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イエスが十二歳になったとき

⇒(MP3, 32kbps)「イエスが十二歳になったとき」秋葉 正二申命記16,16-17;  イエスさまの少年時代のことはほとんど分かりません。ガリラヤのナザレ村で両親に仕えてお暮らしになっただろうということだけです。講談社の文芸文庫に、「トマスによるイエスの幼児物語」というのがありますが、これは歴史の再構築という意味ではほとんど役に立ちません。福音書記者ルカはイエスさまの少年時代を描いて、イエスさまが後に歴史を変えてしまうような大きな出来事をなさった時代に、クリスマスの誕生物語以降の歴史をつなげるために表現上の工夫をしたのであろうと見られています。私たちとしては正典であるこの福音書の記事を丁寧に辿っていくしかありません。 さてテキストです。イスラエルでは男の子の成人式は満13歳ですが、ル

新しい“しるし”

⇒(MP3, 32kbps)「新しい“しるし”」秋葉 正二創世記1,31;  本日のテキストは「カナの婚礼」」と呼ばれる有名な箇所です。1章には洗礼者ヨハネと最初の弟子たちの記事がありますから、このテキストはイエスさまのガリラヤにおける最初の活動記録の一つでしょう。舞台は婚礼の披露宴、ガリラヤのカナという場所です。イエスさまの母マリアは披露宴を取り仕切っている一人のようにも見えます。きっと親しい人の結婚だったのでしょう。弟子たちも招かれています。ユダヤの婚礼はとても派手だったようで、花婿が花嫁を迎えに行き、自分の家に連れてきます。そこで親類縁者や友人を招いての宴会となります。披露宴は興に乗ると一週間も続いたと言いますから、夜通し語り合い、歌ったり踊ったり、何とも大変な行事だったようです。主催

わたしの愛する子、心に適う者

⇒(MP3, 32kbps)「わたしの愛する子、心に適う者」秋葉 正二イザヤ書42,1-4;  イエスさまはガリラヤのナザレという町でお育ちになられたのですが、ガリラヤ湖を中心としたガリラヤの町々村々は都であるエルサレムよりはずっと強く外国の影響を受けていたと言われます。ローマ軍の駐屯地がありましたし、交通路から見ても東西のジャンクションの役割を担っていました。作家の遠藤周作はそのあたりのことに随分こだわっていまして、子どもの頃に育った環境が後の活動に大きな影響を与えていると指摘しています。エルサレムはローマ帝国支配下とは言え、一応王である領主もいますし、ダビデ,ソロモン以来の伝統を残していますからいろいろな意味でイスラエルという国を代表する特徴を備えています。もちろん伝統の第一は信仰に関わ

人の子が復活するまで

⇒(MP3, 32kbps)「人の子が復活するまで」秋葉 正二列王記下2,9-14;  イエスさまの姿が変わるという変貌記事から学びます。共観福音書に共通している記事ですが、おそらく福音書成立前にイエスさま伝説集みたいなものがあって、それを元に先ずマルコがイエスさまの変貌記事を加工して福音書に入れたと見られています。さらにそのマルコの記述を元にして、マタイやルカがそれぞれに編集上の工夫をしたのでしょう。きょうのテキストはマタイですが、マタイが変貌物語で何を一番言いたかったかということを中心に据えながら読んで行きましょう。 変貌物語ですから、イエスさまは驚くような変貌を遂げておられます。その様子が3-4節に描かれています。「ええっ」と思わず声が出そうになるような変貌の仕方なのですが、7節に来ま

賃金の支払い方

⇒(MP3, 32kbps)「賃金の支払い方」秋葉 正二レビ記19,9-10;  「ぶどう園の労働者」の譬え話から学びます。この説教を準備しながら私は、現在私たちの社会を覆っている「格差問題」についてのあれやこれやを考えざるを得ませんでした。というのも、この譬えに描かれている情景が、現代社会の底辺で喘ぐ寄せ場労働者の厳しい現場を連想させたからです。イエスさまはこの譬えを「天の国」を説明されるために用いられましたが、ここに描かれているような労働者の現場を実際にご覧になっていたからこそ、こうした話を譬えの材料に用いることが出来たのでしょう。 譬えの現場はぶどう園、パレスチナでは珍しくない場所です。家族だけの零細経営ではなくて、労働者を何人も雇うという話ですから、オーナーはお金持ちという設定です。

命の彼方

⇒(MP3, 32kbps)「命の彼方」廣石 望エレミヤ書18,1-17; I 現代社会では、〈命ほど大切なものはない〉という考え方と、〈死ほど魅力的なものはない〉という考え方が並存しています。子どもや家族や高齢者あるいは貧困者や外国人など、弱い立場の人々を守ることが大切だという理解がある一方で、他者に対する生殺与奪の権を握ることへの大きな誘惑や、敵への憎悪を男らしさや生命力の発露と見なす、抜きがたい傾向があります。 先週の日曜日、私たちの友人である後藤健二さんが、友人の湯川遥菜さんに続いて「イスラム国」というテロリスト集団によって処刑されたというニュースが飛び込んできて、私たちは大きな衝撃を受けました。このグループは残忍さを売りにしているようです。他方で「必ず罪を償わせる」という首相発言

高さと深さの生き方

⇒(MP3, 32kbps)「高さと深さの生き方」陶山義雄詩編84,2-13;  教会の暦では今週の18日水曜日から受難節に入ります。(この日は灰の水曜日と呼ばれています。)そして来週、22日の日曜日は受難節第1の主日を迎えます。今日は、受難節に入る直前の日曜日になるので、教会の暦では、受難節前第1主日と呼ばれています。受難節について若干お話ししておきますと、復活節の前の、六つの日曜日を除く、40日間が受難節にあたります。長いので、ラテン語で「長い」という言葉から「レント」とも呼ばれています。この期間に六つの日曜日が含まれない理由は、主の受難を覚える40日間ではありますが、日曜日は主の復活記念日ですから、レントの期間は粗布をまとい、懺悔をしながら主のご受難にならって慎ましく過ごす40日であっ

ぶどう園と農夫

⇒(MP3, 32kbps)「ぶどう園と農夫」秋葉 正二詩編118,22-25;  きょうのテキストも昨年の受難節にローズンゲンに従って学んだ箇所ですが、また新たに学び直しましょう。イエスさまのエルサレム入城後、神殿で祭司長、律法学者、長老たちと交わした激しい論争の中で語られた譬え話です。譬え話というときには、あらかじめ基本的な区別を確認しておいた方がよいでしょう。福音書では短いたとえである直喩や隠喩のような比喩と、説明のために用いるたとえの素材一つ一つに意味を寓する、つまりかこつける寓喩に分けられます。「ぶどう園と農夫の譬え」は寓喩的物語でありまして、一つ一つの表現に教訓的な意味が含まれていると考えられます。その教訓的な内容とは何なのかを私たちは取り出さなければなりません。私たちは聖書に記

覚悟

⇒(MP3, 32kbps)「覚悟」秋葉 正二列王記上19,19-20;  きょうのテキストには三人の人物が登場しています。名前などは出てきませんが、文脈から三人ともイエスさまへの弟子志願者と思われます。最初の人はイエス様に向かって『どこへでも従って参ります』と言いましたが、イエスさまは「はい、分かった」とはおっしゃらずに、『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない』と、取り合われませんでした。次の人にはイエス様の方が『わたしに従いなさい』と声をおかけになったのですが、この人は『まず、父を葬りに行かせてください』と願って、すぐには従いませんでした。これに対するイエスさまの言葉はかなり厳しいもので、『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい』というものです。こ

わたしの希望は揺るがない

⇒(MP3, 32kbps)「わたしの希望は揺るがない」秋葉 正二 第二コリント書はパウロ書簡の中でも最も難解であることを幾つかの注解書は指摘しています。それはおそらく思想やそれを表現する文脈が平坦ではないからです。第一の手紙では教会に不可欠な教えなどをよく整理された表現で読み取ることができますが、第二の手紙はもっと個人的な色彩が濃くて、言わばパウロの赤裸々な自己描写の書と言えます。 パウロは喜んだり、悲しんだり、悲嘆に暮れたりするかと思えば、一転して歓喜する、というようなところがあります。すごく個人的な匂いがします。多分、パウロの人間臭さ、風貌とか年恰好とか交友関係とか、そういうことを探るには第一書簡よりこの第二書簡の方が向いているかも知れません。 さて、きょうのテキストですが、3節ではま

死から救う力のあるお方

⇒(MP3, 32kbps)「死から救う力のあるお方」秋葉 正二ホセア13,14; ヘブライ書から学びます。「ヘブライ人への手紙」と表題がついていますが、新約中の他の書簡とはいささか趣を異とします。本書の中心はキリスト論ですが、大祭司キリスト論と呼ばれる独特の思想が展開されています。大祭司という名称から、その思想のよりどころは旧約聖書ということになります。さらにメルキゼデクというちょっとわけのわからない人物が本書には何度も登場しますので、読む者は少し戸惑います。メルキゼデクという名が新約聖書に登場するのは勿論ヘブライ書だけですし、旧約聖書でも創世記14章と詩編110編の2回しか出てきません。詩編の方には『あなたはとこしえの祭司メルキゼデク』とあるだけですから、「ああ祭司なのか」という以外、ど

平和の主の到来

⇒(MP3, 32kbps)「平和の主の到来」秋葉 正二詩編118,25-26;  棕櫚の主日を迎えました。この棕櫚にちなみ、今日私たちはイエスさまのエルサレム入城の場面を記した記事を読んでいます。四福音書すべてにこの記事はありますが、描き方はだいぶ違います。共観福音書にはろばの子を見つけるいきさつが描かれていますが、このヨハネ福音書では『イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった』と簡潔に記しているだけです。それよりももっと大きな違いは、ヨハネ福音書では17節以下にありますように、すぐ前にあるラザロの復活の出来事とエルサレム入城を関連させている点です。大勢の人々がなつめやしの枝、つまり棕櫚の葉のついた枝を持って出迎えたことを「ハレルの詩編」と呼ばれる詩編118編を引用して描いている点は共通

わたしたちは、このことの証人です

⇒(MP3, 32kbps)「わたしたちは、このことの証人です」秋葉 正二イザヤ書55,8-13;  イエスさまの復活の記事から学びます。イエスさまが十字架刑により殺された後、アリマタヤのヨセフという身分の高い議員が総督ピラトに許可をもらい、イエスさまの遺体を引き取り、亜麻布で巻いて岩穴の墓に納めた、とすぐ前の15章に記されています。その際、墓の入り口には石を転がしておいたとあり、それをマグダラのマリアとヨセの母マリアが見つめていたというのです。そのことがきょうのテキストの冒頭部分3節の記述につながって行きます。即ち、『彼女たちは、“だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか"』と、イエスさまの遺体に油を塗りにいくため墓に向かいながら心配しているのです。 安息日には何も出来ませんか

とこしえに星と輝く

⇒(MP3, 32kbps)「とこしえに星と輝く」秋葉 正二ダニエル書12-,1-4; 本日のテキストを読んでおりますと、キリスト教はきわめて単純だと思います。 イエス・キリストを信じる者は、皆神さまから生まれた者で、その神さまを愛する者は、仲間のキリスト者を愛するものだ、と著者は言います。 というのも、すぐ前の4章で著者は愛について論じていますので、それを受けて5章では信仰の問題を取り上げるのです。 その理由は、愛の内実は信仰がなければ確かめられない、と著者が考えたからでしょう。 言うなれば、イエス・キリストを信じる信仰から真実の愛が生まれて来るということです。 私たちはマタイ福音書に記されているイエスさまと使徒ペテロとのやりとりを思い出します。 マタイ16章にはペテロが信仰を言い表す記事

聖霊を受けなさい

⇒(MP3, 32kbps)「聖霊を受けなさい」秋葉 正二創世記2,7;  昨年も同じ題で説教しました。 ローズンゲンが同じテキストを呈示してくれたということもあるのですが、イエスさまの“聖霊を受けなさい”という言葉の響きがとても好きなのです。 復活の希望をそのままプレゼントされたようで、今回もゆっくりとテキストを読んでみました。 この言葉はテキストによりますと、ユダヤ人を恐れて不安におののく弟子たちに復活されたイエスさまが語られた言葉です。 それは、その時の弟子たちにとって何よりも大切なことが聖霊を受けることであったということでしょう。 使徒言行録1章の記事によりますと、弟子たちが『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた際、「神が定められた時や時期は、あ

貧しい者、富める者

⇒(MP3, 32kbps)「貧しい者、富める者」秋葉 正二創世記22,16-19; ヤコブの手紙2,14-17 きょうは「役に立つ信仰」について考えてみたいと思います。これはもちろんテキストの14節に『行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか』とあるからです。ヤコブ書の著者は、「誰かが自分は信仰を持っていると言っても、その人に行いが無ければ、何の益があろうか?」と問いかけているのです。実は皆さまもご存知だと思いますが、この表現をめぐってプロテスタントの世界では不毛な議論が行われてきました。キッカケはルターです。ルターはギリシャ語本文をドイツ語に訳す際、使徒的権威が疑わしい文書や教理的に重要でないと判断した文書を聖書の一番後に付けて、目次にも載せませんでした。それらの文書は「ユダ書」とか「

喜びの別れ

⇒(MP3, 32kbps)「喜びの別れ」秋葉 正二列王記下2,1-15;  今週の木曜日14日は「昇天日」です。 イースターから40日目の木曜日にあたります。 復活したイエスさまが弟子たちの目の前で天に昇ったことを記念する教会暦上の祭日です。 教団の多くの教会では取り分けてお祝いすることもないのですが、ローマ・カトリックやオーソドックス、ロシア正教、聖公会、ルター派それにプロテスタントの一部教派では重要な祭日として守られていますので、イエスさまの昇天に大きな意味が置かれていることが分かります。 昇天日は、フランスやドイツでは法定休日でもあります。 昇天の記事はきょうのテキストの他にマルコ福音書の終わりの部分にもありますが、いずれも短い記述ですから、前の文章との文脈に留意しながら読む必要があ

武力によらず、権力によらず

⇒(MP3, 32kbps)「武力によらず、権力によらず」秋葉 正二; フィリピの信徒への手紙4,1-9 旧約聖書の終わりにある12の小預言書はあまり馴染みがない書物かも知れません。「ゼカリヤ書」の前後には「ハガイ書」と「マラキ書」がありますが、これら3つの書物をつなげて覚えておくと整理し易いと思います。ハガイとゼカリヤの前半8章までは時代が共通していまして、ペルシャ王ダレイオスの第2年に主の言葉が預言者に臨んだとありますから、紀元前522年という年代が浮かび上がります。どういう時代かと言いますと、538年にペルシャ王キュロスによりまして「ユダヤ人解放令」が出まして、ユダヤ人は「バビロン捕囚」から解放されました。この後、522年に2回目の帰国がダレイオスによって許可されていますので、520年

福音は世界へ

⇒(MP3, 32kbps)「福音は世界へ」秋葉 正二イザヤ書11,1-10;  イエスさまが約束された通り、弟子たちに聖霊が注がれたことを記念するペンテコステを迎えました。 聖霊が注がれたことにより、イエスさまの言葉と業は使徒たちによって継承されていきます。 テキストの1-13節は聖霊降臨の物語で、著者ルカが見聞や想像を土台として、聖霊降臨という一大事件を叙述した散文です。 その日はユダヤ教の五旬祭でした。 イスラエルの三大祭りの一つで、過越祭から50日目にあたる小麦の収穫感謝祭です。 『一同が一つになって集まっていると』と1節にありますが、一同とはおそらく12弟子だけでなく、1章の15節に記されている120人も含んでいるのでしょう。 もちろん杓子定規に120プラス12だなどと考える必要は

新たに生まれねばならない

⇒(MP3, 32kbps)「新たに生まれねばならない」秋葉 正二エゼキエル書 37,1-6 ;  教会のことをよく「礼拝共同体」とか「信仰共同体」などと表現します。共同体、つまりコミュニティーですが、教会の場合は血縁・地縁・感情的繋がりなどを第一の基盤とはしません。 教会は信仰に基づいた生活の在り方を志向する特定の目的を持った共同体です。 一般的にある共同体の性格を理解しようとすれば、「集合の核となっているものは何か」とか「誰が中心にいるのか」などを拠り所として探ることになります。 教会共同体の場合、その教会は周囲に張り巡らせた信仰的な基準というバリアによって、信仰の世界とそうでない世界を区別します。 その際、異なる世界を分ける境界線をどこに置くかということが問題になります。 境界線の周辺

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