Followers of Jesus Christ-Iamachristian.org
神さまからの預かりもの

⇒(MP3, 32kbps)「神さまからの預かりもの」秋葉 正二申命記30,9-10; マタイによる福音書25,14-30 きょうのテキストは「タラントンの譬え」と呼ばれる箇所です。ルカ福音書19章に「ムナの譬え」という並行記事がありますので、資料とされたもとの話があり、それをマタイとルカがそれぞれの編集意図をもってまとめたと考えられます。マタイでは主人と三人の僕が登場します。ストーリーは単純です。主人が旅に出るので、僕たちにそれぞれ違った額のお金を預けます。そして旅から帰ると預けたお金を清算するわけです。一人目、二人目の僕は預かったお金を元手に商売をしてもうけた、と報告すると『忠実な良い僕だ』とほめられますが、三人目の僕は預かったお金を地中に隠しておきそのまま返すと、『怠け者の悪い僕だ』と

祈りの家と強盗の巣

⇒「祈りの家と強盗の巣」秋葉 正二イザヤ書56,1-8; ルカによる福音書19,41-48 宗教には神殿がつきものです。 日本の神社にも本殿と呼ばれる神殿がありますし、教派神道系の宗教教団にも必ず天神地祇を祭る神殿があります。 エジプトやメソポタミアなど、古代オリエントにおいてもこのことは共通です。 イスラエルでは士師記の時代、既に神殿があったことがサムエル記(上1-3章)や士師記(18,31)に出てきますし、分裂王国になってもべテルとかダンの神殿は国家聖所に格上げされていますから、国家にとって重要な位置を占めていたことが分かります。 とりわけソロモンの神殿はその規模の大きさからも有名です。 イエスさまの時代のエルサレム神殿はいわゆるヘロデ大王が建立したもので、これも壮大な規模を誇ります。 

自分は正しい人間か

⇒(MP3, 32kbps)「自分は正しい人間か」秋葉 正二申命記14,22-23; ルカによる福音書18,9-14 「ファリサイ派の人と徴税人」の譬え話です。 ファリサイ派はイエスさまに何度も批判されていますので、私たち聖書を読む者は単純に、「ファリサイ派みたいにはなりたくない」とか「イエスさまに敵対しているようだから、悪人だろう」とか思いがちですが、社会的に見て一言で言えば、ファリサイ派は立派な人たちです。 どのように立派かと言いますと、まず品行方正です。 それは彼らの信仰理解に由来します。 彼らは律法を重視しました。 これは福音書からも分かります。 その重視の仕方なのですが、これが神殿を中心にして活動したサドカイ派とは異なり、口伝律法の重視でした。 口伝ですから、書物に記された成文律法

霊の耳が開かれる

⇒(MP3, 32kbps)「霊の耳が開かれる」秋葉 正二イザヤ書29,17-19;  テキストの31節には、イエスさまが「ティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通りぬけ、ガリラヤ湖へやって来られた」とあります。これらの場所については、聖書の後ろについている地図をご覧ください。地図には番号と太字の説明が振られているはずです。お分かりでしょうか。番号6「新約時代のパレスチナ」とある地図を見てください。 中央上の方にティルスとシドンという町の名が海沿いに記されています。イエスさまはそれらの町を通って、ガリラヤ湖の東南に位置するデカポリスを通りぬけ、ガリラヤ湖へやって来たということなのですが、どうもこの行程は理解しにくいのです。おそらく一度湖の東岸を通りぬけられて、デカポリスを縦断する

現代の祭司として生きる

⇒(MP3, 32kbps)「現代の祭司として生きる」秋葉 正二出エジプト記19,5-6;  先週の祈り会で「使徒言行録」2章43節以下を読みました。宣教方針にも掲げた聖句です。そこには初代教会の姿が描かれていますが、教会が誕生した時には固定化された制度や組織がなかったことが分かります。初代教会がスタートした時、特定の建物はなかったはずですから、信徒の家とか屋外とか集まれる場所ならどこででも礼拝を守ったのでしょう。 イエスさまの言葉に、『二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる』(マタイ18,20)というのがありますが、とにかく一緒に集まって礼拝しようと願って集まった所が教会でした。専用の建物を持つようになったのは後の時代のことです。ですから初代教会という原点

新しい関係の実現

⇒(MP3, 32kbps)「新しい関係の実現」秋葉 正二列王記下7,3-5;  1996年4月に「らい予防法」が廃止され、聖書に「らい病」とあった記述の変更要請が諸教会、諸教区総会などで決議されましたので、共同訳聖書委員会はそれらを受けて訳語の変更を決定しています。その結果、1997年4月以降発行の版から聖書の「らい病」という記述は「重い皮膚病」と改められました。私は鹿児島県鹿屋市にある国立ハンセン病療養所星塚敬愛園内にある恵生教会の金曜集会の御用を14年間務めさせて頂き、たいへん恵まれた信仰経験がありますので、その変更を感謝をもって受けとめた一人です。 最初に申し上げておきますが、今は「らい病」という呼称を用いません。菌の名称は「らい菌」です。病気自体は「ハンセン病」と呼びます。聖書の「

神さまの前では手ぶら

⇒(MP3, 32kbps)「神さまの前では手ぶら」秋葉 正二創世記1,20-28;  きょうのテキストは私たちが何度も何度も読んできた有名な箇所ですが、きょうは少し違った観点から読んでみたいと思います。カトリックもプロテスタントもほぼ共通に使っている「使徒信条」という古い基本信条があります。その解釈を巡っては現代的な理解の仕方からは問題も指摘されていまして、意識的に使っていない教会もあります。私が牧会していた九州の教会は戦前の日本基督教会でしたが、その伝統で礼拝プログラムの中に毎週「使徒信条」を組み入れていました。14年も毎週唱えていたので、私もすっかり諳んじています。イエス・キリストの生涯を短い言葉で表現していますが、その一節に「死にて葬られ」というくだりがあります。もちろんイエスさまが

今夜、お前の命は取り上げられる

⇒(MP3, 32kbps)「今夜、お前の命は取り上げられる」秋葉 正二コヘレトの言葉8,16-17;  きょうのテキストは寿命の話です。イエスさまが譬え話で人間の寿命のことについて触れられたのです。私たち人間の命はこの世に存在する期間が決まっていますが、それにもかかわらず人間は昔から不老長寿を求めて様々な努力をしてきました。遺伝子の解明が進み、クローン技術が登場した現代でも、寿命が永遠に続くとは誰も申しません。素粒子や放射性元素・分子などもある特定の状態に存在する時間が決まっているようですから、すべての物質には寿命がある、ということでしょう。使徒パウロは信仰の視点から、『わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存在するから

彼女の真剣さと信仰

⇒(MP3, 32kbps)「彼女の真剣さと信仰」秋葉 正二列王記上 17,8-24;  旧約聖書を読みますと「外国人」のことが度々出てきます。「寄留の他国人」といった表現です。ヘブル語で表現される「外国人」には区別があります。大きく四つに分けてみます。 第一番目は「ザール」という語です。 英訳RSVを見ますとStrangerと訳しています。このザールで表現される外国人は、古代イスラエル社会では何の権利も許されません。それどころか、イスラエルに降りかかるあらゆる災難の主犯であるかのように扱われています。例えばイザヤ書1章7節にはこうあります。神の審判がソドムやゴモラのようにユダの国に下される場面です。『お前たちの地は荒廃し、町々は焼き払われ、田畑の実りは、お前たちの目の前で 異国の民が食い尽

わたしの魂は主を待ち望みます

⇒(MP3, 32kbps)「わたしの魂は主を待ち望みます」秋葉 正二詩編130,5-6;  本日の礼拝は「宗教改革記念日・音楽礼拝」です。 改革記念日と言い方ですと、宗教改革が一回限りの出来事として捉えられますが、内実はキリスト教会の歴史の中で教会改革は絶え間なく続けられなければならないということです。 プロテスタント教会は聖書によって立ちますから、聖書を読み続ける限り、いつでもどこでも教会改革は起こるーーまずそのことを脳裏に刻んでおきたいと思います。 さて、旧約テキストの詩編130編はマルティン・ルターの「深き悩みより 我はみ名を呼ぶ」という讃美歌でおなじみの詩です。 現行讃美歌では22番と、先程歌った160番にこの詩が採用されています。 この詩の作者はどんな事情か分かりませんが、現実の

一つの世界を目指して

⇒(MP3, 32kbps)「一つの世界を目指して」秋葉 正二民数記20,6-8;  きょうは「世界聖餐日・世界宣教の日」を覚えて礼拝を守っています。私たちの小さな集まりでも、世界教会につながっている一つの肢として、「主の晩餐」に預かることの大切さをみ言葉から学び、もう一度その意義を確認できたらと願っています。テキストはパウロがコリント教会の人たちへ「偶像礼拝」を避けるように勧めている箇所です。14節に「こういうわけですから」とあるのは、すぐ前の箇所でイスラエルの先祖たちが出会った荒野における出来事を例に挙げて論じていることを指しています。その偶像礼拝の中身とは「悪霊の食卓に与ること」で、そういうものを避けなさいと勧めているわけです。16,17節は聖餐式の際に司式者が必ず読む部分ですから、ア

希望に生きる信徒たち

⇒(MP3, 32kbps)「希望に生きる信徒たち」陶山 義雄詩編139,1-24;  代々木上原教会は1997年7月13日にこの会堂で最初の礼拝を捧げてから、17年(1997年定礎)を迎えました。更に遡って上原教会から数えれば80年(1934年)、みくに伝道所が開かれてから45年(1969年鈴木正久牧師召天から数えて)、私たちは、本日の週報裏にあるように、多くの信仰の先達者を天国にお送り致しました。こうした方々を記念して私たちは、召天者記念の礼拝を毎年、11月に、関係するご遺族の方々とご一緒に捧げて参りました。親しい身内を亡くすことほど、悲しいことはありません。不幸と思える出来事の頂点に死があり、愛する者との離別があるのですが、愛する人を見送るばかりでなく、やがては、見送られる側に置かれる

ギリシア人への答え

⇒(MP3, 32kbps)「ギリシア人への答え」廣石 望コヘレトの言葉11,1-8; I キリスト教は、古代地中海世界の東端に位置するパレスティナ地方のユダヤ教から誕生し、やがて周辺世界に広がりました。それぞれの地域には古来、多様な民族が固有の文化と言語および宗教をもって暮らしていました。もちろん広域を支配する世界帝国はありました。とりわけ紀元前3世紀初頭のアレクサンドロスの東征以降、東地中海地域の諸民族の支配層ではギリシア文化が共有されました。現代社会で、諸地域の教養層が英語を話すのに似ています。 原始キリスト教が誕生したころの世界帝国はローマです。その安定支配の下で陸海の交通網が発達し、商業と文化交流が促進されました。「すべての道はローマに通ず」とあるとおりです、それに乗って、多くの

用意を整えて“待つ”

⇒(MP3, 32kbps)「用意を整えて“待つ”」秋葉 正二イザヤ書40,3-5;  来週はいよいよアドヴェントに入ります。 アドヴェントはローマ・カトリックとプロテスタントにとっては一年の暦のスタートであり、クリスマスを迎えるための備えのシーズンですが、そこにはやがて訪れるであろう救い主の誕生に「希望をつないで待つ」という意味が込められています。 教会色は普通紫を使います。 紫には悔い改めや慎みの意味がありますが、希望を抱いて待ち望むという意味も含まれています。 そこできょうはその「待つ」という点に焦点を当ててみます。 私たちキリスト者が来たるべき人を迎えようとして時を過ごす、準備して迎えるという意味で、「待つ」ことについて考えてみたいのです。 アドヴェントにおける「待つ」は「希望を抱く

不安に揺れる町

⇒(MP3, 32kbps)「不安に揺れる町」秋葉 正二ゼカリヤ9,9-10;   アドヴェントを迎えました。ローズンゲンに従ってイエスさまの「エルサレム入城」記事を読みます。エルサレム入城は、福音書においてとりわけ重要な位置を占める受難物語の導入部分にあたります。7節まではエルサレム入城に至る前段部分で、ここではイエスさまはどういう事情でロバに乗って入城されるようになったかの経緯が述べられます。ロバと子ロバという表現に関する問題がいろいろあるのですが、きょうは触れません。まず8節9節の入城シーンに注目です。大勢の群集の興奮ぶりが印象的です。イエスさまを迎えるのに、エルサレムの群衆は自分の服を道に敷いたり、木の枝を切ってそれを敷いたりしました。ヨハネ福音書によれば、その植物はナツメヤシだとあ

神の国の形

⇒(MP3, 32kbps)「神の国の形」秋葉 正二ホセア書4,1-3;  クリスマスが近づいている喜びとは裏腹に、相変わらず暗いニュースの多い昨今です。来週は総選挙が行われますが、新聞は国民の関心が薄いと報じています。大事な問題が沢山あるのに、どうしたことかといぶかしい気持ちです。政権与党は国民の関心の第一は経済にあると踏んで、アベノミクスという経済改革プログラムに争点を絞って選挙に臨んでいるそうです。 アベノミクスが成功しているのかそうでないのか、経済評論家の意見も一致していない中、是非を問うと言われても、私たち経済の素人にはなかなか判断のしようがありません。円安で輸出を中心とする製造業は確かに儲かっているのでしょう。株価が上がってもうけた人もいるはずです。しかし、私たち庶民にはまったく

イエス・キリストを迎えよう

⇒(MP3, 32kbps)「イエス・キリストを迎えよう」秋葉 正二イザヤ書40,3-5;  アドヴェントはイエス・キリストの降誕を待ち望む時ですが、それはキリストによってもたらされるよい知らせー福音を待ち望む時でもあります。待ち望みさえすれば何でも希望するものがやって来そうに思えますが、人間が望む通りによい知らせが来るとは限りません。今テレビでは年末ジャンボ宝くじの宣伝が毎日のように流されています。夢を買ったつもりでも、大みそかには皆ガッカリすることになります。ニュースにしても悪い知らせの方が圧倒的に多くて、喜びを与えてくれる知らせは本当に少ない気がします。聖書が告げるよい知らせー福音は巷のように失望や幻滅に終わることはありません。 私たちが待望するクリスマスのよい知らせは、二千年前にたま

力ある方の偉大な業

⇒(MP3, 32kbps)「力ある方の偉大な業」秋葉 正二サムエル記上2,1-10;  今日のテキストは「マリアの賛歌」(The Magnificat)と呼ばれる箇所です。マリアという女性は実に不思議な存在です。プロテスタントでは特別視せず、クリスマスにイエスさま降誕に絡んで集中的に登場する程度ですが、カトリックでは普段から聖母として頻繁に登場します。ヨーロッパの教会堂を見れば、あちこちマリア像だらけです。そこで、しばらく前の「祈り会」では数回にわたり、マリアについて勉強しました。マリア論の広さ深さについて改めて確認するよい機会となりました。プロテスタントの基本的な見方はあくまで聖書のマリアですが、その聖書のマリア像を探求することができる一つの手がかりが今日のテキストです。 ところで、キリ

神によって生まれた

⇒(MP3, 32kbps)「神によって生まれた」 廣石 望ヨハネによる福音書1,1-13よりI 皆さん、クリスマスおめでとうございます。 日本では、クリスマスにサンタクロースが子どもたちのところに来て、プレゼントをくれます。親でも祖父母でも親戚でもなく、まったくの見ず知らずの人が私を愛し、私の成長をかげで見守り、こうして毎年ちゃんと贈り物を届けてくれる。この経験が、成長してゆく子どもたちにとってどれほど大切なことか、私たちは知っています。 大人になってゆく若者たちは、しばしば「私は何になればいいのか?」と自問します。姉妹や兄弟あるいは友人、ましてや親と比較されると、たいてい情けなくなります。私のしたいこと・私だけにできることは何なのでしょう? 手相でも占ってもらおうかしら…。 大人になって

幼子は境界線を越えて

⇒(MP3, 32kbps)「幼子は境界線を越えて」秋葉 正二ヨエル書3,1-5;  教会暦は降誕節に入りました。世間ではもう既にクリスマスから正月を祝うことに意識は向いているようですが、私たちキリスト教会の中では、クリスマスの出来事は一層輝きを増して続いています。きょうのテキストは、降誕物語の後日譚の一つと言った位置づけでしょうか。際立ったストーリー性はあまり感じません。律法には「清めの儀式」が定められていましたが、その期間が過ぎたので、イエスさまの両親は幼子イエスをエルサレム神殿に連れて行ったようです。ヨセフとマリアは神殿に詣でることを実直に守った両親であった、つまり信仰深かったということです。もっとも、イエスさまの家庭がそうであったとしても、一般大衆の子どもについて言えば、こうした習慣

The Cross Pendant

He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

Buy Now

bible verses about welcoming immigrants

Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......

Blog
About Us
Message
Site Map

Who We AreWhat We EelieveWhat We Do

Terms of UsePrivacy Notice

2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.

Home
Gospel
Question
Blog
Help