イエス・キリストを迎えよう

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「イエス・キリストを迎えよう」

秋葉 正二
イザヤ書40,3-5;

 アドヴェントはイエス・キリストの降誕を待ち望む時ですが、それはキリストによってもたらされるよい知らせー福音を待ち望む時でもあります。待ち望みさえすれば何でも希望するものがやって来そうに思えますが、人間が望む通りによい知らせが来るとは限りません。今テレビでは年末ジャンボ宝くじの宣伝が毎日のように流されています。夢を買ったつもりでも、大みそかには皆ガッカリすることになります。ニュースにしても悪い知らせの方が圧倒的に多くて、喜びを与えてくれる知らせは本当に少ない気がします。聖書が告げるよい知らせー福音は巷のように失望や幻滅に終わることはありません。

 私たちが待望するクリスマスのよい知らせは、二千年前にたまたま起った偶然ということではありません。聖書が明らかにしていることは、旧約の時代から長い間、イスラエルの人々が神様の約束として待ち望んできたことであり、歴史を支配される神様の深い計画によりあらかじめ定められていたことです。旧約聖書を読まなくてはならない理由もそこにあります。ですからテキストの福音書はまずイエス・キリストについて語ることに先立って、3節に記されているように、イザヤ書の預言である「荒野に主の道を備える声」として登場する洗礼者ヨハネについて述べています。メシアの降臨をどう迎えたらよいのか分からない人たちにも、神様はヨハネを遣わしてあらかじめ周到な準備をしてくださったということでしょう。洗礼者ヨハネについては皆さまもご存知でしょう。テキストのすぐ前の6節には、ラクダの毛衣を着て、皮の帯を締めた姿が描かれているので、最初に読んだ時はちょっと驚かされます。そうした印象的な装いでの登場も、実は後に来られる方に読者の目を移行させるための記述であったかも知れません。

 『私よりも優れた方が、後から来られる』という一言で著者マルコが強調しているのは、洗礼者ヨハネの宣教の要約というよりは、彼とイエスさまの関係だと思うのです。ヨハネに意識的に注目すれば、彼の信仰の厳格さとか精神革命の闘士像とかが浮かんできますが、そうではなく、マルコは先ずヨハネにキリストの証し人としての位置を定めて、『後から来られる』という言い回しで、キリストであるイエスを指し示しています。旧約の時代にもメシアを指し示した信仰の証し人は何人もいましたが、洗礼者ヨハネはその最後の一人としてキリストを指し示したと言えます。ですから彼が『後から来られる』と言った時、その言葉はそれまでになかった鋭さで輝き始めるのです。ヨハネは「来られるでしょう」と未来形では言わずに、『来られる』と現在形で言いました。キリストの先駆者ヨハネが『後から来られる』と口にした時から、イエス・キリストはすべての人間にとって、なくてはならぬ存在になりました。つまり私たちにとっても、現臨の主が示されたのです。

 それにしてもキリスト降臨にあたって、何故ヨハネという先駆者が必要だったのでしょうか。私はそこに人間の罪が関わっているように思います。ただ単にキリストを指し示すだけならば、預言や律法で事足りたのかも知れません。しかし人間という存在は、いくらキリストに救いがあると強調したところで、その人に罪が絡みついているとすれば、滅びの淵に向かってずり落ちて行くことを止めることは難しいのです。精神的に死んでいる人間に、つまり罪にどっぷりとつかっている人間に、「イエスこそキリストです、イエスこそ救いです」と説いて見ても、立ち直ることは容易ではありません。それではどうしたら罪にまみれた人間が立ち直れるのか・・・救い主であるメシア、キリストが人間の前に現臨してくださるしかないのです。キリストが過去でもなく未来でもなく、今この現在に降り給う出来事、このことが必要なのです。はるか彼方の天国ということではなく、今ここに在り給う、この事実こそがよい知らせ、福音なのです。

 洗礼者ヨハネはその先駆けとなりました。彼は自分よりも後から来るキリストを「私よりも優れた方」と言いました。ヨハネには多くの弟子がいましたし、荒野で呼ばわるその声には、多くの人々を悔い改めに導く力があったのですから、ヨハネ自身が優れた人物であったことは確かでしょう。単純にきょうのテキストの前後を読み進んで行くと、ヨハネは罪人を厳しく裁く人で、イエスさまはその罪人を赦してくださる方だ、とイメージされる方もいらっしゃるでしょう。でも決してそれだけではありません。悔い改めを求めたヨハネは、その延長線上で罪の赦しを説いたでしょうし、イエスさまだってヨハネ以上に厳しい審きを行われたと思うのです。どういう表現が適切なのか分からないのですが、二人を並べてみると、より強く審き、より強く赦された主イエス・キリストに行き着くということになるでしょうか。

 ヨハネが7節後半で語った言葉はそのことを表わしていると思います。『私は、かがんで、その方の履物のひもを解く値打ちもない』。ヨハネは宗教教団の指導者ですから、教理的な解き明かしに自負があったでしょうし、首をはねられた程、権力に屈することのなかった人物です。そういう人が『その方の履物のひもを解く値打ちもない』と言い切ったことは重要です。彼は、この告白をもって自分のすべてが救い主キリストに吸収されたことを宣言したのです。自分には完全に出来なかった人間に関する救いのすべてが、後から来るイエス・キリストによって完成される、その準備が整ったと彼は告げているのです。

 こうして、8節では、ヨハネとイエスさまとの決定的相違が明らかにされています。それは、「水のパプテスマ」と「聖霊のバプテスマ」という表現で示されています。キリスト教の世界には、洗礼は形式に過ぎないから必ずしも必要ではない、と主張する人たちがいます。たとえば無教会派に洗礼式はありません。内村鑑三は例外的に三例の洗礼式を行っていますが、普通無教会派では洗礼式はありません。しかし私たち教会人も無教会派の主張を一概に退けることも出来ないと思います。なぜかと言えば、形式に過ぎないと言わざるを得ない洗礼式が現にあったからこそ、無教会派の人たちは自分たちの主張をされたと思うのです。しかしどの洗礼式が本物で、どの式が形式に過ぎないのか、絶対的判断を下すことなど誰にも出来ません。私たちは矢内原先生や塚本先生や高橋三郎先生が洗礼式を受けてないからキリスト者ではない、などとはまったく思いませんし、むしろそうした先生方が立派なキリスト者であることを疑いません。

 ただ教会に属する私たちは形式に過ぎないという主張に乗ることはできないのです。ヨハネによる水による洗礼も無意味とはみなしません。なぜなら、洗礼式は単なる形式ではなく、聖霊のバプテスマであることを信じることはもちろん、イエスさまご自身が水による洗礼から出発されているからです。それよりも私たちがいい加減な生き方をして、世間から「あなたはそれでも洗礼を受けた人なのか」と言われないように生きなければならないということでしょう。話が洗礼式云々に行ってしまいましたが、私たちが問わなければならない重要点は、洗礼式にしろ何にしろ、そこにキリスト現臨が内実としてあるか否かでしょう。とにかく私たちは今、「これからキリストがあなた達の前にお出でになる」、そう絶叫して神様に命を委ねた洗礼者ヨハネの声をアドベントの時の中で聴いているのです。世を救い、人の罪を贖ってくださるキリストの誕生を間近に待ち望んでいるのです。

 人間を新しくする力を持ち、新しい世界を開かれるお方の降臨はすぐ目の前です。私たちはこうした権能を持たれている神の御子を信じて歩んでいます。私たちにとってクリスマスは単なる祝い事ではありません。自分の生涯がかかっている、自分の存在を根底から支えてくださっているキリストを実感する時です。来週はいよいよクリスマス礼拝を迎えます。4本のローソクの輝きに、イエス・キリストによって生かされている幸いをあらためて見出したいと思います。新しい世界が明けて行く救い主の降誕の日を、そのダイナミズムをご一緒に味わいましょう。

 


 
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