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- 神の国と家族
⇒「神の国と家族」廣石 望列王記上19,19-21; I イエスが伝えた「神の国」のメッセージは、彼とその家族にとって何を意味したでしょうか? イエスは「神の国」について宣教するとき、一家の長としての役割からは離脱していたようです。そうしたイエスの生き方と、彼の受難の運命は、何か関係があるのでしょうか? またそのことから、現代社会における苦しみを理解するための手がかりはあるでしょうか? イエスはパレスティナ北部、ガリラヤ地方の寒村ナザレの出身です。およそ30歳になったころ、洗礼者ヨハネから洗礼を受けるために、南部ユダヤ地方のヨルダン渓谷に下ってゆきました。おそらくこの時点で家族をいったん棄てています。その後、ヨハネから独立してガリラヤに戻り、同胞ユダヤ人が暮らす村落に「神の国」の到来を告げ
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- 僕になりなさい
⇒(MP3, 32kbps)「僕になりなさい」秋葉 正二ヨブ記19,21-27; 受難節も押し迫ってきて、来週はいよいよ棕櫚主日を迎えます。受難の関連記事事から学びます。きょうのテキストは、エルサレム途上にあった主イエスに向かってヤコブとヨハネの二人の弟子が願い事を申し出ることから始まります。 彼らが言いますには、主が栄光を受けられる時に、自分たちを主の右と左に座らせて欲しい、ということでした。そこでまずこの右と左という表現を取り上げて、どんな意味が込められているのかを考えてみます。聖書の世界では右を上位とする例があります。創世記35章にあるヤコブの話です。妻ラケルが難産の末、二番目の男児を産み落とそうとする時、名前をベン・オニ(私の苦しみの子)と名付けて欲しいと言って息を引き取ります。父
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- マナを食べて生きる
⇒(MP3, 32kbps)「マナを食べて生きる」秋葉 正二; ヨハネによる福音書12,20-26 申命記は荒れ野の40年の過酷な旅のリーダーであったモーセの説教という形式を採っています。 イスラエルの民に向かって律法の説き明かしをしたと冒頭に書いてあります。 そこでは「あなたたち」 と呼びかけて、戒めを守ることは神と共に生きることですよ、と諭しています。 「あなたたち」は文字通り解釈すれば、荒れ野の旅を共にしたイスラエル人ということになりますが、申命記の編集者は編集の狙いとして、モーセの言葉を聞く者すべてに対象を広げています。 ですから私たちも今モーセから呼びかけられているというつもりで、み言に耳を傾けることが可能です。 3節には、イエスさまが荒れ野の誘惑の場面で、サタンに応え
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- 歓呼の中、ろばの子に乗って
⇒(MP3, 32kbps)「歓呼の中、ろばの子に乗って」秋葉 正二ゼカリヤ書9,1-10; 棕櫚の主日を迎えました。 棕櫚主日の舞台は、イエス様一行のエルサレム入城です。 その日は過越しの祭でエルサレムには大勢の人々が各地から集まってきていました。 ナザレのイエスの名は多くの人に伝わっていたとみえ、群衆はエルサレムに入るイエス様の姿を見て、ナツメヤシ即ち棕櫚の枝を手に取って歓呼して出迎えています。棕櫚はイスラエルでは勝利の平和のシンボルでした。13節によると群衆が叫んだ言葉は『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。』というものです。「ホサナ」というのはアラム語で、学者の分析によるともともとは二つの言葉からつくられたようです。「救ってください、お願
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- 新しい命が始まる
⇒(MP3, 32kbps)「新しい命が始まる」秋葉 正二エゼキエル書37,1-6; マルコ福音書の復活の朝の描写は、「安息日が終わると」という書き出しで始まっています。ユダヤ教の律法では安息日には何もしてはいけないわけですから、十字架刑によって死んだイエス様の遺体をアリマタヤのヨセフは忙しく墓に納めたことでしょう。安息日の間は誰も何もしません。そして週の初めの日、即ち日曜日の早朝、待ちかねたようにイエス様に最後まで従い通した女性たちが遺体に香料を塗るという処置のために墓に向かいました。マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、そしてサロメという3人の女性たちです。彼女たちはこの時だけ主イエスのお世話をしようとしたのではなく、十字架上で主が息絶える時にもそれを見守っていた人たちですから、イエス様
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- 一人の羊飼いに導かれ
⇒(MP3, 32kbps)「一人の羊飼いに導かれ」秋葉 正二民数記27,12-17; 元来遊牧民であったイスラエルの人々にとって、羊飼いの話は旧約時代からよく耳にしてきたことです。イエス時代も羊飼いとして生きる人たちが町の周辺におり、既に遠距離を移動する羊飼いは少なく、比較的町からあまり遠くない場所で羊を飼い、時には農業もやるといった半農半牧の人が多かったと見られています。当然町の人々とも交流が生まれますから、羊飼いの生活の様子は町の人々にも日常的に身近に見られるものでした。ですからイエス様が羊飼いの譬え話をすれば、みな実感をもってその話を聞けたのです。残念ながら私たちにはそうした実感はありませんから、できるだけ当時の日常生活の知識を仕入れて、イエス様の話を伺うしかありません。 そもそも
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- 良いぶどうが実る
⇒(MP3, 32kbps)「良いぶどうが実る」秋葉 正二イザヤ書5,1-7; イエス様はいわゆる最後の晩餐の席で幾つかの意味深い言動を残されました。弟子たちの足を洗われたり、ユダやペテロの裏切りを指摘されたかと思うと、一方では弟子たちには別れるに際しての約束と教えを残されています。きょうのテキストは、この時の二番目の決別説教と呼ばれる箇所です。実は、この箇所は聖書学的に前後の配置をめぐっていろいろな解釈が生じる難しい箇所です。あまりそうした解釈に振り回されていても、私たちにはあまり得ることもないと思いますので、ここではイエス様の話の内容に集中することにします。 この箇所は、いわゆる「ぶどうの木の譬え」と呼ばれる所です。イエス様は 『わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である』 と
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- わたしのもとに来なさい
⇒「わたしのもとに来なさい」秋葉 正二イザヤ書29,13-14; 「その時」という言葉できょうのテキストは始まっています。さらっと訳されていますが、「その時」とはどんな時を指すのかと言うと、解釈の問題が絡んできます。考えられる一つは、イエス様を取り囲む状況です。イエス様は初期のガリラヤでの活動によって人々に大きな反響を引き起こしましたが、そうした熱狂的な時期を過ぎると今度は反対派が台頭してきます。イエス様を拒絶する人々も出て来ます。すぐ前に「悔い改めない町を叱る」という小見出しの記事がありますが、これは伝道活動にもかかわらず悔い改めなかったガリラヤの町々のことを述べたものです。そのようなガリラヤの変化した状況を「その時」という表現は反映しています。そうしたことを最初に念頭に置きながら、きょ
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- わたしは既に世に勝っている
⇒「わたしは既に世に勝っている」秋葉 正二イザヤ書52,7-10; イエス様は世を去るにあたって、後に残る弟子たち、もちろん現代の私たちをも含めて、あなたたちを見捨ててみなしごにはしておかない、助け主なる聖霊を送る、という約束の言葉をくださいました。 聖霊とはもちろん今も私たちと共にあるイエス様のことです。 この聖霊・助け主を送るという約束が、ヨハネ福音書の一つのテーマになっています。 さてきょうのテキストですが、28節までは神様からこの世へ遣わされたご自分が神様のもとへ帰るというイエス様の講話です。 それに続く29節30節には、そのことを受けとめるには弟子たちの信仰と理解が不十分であったことが記されます。 そうして30節以降では、最後の締めくくりとして、きょうの説教題にもあります 『わた
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- わたしたちの生き方とその課題
⇒「わたしたちの生き方とその課題」秋葉 正二詩編68,20-36; ヨハネ福音書の15章は「ぶどうの木とその枝」のたとえ話から始まっています。そこではイエス様と弟子たちの生命的な関係が論じられます。その後は、弟子たち相互の関係が愛を軸にして語られ、さらに話は弟子たちとこの世との関係に発展していきます。この世というのは先週も触れたように、ヨハネが多用するコスモスという言葉で、私たちを包む世界です。イエス様は、この世がイエス様を憎んだように弟子たちも憎むよという話をされながら、迫害という具体的な話を持ち出されます。イエス様に対する最大の迫害はもちろん十字架刑ですが、ここではその十字架への道がいよいよ近づいていることが暗示されています。そのことをもっと掘り下げて行くと、その先には「ぶどうの木とそ
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- わたしの平和を与える
⇒(MP3, 32kbps)「わたしの平和を与える」秋葉 正二士師記6,19-24; きょうはイースターから50日目、イエス様が約束された通り、弟子たちに聖霊が注がれたことを記念する日です。「使徒言行録」は、聖霊が降った瞬間を情景として2章の冒頭に記しています。そこをまず読んでみましょう。『五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。』この時から弟子たちは、天におられるイエス・キリストから聖霊を降された群れとして福音を宣べ伝えていきます。ですから後の教
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- 神さまにつながっているわたしたち
⇒(MP3, 32kbps)「神さまにつながっているわたしたち」秋葉 正二エフェソの信徒への手紙6,1 きょうは「家族音楽礼拝」ですから、教会学校の皆さんとお父さんやお母さん、教会の人たち、みんなが一緒に礼拝を守っています。ふだんは教会学校の礼拝、大人の礼拝と別々ですから、こうしてみんなが一緒に礼拝を守ることができるのはとても嬉しい出来事です。さきほど読んだきょうの聖書のお言葉を思い出してください。『子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。』イエスさまの時代から、ずうっと二千年もこの言葉が伝えられていることは驚きです。でも実はイスラエルの人たちは、イエスさまの時代よりも、もっと昔からこの教えを守ってきたのです。それは「十戒」と呼ばれる教えです。十戒の戒は「教
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- 金持ちと貧しい人
⇒(MP3, 32kbps)「金持ちと貧しい人」秋葉 正二イザヤ書58,3-11; 富について聖書から学ぼうとする時、一貫した見方・考え方を見出すことは簡単ではありません。 個々の文書によって富に対する見解が異なるからです。 富むこと自体は親から財産を貰おうと、自分で稼ごうと、生きている結果として現れ出る一つの状態ですから、もしそこに個人的な価値観を反映させようとすれば、金持ちならば富を肯定的に見るでしょうし、貧乏ならば批判的になるだろうと思います。 教会の中にもお金持ちがいるし、貧しい者もいます。 またそうは言っても、一人ひとり貧富の判断基準が違いますので、そのことも考えておく必要があります。 とにかくいろんなことを含んだ上で、キリスト者ならば、自分の置かれた状態を超えて、金持ちであろうと
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- 大宴会への招き
⇒(MP3, 32kbps)「大宴会への招き」秋葉 正二イザヤ書25,4-10; 盛大な宴会の譬え話です。 そもそもこの譬え話は、1節にあるように、イエス様が食事のためにファリサイ派の議員の家に入られた、というところから始まっています。 そこでイエス様は教訓を示されるのですが、その教訓に対して、来客の一人が “神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう” と応じたことから、きょうのテキストが始まっています。 つまり、その発言にイエス様は譬え話をもって応じられたわけです。 来客の言葉にあるように、「神の国での食事」あるいは「神の国への招き」がテーマです。 なぜ神の国での食事が幸いなのか、その理由をイエス様は譬えで語られました。 その譬え話の材料が既に旧約聖書にありましたので、イエス様
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- 急いでいちばん良い服を
⇒(MP3, 32kbps)「急いでいちばん良い服を」秋葉 正二ホセア書11,1-9; イエス様の譬え話です。最初に1-3節を読みましたが、ここには譬えが語られた状況が記されています。徴税人や罪人がイエス様の話を聞こうと近寄って来ると、ファリサイ派の人々や律法学者たちが呟きます。『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』。これはイエス様への非難です。そこでイエス様は、三つの譬え話を語られました。 三つとも何かを失うという話で、失ったものが発見されて喜ぶ、という内容です。そのうちもっとも発展的な話が11節以下にある「放蕩息子の話」で、多くの作家や画家が作品テーマとして取り上げているわけですから、内容的に余程深いものがあるのです。放蕩息子という表現はいささか古い言葉づかいですが、要す
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- モアブの女の血筋
⇒(MP3, 32kbps)「モアブの女の血筋」秋葉 正二;ヨハネによる福音書4,7-14 ルツ記は小さな書物ですが、読む者の心を打つ、文学的にもすぐれた作品です。 皆さんの中にはルツ記が「なぜこんな場所に、つまり士師記やサムエル記のような前期預言者と呼ばれる文書群の中に置かれているのだろうか?」と思われた方がおられるかも知れません。 最初に少しだけそのことについて触れておきます。 旧約聖書の書物群はもともと三つに分けられていました。 「律法」と呼ばれるモーセ五書が一番目、二番目は「預言者」と呼ばれる文書群で前期と後期の預言書がこれに属します。 最後の三番目が「諸書」と呼ばれる言わば律法・預言者以外の雑多なグループです。 ルツ記は旧約原典では三番目の「諸書」に属します。 ところが旧約聖書がへ
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- 沖へ漕ぎ出して網を降ろす
⇒(MP3, 32kbps)「沖へ漕ぎ出して網を降ろす」秋葉 正二創世記35,1-5; 皆さまも幾度となく読まれてきたテキストだと思います。 ガリラヤ湖畔に立たれたイエスさまの目に映った情景が描かれています。 まず、イエスさまの話を聞こうとして群衆が押し寄せてきます。 しかしイエスさまの視線は群衆にではなく、岸にもやいであった二艘の舟に向けられました。 そこでは漁師たちが舟から上がって網を洗っています。 漁師と言えば、私たちのイメージの多くは彼らが船上で懸命に仕事をしている風景です。 確かに船上の仕事は漁師の中心ではありますが、それは一部です。 以前牧会していました南九州の志布志という町は漁師町でもありました。 町の一画に漁港がありまして、魚の水揚げをしてそれを競りにかける建物があります。
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- 人の思いと神の思い
⇒(MP3, 32kbps)「人の思いと神の思い」松本 敏之箴言19章21節;(1)ヤコブとヨハネが召された時 牧師になることを一般的に献身するという言い方をすることがあります。牧師という仕事は召命感をもってする仕事であると言われます。事実、そのとおりであると思いますが、今日は、与えられたテキストを通して、改めて献身するとはどういうことなのか、主に従っていくとはどういうことなのか、牧師になるとはどういうことなのか、ということを考えてみたいと思います。それはひいては牧師ではない信徒の方々にとっても意味のあることでしょう。今日のテキストは、このようにはじまります。 「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした」(20節)。「ゼベダ
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- 戦争は足許に
⇒(MP3, 32kbps)「戦争は足許に」秋葉 正二アモス書2章4-16節; 今年も「平和聖日」を迎えました。平和思想は古代からあり、その「平和」とは、ある時代のある地域の秩序が安定して保たれている状態、つまり戦争がない状態を意味しました。戦争になれば必ず悲惨な光景が現われます。その悲惨を味わうのは戦争に負けた敗者の方です。日本も太平洋戦争に負けていろいろな悲惨を味わいました。しかし勝者アメリカの方はどうだったでしょうか? 戦争に勝ってしまうと、戦争も平和を維持する手段の一つだ、と思い始めるのではないでしょうか。 アメリカ合衆国が、自分でもコントロールできない程世界一の軍事大国になってしまったのは、これまで経験した戦争にすべて勝利してきたからです。戦争に勝ち続けると、その国は高慢になってゆ
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- キリストの弟子であること
⇒(MP3, 32kbps)「キリストの弟子であること」秋葉 正二イザヤ書4,5-6; 先週私たちは「平和聖日礼拝」を守りました。 教団の教会員である以上、日本基督教団が「平和聖日」を定めた経緯は知っておくべきです。 それは、1962年の教団総会に西中国教区が「平和聖日」制定の建議を提出したことが発端でした。 先週から今週にかけて、新聞紙上には原爆関連記事がたくさん掲載されていますが、西中国教区が建議を出したキッカケは、被爆地である広島を抱えていたことです。 キリスト教の重要なキー・ワードは「愛と赦し」ですが、原爆まで使われた第二次世界大戦という戦争が、この「愛と赦し」に背いていたと西中国教区の皆さんは考えたのです。 “アメリカはキリスト教国なのに、どうして原爆なんか落としたのだ”と言う方が

- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
