺で炭火を起こして魚を焼き、弟子たちに「さぁ、来て、朝の食事をしなさい」と招いたとのこと(ヨハネ21,12)。

 イエスさまが招いてくれるお魚つきの朝ごはん!――この魚は、私たちの朝食に供される潮鮭や鯵の開きとは違って、ガリラヤ湖でとれた淡水魚です。それでも、もしイエスが招いて下さるならば、お醤油持参でぜひ参加したいものだと思います。

II

 ところで、この物語を含むヨハネ福音書21章は、いったん福音書が書き上げられた後に、明らかに「付録」として付け足されたものです。直前の20章末尾に、新共同訳で〈本書の目的〉というサブタイトルのついた結びの言葉があります(ヨハネ20,30-31。21,25に二度目の結語があります)。

 しかも20章で、復活のイエスは弟子たちに向かって、「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」(20,21)と述べて、宣教活動の開始を命じています。なのに私たちの章で弟子たちは、まるでそんな話は聞かなかったかのように、故郷ガリラヤに帰って漁師稼業を再開するつもりでいるようです。

 さらに20章でイエスは「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」(20,29)と宣言します。これは〈疑うトマスに対するような顕現はもう起こりません。今後は見ないで信じる信仰しかありません〉という意味です。なのにイエスは、21章でまたもや登場します。

 要するに21章に伝えられたティベリアスの海、すなわちガリラヤ湖畔の顕現物語は、20章までのヨハネによるイエス物語の直接の「続き」ではありません。それは別物の付録です。

 他方で、この「朝の食事」エピソードそのものも統一的な物語ではなく、もともとの伝承に後から筆が加えられているようなのです。

 例えば、ヨハネ福音書にだけ登場する「イエスの愛しておられた弟子」が、岸辺のイエスを見たとき、他の弟子たちに先んじて「主だ」と言い、これを聞いたペトロが上着を羽織るや否や、まっさきにイエスに挨拶しようと舟から湖に飛び込んで、泳いで岸に達したというエピソードは、おそらく二次的な加筆です。

 ヨハネ福音書を生み出したキリスト教は、おそらく傍流の小さなグループでした。この共同体はやがて分裂して消滅します。しかし彼らの残した福音書と書簡は、ペトロの権威を戴く大教会によって受容され、最終的には正典に入りました。「主の愛された弟子」とはヨハネ共同体のシンボルだろうと思います。ならばこのエピソードは、復活者イエスの委託を継承することは大教会(ペトロ)に任せるけれど(21,15以下を参照)、まっさきに真のイエスを見抜いたのは私たち(主の愛された弟子)だった、というヨハネ共同体の自負心の表現ないしその承認なのです。

 つまり21章は、ヨハネ福音書が大教会に受け入れられたときに付加されたのだと思われます。

 さらに弟子たちは、イエスが持参して岸辺で焼いていた魚(とパン)を食べたのか(9節「陸に上がってみると、炭火が起こしてあり…」)、それともイエスの指示を受けた結果である大漁の魚から食べたのか(10節「今とった魚を何匹かもってきなさい」)、はたまたどちらも焼いたのか、じつはよく分かりません。

 イエスの手元に「パン」もあったという叙述を見ると、どうやら聖餐式のことが考えられているようです。おそらくもともとは、弟子たちがイエスのおかげで手に入れた魚を彼自身も食べたという伝承があったのでしょう。しかしこのエピソードは、主イエスが招く聖餐式というシンボリズムで解釈されました。その結果、イエスが魚だけでなくパンまで用意して待っていたという話になったのでしょう。

 もっとも魚だけ食べることはなく、パンのおかずに食べたというだけのことなのかも知れませんが(5節「子たちよ、何か食べ物はあるか」というイエスの質問の「食べ物」と訳されたギリシア語は「添え物」「おかず」の意味です)。

III

 では、手が加えられる前の古伝承は、何についての、どのような話だったのでしょうか?

 確かなことは分かりません。しかしこの話とは別に伝えられた、しかし驚くほどよく似たエピソードが手がかりになりそうです。それはルカ福音書では5章に伝えられた、もうひとつの「大漁」物語です(ルカ5,1-11並行)。

この物語はイエスによる弟子の召命物語のひとつです。内容は、ペトロをはじめとする漁師たちが夜通し漁をしても魚がとれなかったのに、イエスが「沖に漕ぎ出して、網を下ろしなさい」と言うので、これに従うと「網が破れそう」なほど大漁だったというものです。そのときイエスはペトロに、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と告げて、宣教活動に召し出しています(同10節)。

 私たちの物語の原型は、復活者イエスが生前の弟子である漁師たちに現れて、福音宣教を命じるものだったのだろうと思います。つまり「君たちを、人間をとる漁師にしよう」という言葉は、もともとガリラヤ湖畔に顕現した復活者イエスによる派遣の言葉だった可能性があります。

 何れにせよペトロたちは「人間をとる漁師」としての活動を、イエスが復活した後も続けました。「人間をとる漁師」(英語にすればhumans fisher?)とは〈人攫いになった漁師たち〉という響きのある、かなり人聞きの悪い言葉です。もともとは、ガリラヤ出身の福音宣教者たちに向けられた誹謗中傷であったかも知れません。しかし彼らは、福音のゆえに、その悪口を自分たちのアイデンティティに敢えて転換したのでしょう。

 じっさいペトロは放浪する説教者として、エルサレムを拠点に方々を行きめぐり、アンティオキアまで出かけて異邦人伝道にも参加し、やがては都市ローマに至り殉教しました。

IV

 ガリラヤ地方のイエス派に、日曜の朝、お魚つきの聖餐式を祝うグループがあった――これは私の空想でしかありません。しかし、もしそんなグループがいたなら、彼らはこの食事に自分たちを復活の主イエスが招いていると信じたに違いないと思います。

 イエスは「炭火をおこして」くれた。――エマオ途上の弟子たちは、イエスが話しかけてくれたとき「私たちの心は燃えていた」(ルカ24,33)と言っているではありませんか。

 網には「153匹の大きな魚たち」がいた――古代の動物学は153の魚の種類を数えていたので、魚はすべての種類の人間を指すという解釈があります。ならば、この魚たちは、教会による世界宣教のシンボルです。マタイ福音書の復活者イエスは、山上で「すべての民を弟子にしなさい」(マタイ28,19)と命じているではありませんか。

 そしてこの人たちの聖餐式には、魚が出ます。そして「魚」を意味するギリシア語の「イクテュスichthus」は、迫害下にあった初代のキリスト教徒にとって、キリスト告白の合言葉になりました。「Iēsūs Christos theū huios sōtēr/イエス・キリスト、神の子、救済者」の頭文字をつなぐと「イクテュス/魚」になります。魚はガリラヤ出身のメシアのシンボルであり、復活者イエスが与える食事でもあります。

 私たちの教会の前身である上原教会に属した作家の椎名麟三氏(1911-1973年)が、1966年に「『復活』と私」というエッセイを雑誌『信徒の友』に公表しておられます。そこに次のような文章が現れます。

「弟子たちの間にあらわれたイエスが、聖書のページの中からたちあらわれてくる。それは十字架にかかって死んだイエスだ。その死は、仮死というようなものでなく、決定的な死だ。…そのイエスは、弟子たちに語りかけ、手や足を見せ、ついに焼き魚の一片を食べて見せる。…私の前にあるイエスは、死んでいて、そして生きている…。弟子のだれも、そのイエスを信じることはできない。むろん私もだ。だが、イエスは自分を信じない者のためにどんな奇蹟をあらわされたか。とんでもない、くだらなくも焼魚の一きれをムシャムシャ食って見せられているだけである。そのイエスの愛が私の胸をついた。同時に死んでいて生きているイエスの二重性は、私が絶対と考えていたこの世のあらゆる必然性を一瞬のうちに打ち砕いてしまった…。」
(大貫隆〔編著〕『イエス・キリストの復活 現代のアンソロジー』日本キリスト教団出版局、2011年に所収)

 これが椎名さんの復活信仰です。

 死んでいて生きているイエスさまの朝ごはんに与るとき、イエスはきっと、例えば焼魚を食べるという私たちの日々の小さな営みを、大きな約束のしるしとして用いて下さるに違いありません。


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