和解の使者

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「和解の使者」

廣石 望
イザヤ書32,15-20;

I

 新しい一歩を踏み出そうとしている私たちを、深いところで支えるものは何でしょうか?

 教会暦では、現在は受難節です。福音書によれば、イエスは十字架上で息絶えようとしたとき、「私の神さま、私の神さま、なぜ私をお見捨てになりましたか?」と叫んだと伝えられています(マルコ福音書15,34参照)。これは詩編の引用ですが(詩編22,1)、そのまま読めば、すべての望みが断たれた者の痛ましい叫びです。

 この世にあって、あらゆる理由なき病気や事故、突然に襲いかかる死に呑みこまれかけた人は、誰であれ同じように叫ぶと思います。イエスもまた一人の生身の人間でした。

 まことに哀れで孤独なこの死が、新約聖書では、人に救いをもたらす死であると言われます。そもそも死が救いをもたらすことなどありうるでしょうか? 長い苦しみに終わりをもたらすという意味では、そうなのかもしれません。それでも死が私の生に終わりをもたらし、愛する者との命の交流が絶たれるという意味では、死が悲しみと苦しみをもたらすことに変わりはありません。死は私たちの限界であり、生の関係の終わりです。

 しかしキリスト教は、死がすべての終わりである、というこの世の知恵に抵抗します。そしてキリストの死は、新しい命の始まりになったと反論します。イエスの無力極まりない死は、他でもない全能なる神が彼の行為を、しかも人間に益をもたらす救いの業を完成させた場所であるというのです。

 なぜなのでしょうか?――それはイエスの十字架が、神が本当は何者であるかを世界に示した啓示の場所だからです。イエスは、世の中で押し潰されて小さくされた人々とともに歩み、その苦しみをともに苦しみました。敵意に対して敵意で応じず、むしろ悪をわが身に引き受けることで悪を克服しようとしました。そのイエスの無力な死の中にこそ神は自らを示した、という認識が拓けたのです。人間に対する愛のゆえに、自ら死の中に降った神こそが、真の神であるという認識です。だからイエスの無残な死は、愛の神の全能を現わす場所と受けとめられました。

 この神の全能は、ひとり他に優って巨大な行動力や支配力をもつことには存しません。それはむしろ、無力なままに傷を受けながらも、悪を吸いこんで報復の悪循環を断つ愛の力の全能さにあります。復活のイエスが脇腹と手に傷を負っているのは、そのためです。復活者イエスは、物質界を脱出して精神世界へと飛翔する霊ではありません。世界の森羅万象を一望のもとに見下ろしながら、しかしこの世界に一度もじかに触ることのない天使のような存在でもありません。

 私たちを支えるのは、世界の悪によって傷を受け、それでも愛の無限の力によって命に輝く復活のキリストです。だから使徒パウロにとって、復活のキリストとは常に「十字架につけられたままのキリスト」、つまり徹底的に無力にして無敵の救い主です。

II

 キリストの愛が私たちをとらえているからだ。私たちは判断した、一人が万人のために死んだがゆえに、万人は死んだのだと。そして、その人が万人のために死んだのは、生きている者たちがもはや自分自身にではなく、彼らのために死んで起こされた者に生きるようになるためであると。(14-15節参照)

 使徒パウロにとって「神の子」キリストの啓示とは、十字架に架けられたイエスの啓示でした。このできごとは彼を打ちのめしました。それまでファリサイ派として努力と研鑚を積み重ねてきた彼の自己理解は崩壊しました。それは人格的に「一度死ぬ」という体験だったでしょう。――この箇所でパウロは、この体験を「万人」にも基本的に当てはまる経験として述べているようです。

 いま「生きている者たちがもはや自分に生きるのを止めて、キリストに生きるようになるため」という発言は、パウロ自身の再生経験を踏まえているでしょう。別の書簡でパウロは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として述べ伝えている」(ガラテヤ1,23)という人々の噂を伝えています。外側から見てそうである事態をパウロはここで、「キリストの愛が私たちをとらえている」と内側から表現します(新共同訳「駆り立てる」は意訳)。

 こうした人格の崩壊と再生のできごとを、私たちはふつう「愛」とは呼ばない気がします。通常「愛」は、私とあなたという二つの独立した人格が先にあり、互いに惹かれあったり労りあったりする中で育つものです。しかしパウロの場合、キリストの愛は彼に突然襲いかかって人格的な死を引き起こし、新しい生へと再生させる力として生じています。イエスの死は、万人の生の歩みに「死」をもたらす衝撃力と同時に、人が復活者との関わりの中で生きるようになる力を備えているのです。そうであるならば「キリストの愛」とは、復活信仰に生きる者に働く力のことです。パウロはそれを指して「愛」と呼んでいるのです。

III

 したがって私たちは、今からは誰一人として肉に従って知ることはない。キリストを肉に従って知っていたとしても、今もはや(そのようには)知らない。したがって誰かがキリストのうちにあるなら、その人は新しい被造物である。古いものは去った、見よ、新しいものが成った。(16-17節参照)

 キリストの愛にとらえられて生きる者は、新しい生を生きます。自分に生きることに対して死に、キリストに生きるようになった者は、人を「肉に従って」知ることはもはやないと言われます。「肉に従って」とは、有限な存在としてのありのままの限界に即してという意味です。世間では、「ありのまま」の評価とは正当な評価に他なりません。例えば入学試験で、そのときの実力がそのまま点数化されるのが理想であるように。しかし人格の死と再生をもたらすキリストの愛に捉えられた者にとっては、やがて肉体の死をもっておわるありのままの限界に即して、その人が神の前で持つ尊厳が決まったりはしません。人をつくりかえる神の力を経験した者が、他人の尊厳をその人の現実的姿に限定することはありえないのです。

 現実的な姿に即して理解すれば、キリストとは十字架刑に処せされることで化けの皮が剥がれた偽メシアにすぎません。イエス時代のユダヤ教に、〈苦難のメシア〉という観念はありませんでした。イエスの挫折の死は、彼がメシアでないことの証明でした。

 しかしイエスの死が真の神の自己啓示であることが明らかになった以上、このキリストの磁場の中にある者は、もはやこの世の現実の枠内で定義することができません。その人は新しい世界に属する存在です。新しいものが来たとき、古いものは古くなります。キリストに出会うことで、古いパウロがいったん死んだのと同じように。キリストの愛が来たとき、それまで最も権威あると考えられてきた知識や経験は、その愛の光の下で新しく解析されて、生まれ変わることになるのでしょう。

 私たちも、これまでの歩みの中にあって、いったん死を宣告されたに等しい状態にあると言えるでしょうか。ならば、キリストの愛が私たちを再生させることに望みをおきたいと思います。

IV

 万物は神から来る。キリストを介して私たちをご自身と和解させ、和解の奉仕を私たちに与えたその神から。キリストにあって世をご自身と和解させる者、その数々の過ちを人々に帰さず、むしろ和解の言葉を私たちのうちに置いたのは神であったのだから。(18-19節参照)

 ここで主語は「神」に転じます。キリストの愛のできごとは、神と世界(まずは人間のこと)との間の「和解」のできごとであり、自らはその和解の奉仕に参加しているとパウロは言います。

 「その数々の過ちを人々に帰さず、むしろ和解の言葉を私たちの内に置いた」とは、どういうことでしょうか?――たしかにこの世界には「数々の過ち」があります。他方で「過ち」を自分から告白する人は少ないし、人は自分には甘いものです。その「過ち」を見過ごしていては、社会の中で公正さを保つことは難しかろうと感じます。では、神が「人々の過ちを彼らに帰さない」とはどういうことなのでしょうか? 思うにそれは、人間の「過ち」のせいで破壊されてしまった信頼関係という廃墟の中に、神が私たちを棄て置かず、和解のために働く人々を立てる、と理解できるのではないでしょうか。

 私たちの教会は、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(いわゆる「戦責告白」、1967年)を大切にしてきました。そこには、次のような文言が現れます。

「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。…(中略)…わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うと共に、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、また我が国の同胞に心からのゆるしを請う次第であります。

 ここでは教会が自らの罪を告白することを通して、ともに生きてゆくべき人々に「ゆるしを乞う」という姿勢が明らかです。ここで「和解」という表現は使われません。それが対等な立場の者同士の関係修復を連想させるからでしょうか。しかしこの文章で「和解」が切実に目指されていること、それが神から与えられるよう祈念されていることに疑いの余地はありません。

 そしてじっさいこの告白は、とりわけアジア諸国のキリスト教会と私たちが関係を再構築してゆく上で、非常に重要な貢献をしてきました。私自身、留学先で韓国からの留学生と、同じ神学を学ぶ仲間として友人になろうとしたとき、この先達の勇気ある発言にどれほど助けられたことでしょう。

V

 だから私たちは、キリストに代わる使者として働く。神が私たちを通して語りかけるそのままに。キリストに代わって、私たちは頼みたい。君たちは神と和解しなさい。罪を知らない者を(神は)私たちに代わって罪とした。この私たちがその人にあって神の義となるためである。(20-21節参照)

 「キリストに代わる使者」としてパウロは、コリント教会の信徒たちに向かって「神と和解しなさい」と言います。和解の主体はじっさいには神なので、またその和解は神によってすでに提示されているわけですから、和解を受け入れるという意味での信仰は、二次的な承認を意味するでしょう。すでに与えられている神の現実に基づいて歩もうという意味です。

 最後の文はとても重要です。「罪」と「神の義」の交換(差し替え)が語られています(「和解」と訳されるギリシア語の原義が「交換」です)。この交換によって私たちの罪は義と、すなわち死は命の交流の関係に差し替えられます。しかもそれは「神の」義、すなわち「神が作り出す」関係の再生と言われています。

 神が作り出す関係の再生――これは私たちが切に望んでいることです。それに至るためなら、パウロのように、キリストの死の衝撃に襲われていったん死んでもよいと感じます。無力な愛の神は、その全能のみ手をもって、私たちを和解の使者という奉仕に向けて起こして下さるにちがいありません。


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Emmanuel

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