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- 死んでいたのに生き返り
⇒「死んでいたのに生き返り」陶山 義雄エレミヤ書31,31-34; 5月26日の日曜日から数え続けて来ました三位一体の聖日は本日、その第20主日を迎えています。これもあと3回で終わり、その後はいよいよ新しい年から逆算して聖日を数える、新年・準備の礼拝に変わります.。そこでローズンゲンでは、そろそろ1年を締めくくる準備の聖句が組まれ始めています。今週の聖書は「罪を悔い改めて、新しい命に生きる」ことに向かって、テキストが選ばれています。ルカ福音書15章の「放蕩息子」の譬話は、教会暦のそのような関連の中から選ばれています。これは余りにも有名な譬話ですから、殆ど説明を必要としない、どなたもご存知の話しであろうと思います。イエスは譬で多くの話を人々になさいましたが、どの譬話もそれを作った方の優しさが
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- 信ずる者を義とする
⇒(MP3, 32kbps)「信ずる者を義とする」廣石 望創世記15,1-6; I 「神の義」に二つの意味があると言われています。 ひとつめは神が悪を罰して、バランスを回復するという意味の正義です。悪とは「律法」に反する人間の行為です。パウロによれば、この意味で機能する「律法」は、私に罪の自覚を生じさせます。「私は罪人だ」という自覚です。そして正義の回復とは「私の死」のみを意味します。 もうひとつの「神の義」とはプレゼントとしての赦し、神から与えられる関係の回復です。この義は、罪の自覚の有無を根拠としません。むしろ神の側からの自発的な赦しに基づく救いです。人はこれを自分の力で作り出すことはできません。人にできるのは提示された恵みを感謝して受けとるか、あるいはこれを拒絶することだけです。 前
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- 臨終の時にも心強い
⇒(MP3, 32kbps)「臨終の時にも心強い」陶山義雄創世記22,1-13; 先週の木曜日・10月31日は宗教改革記念日でした。私たちの教会では、同じく先週の日曜日に音楽礼拝の中で、宗教改革を覚えて感謝の礼拝を捧げました。マルティン・ルターが何故、10月31日にウィッテンベルグの教会扉に95か条の意見書を掲げ、これが、改革の狼煙火となったことについて、本日の週報「牧師室から」の中で触れさせて頂きました。それは、ハロウィーンと呼ばれる31日と、その翌日、すなわち11月1日には万聖節と言う、お祭りがあって、大勢の人々が教会に来られる、この時を見計らって、出来るだけ多くの人々に95か条の意見書を見て欲しいとルターが願っていたから、ルターは10月31日を選んだものと思われます。プロテスタント教
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- あらゆる民に
⇒(MP3, 32kbps)「あらゆる民に」廣石 望創世記12,1-4; I 本日のテキストは、マルコ福音書で、イエスが「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」という神殿崩壊預言を行い(マルコ13,2)、それはいつ起こるのかと問う弟子たちにイエスが返答する場面に含まれます。 このイエスの預言は、彼の死後およそ35年後に起こった第一次ユダヤ戦争(紀元66-70年)で成就しました。それはユダヤ人による対ローマ武装独立闘争でした。開戦当初はユダヤ側が有利に戦いを進めましたが、しだいにローマ軍が巻き返して結果的にユダヤ側の敗北で終わりました。そのさいエルサレムのヤハウェ神殿がローマ軍によって破壊されたのです。 戦争以前のエルサレムの原始キリスト教団では、ユダヤ人キリスト教が主流を占め
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- 仕える者のように
⇒「仕える者のように」廣石 望ミカ書7,14-20; I 今日のテキストであるルカ福音書のエピソードは、「主の晩餐」と「ペトロの離反預言」のエピソードに前後を囲まれています。弟子たちは、あろうことか主の晩餐の席で、「自分たちのうちで誰が一番偉いだろうか」という議論を始めるという設定です。イエスとのこの上ない一体性を強調する「主の晩餐」と、この一体性が脆くも崩壊してゆく「ペトロの離反」との中間に、「上に立つ人は仕える者のようになりなさい」というイエスの教えが置かれています。分裂の危機における一致の基盤が何でありうるかという問いに示唆を与えるテキストだと思います。 そのさい「食卓」という場面設定が一方では「奉仕/給仕」、他方では「権力/支配」という二つの意味関連を生み出すための象徴的な役割を演じ
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- 聖霊によって
⇒(MP3, 32kbps)「聖霊によって」廣石 望イザヤ書7,1-17; I 本日からアドヴェント(待降節)の季節が始まりました。先ほど「いま来りませ」という有名なアドヴェントの賛美歌を歌いましたが、もともとの出だしは「いま来れ、異邦人たちの救い主よNun, komm der Heiden Heiland」というものです。なぜ「異邦人たちの」つまり「異教徒たちの」と歌われるのでしょうか? マタイ福音書の誕生物語を手がかりに、そのことを考えてみたいと思います。 II その前に、少しだけ古代キリスト教の暦についてお話します。 キリスト教は最初の300年ほど、12月25日をキリストの誕生祭として正式に祝うことはありませんでした。もともと誕生日を祝うのは異教の習慣で、ユダヤ人はその乱痴気騒ぎを嫌っ
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- お言葉どおり
⇒(MP3, 32kbps)「お言葉どおり」廣石 望創世記21,1-8; I 新約聖書の中心はイエス・キリストへの信仰です。それでもアドヴェントの季節には、イエスの母マリアについて語られます。新約聖書が彼女について伝えることは、後のマリア崇拝の伝統の大きさと比較すると、たいへん断片的で、驚くほど少しのことしか分かりません。それでも彼女についての伝承をつなぎ合わせると、歴史的に本当らしいものとして、およそ次のような輪郭が浮かび上がります。 彼女はイエスの母で、その名はヘブライ語に言う「ミリアム」、出身はガリラヤ地方のナザレ村です(ルカ1,26)。木材ないし石材加工を生業とする夫ヨセフとの間に(マタ1,16、ルカ1,27その他)、長子イエスをはじめ複数の息子たち、娘たちをもうけています(マコ6,
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- 預言者以上の者
⇒(MP3, 32kbps)「預言者以上の者」廣石 望マラキ書3,19-24; I 学生に「クリスマスに来るのは誰でしょう?」と尋ねると、およそ半数が「サンタクロース」と答えるような気がします。 「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」という洗礼者ヨハネがイエスに差し向けた問いは、――サンタクロースのことはさておき――真剣に問われてしかるべきです。「来るべき者」とはどのような存在であり、それは誰であり、またどのような意味でその人の到来が福音なのでしょうか? 一般的なこととして、「これが真理だ」「本物の権威だ」と主張されるとき、「その証拠は何ですか?」という問いが返ってくることがあります。そして「これが証拠です」と何かを見せたとき、「そのまた証拠はありま
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- 天使の歌
⇒(MP3, 32kbps)「天使の歌」廣石 望ホセア書11,1-9; I 天使が羊飼いたちに救済者の誕生を告げたという物語は、今朝、世界中の教会で朗読されていることでしょう。ベツレヘム近郊の野原で、寝ずの番で放牧されている羊たちを守るという重労働をしていた人々を天使が訪れて、ダビデの町に救済者が誕生したことを告げ、彼らは生まれたばかりの赤ん坊を見に行ったというストーリーです。 マタイとルカによる福音書では、イエスの誕生物語に天使が登場します。マタイ福音書の天使は、マリアの夫ヨセフの夢に現れて、妻と息子イエスを守るための指示を必要に応じて的確に与えます。 他方、ルカ福音書では、天使ガブリエルが登場します。まず洗礼者ヨハネの父ザカリアに現れて、息子の誕生を告知し、次にはナザレの少女マリアに現れ
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- 今こそあなたは
⇒(MP3, 32kbps)「今こそあなたは」廣石 望申命記26,1-11; I 私たちの日常生活で、誰かや何かを讃えて皆で歌うことは少なくなりました。私たちに親しいのはニュース報道などの「情報」系の言語、コマーシャルや娯楽番組などの「消費」系の音楽などです。教会その他の宗教団体で歌う賛歌を除けば、何かを讃えて歌うといえば、もはやお誕生日の「ハッピー・バースデイ・トゥー・ユー」くらいではないでしょうか。 先日、勤め先の大学で、例年どおりにクリスマス礼拝がありました。そこに参加した卒業生の方が、礼拝後にお手紙を下さいました。キリスト教主義の学校に通う学生たちにとって礼拝に参加して、いっしょに賛美歌を歌い、聖書のお話しを聞き、心を合わせて祈るという経験ができること、そうすることで美しい心を育てる
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- 行く手には光
⇒(MP3, 32kbps)「行く手には光」秋葉正二イザヤ書60,1-3; 黙示録の一節から学びます。黙示録については皆さん大体のことはご存知だろうと思います。黙示文学という象徴表現の多い、そのままでは文意をつかみにくいジャンルに属している新約聖書唯一の文書です。きょうはこの書物が、アジア州の諸教会が殉教の危機に直面している時、激励のために書かれた文書であるということと、そのために主イエス・キリストの恵みを教会員たちのために祈る内容を持っているということだけを心に留めておいてください。 せんだって私たちはクリスマスを祝いました。キリストの生誕物語をお読みになったと思いますが、そこでは遠く東の方から占星術の学者が旅をして、夜誕生したイエス様にまみえます。また真夜中、羊の群れを守る羊飼いに光で
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- ‘山上の説教’から歩む一年
⇒「‘山上の説教’から歩む一年」秋葉 正二申命記8,5-6; 今年も世界の民族問題は厄介な火種をたくさん抱えているようです。中でも中国やロシアの少数民族問題は、誰が見ても簡単には解決されそうにありません。日本でもずっと前から、アイヌの人たちや沖縄の人たちが民族としての存在証明を主張してきました。けれども多くの日本人にはそうした声は、他人事としてしか聞こえていないようです。イエス様の死後、ユダヤ教からキリスト教が生まれましたが、ユダヤ教はあくまでもユダヤ人の宗教であったことに対し、キリスト教は明確に民族を超える視点を備えていました。このことは、宗教を考える上でとても大きな意味を持っています。 およそ世界宗教と呼ばれるものは、民族を超えて世界で広く信仰される素地を持っています。キリスト教の場
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- 落ち穂拾いの背景
⇒(MP3, 32kbps)「落ち穂拾いの背景」秋葉 正二; ルカによる福音書14,13-14 ルツの話には何とも心温まるものがあります。姑ナオミと嫁ルツの仲睦まじい関係が農村民話風に描かれています。時代設定は冒頭に『士師が世を治めていたころ』とありますから一応士師時代です。イスラエルの女性ナオミになぜモアブ人のルツが絡んでいるのかと言いますと、そもそもはイスラエルに飢饉があったので、ナオミ夫婦がモアブの地に移り住んだというのが始まりです。異邦人、しかも多くの場合当時あまり顧みられなかった女性が主人公として登場し、彼女が異邦人であるにも拘わらず、ねんごろにイスラエルで処遇されたというストーリーは、旧約の物語では珍しい状況設定です。士師時代と言えば紀元前11世紀頃から13世紀頃を考えますが、内
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- 権威ある者
⇒(MP3, 32kbps)「権威ある者」廣石 望エレミヤ書1,4-10; I 権威とは何でしょうか?――ある辞典には、「自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと。威嚇や武力によって強制的に同意・服従させる能力・関係である権力とは区別される」とあります(日本語wikipediaより)。 1970年代の学生たちの反乱、1990年代以降のグローバリゼイションの進展とともに進んだ価値の多様化の中で、現在ではあらゆる「権威」に――しばしば「権力」と混同されるかたちで――疑いの眼差しが向けられています。 他方で、他人から羨ましがられる存在という意味の「人気者」ならば、テレビや政治の世界にたくさんいます。例えば学校のクラスには苦労せずによい成績をとり、仲間たちや教師から一目置かれ、皆を笑わせること
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- あなたの神を愛しなさい
⇒(MP3, 32kbps)「あなたの神を愛しなさい」秋葉 正二; マタイによる福音書4,10-11 先日は、日本古来の多神教こそ包容力がある教えで、唯一神教は狭く排他的だとする主張がこの国で目立つようになっている、というお話しをしました。きょうの話も少しこれに関わります。申命記のテキストの小見出しは「唯一の神」となっていまして、聖書の神さまが唯一神であることが再確認されています。神さまが命じる戒めと掟と法をしっかり守って生きて行くならば、乳と蜜の流れる土地で祝福されますよ、ということが3節までに書かれています。続く4節5節にはイエスさまも引用された有名な言葉があります。イスラエルの神は唯一の主であることと、この神さまを誠心誠意愛しなさいという命令です。「主」と訳されているへブル語はヤーウェ
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- イエスの姿が変わられた
⇒(MP3, 32kbps)「イエスの姿が変わられた」秋葉 正二詩編54,3-9; 主イエスの山上の変貌記事から学びます。マルコとルカに並行記事がありますので、一緒に読むと参考になります。もちろんそれぞれ福音書記者たちの編集作業が加わっていますので、数字の違いとか文脈の組み立て方に相違があります。並行記事ですから共通点も多くありまして、イエスさまが側近ともいうべき三人の弟子たち、ペテロ・ヤコブ・ヨハネだけを連れて山に登られたという状況設定は共通です。 さて山上で不思議な情景が繰り広げられています。なんと三人の見ている前で、イエスさまの顔の様子が変わり、服が真っ白に輝くのです。そればかりが、モーセとエリヤが現れて、イエスさまと語り合います。モーセとエリヤといえば、紀元前13世紀とか9世紀とか
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- 生命から命へ~二重の身分
⇒(MP3, 32kbps)「生命から命へ~二重の身分」陶山 義雄エゼキエル書37章1-14節; 2月の最後の聖日、また、2月最後の週を迎えて、厳しい冬を今年も乗り越えることが出来るところまで来た喜びと、春の訪れが待ち遠しく感じられる時を迎えています。毎年、2月の終わりから3月の初めにかけて、廣石先生がインドにお仕事で出張される、留守の間、私は講壇を委ねられ、教会員で何か事が起きた時の対応を求められて参りました。昨年も、また、一昨年もこの時期に、親しくしていた大切な教会関係者が亡くなられて、葬儀を執り行い、身元にお送りいたしました。その度に聖書の教えが、とりわけ、復活信仰が、どんなに大きな支えになっているかを思い起こし、感謝の念に満たされたのが、この時節でありました。本日取り上げた聖書の言
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- 新しい自分を得る
⇒「新しい自分を得る」秋葉正二詩編49,6-13; 今週5日は「灰の水曜日」、いよいよ受難節(レント)に入ります。日曜日を除く、イースターに先立つ40日間です。モーセやエリヤに始まって、イエスさまが断食した期間が40日ですから、40は象徴数です。私たちキリスト者にとっては、十字架にかけられた主イエス・キリストの受難を想起して、悔い改めや克己精進に努める大切な期間でもあります。また断食期間をも意味します。断食したり灰をかぶったりする慣習をただ古いものだとするだけではなく、現代の私たちもいろいろな場面で節制を心がけることは意義あることでしょう。本日のテキストも受難に関わります。すぐ前の記事にペテロが『あなたはメシアです』と告白した場面がありますが、この告白を聞いたイエスさまは『人の子は必ず多く
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- 悪魔の誘惑と現代
⇒(MP3, 32kbps)「悪魔の誘惑と現代」秋葉正二詩編91,1-16; もう何度も読んでこられたテキストだろうと思います。悪魔が次々と誘惑の魔手をイエスさまに伸ばす場面です。ここから私たちは何が学べるでしょうか。現代的な意味を何か取り出すことが可能でしょうか?まず前後のテキストを見てみたいと思います。バプテスマのヨハネの記事が直前にあります。バプテスマのヨハネが「悔改めよ」と叫んでいるのですから、当時がよい時代でなかったことは確かです。圧倒的な力でローマ帝国が君臨していた時代状況の中で、一体どうしたら自分たちは救われるのだろうか、という悩みはイスラエル人にとって深刻だったはずです。ヨハネは「神の国は近づいた」と言っていますから、何か新しい出来事が間近に迫っていたことを感じていたのでし
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- 隅の親石―人生の力
⇒(MP3, 32kbps)「隅の親石―人生の力」秋葉正二詩編35,1-16; イエスさまが語られた「ぶどう園と農夫のたとえ」から学びます。最初にこの譬え話の位置づけを申しますと、イエスさまのエルサレム入場後、即ち最後の一週間の三日目にエルサレム神殿内で行われた五つの論争物語の中に挟み込むように置かれていますので、受難という大きな枠組みの流れの中にこの譬え話が位置づけられていることを確認しておきたいと思います。 ストーリーを要約すると、こうなります。ある人がぶどう園を作り、それを農夫たちに貸して旅に出ました。収穫時期になったので、地主でありぶどう園主であるオーナーは一人の僕を送って、収穫の分け前を取り立てさせようとします。しかし農夫たちはその僕を袋叩きにして、手ぶらで返すのです。そこでオー

- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
