生命から命へ~二重の身分

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「生命から命へ~二重の身分」

陶山 義雄
エゼキエル書37章1-14節;

 2月の最後の聖日、また、2月最後の週を迎えて、厳しい冬を今年も乗り越えることが出来るところまで来た喜びと、春の訪れが待ち遠しく感じられる時を迎えています。毎年、2月の終わりから3月の初めにかけて、廣石先生がインドにお仕事で出張される、留守の間、私は講壇を委ねられ、教会員で何か事が起きた時の対応を求められて参りました。昨年も、また、一昨年もこの時期に、親しくしていた大切な教会関係者が亡くなられて、葬儀を執り行い、身元にお送りいたしました。その度に聖書の教えが、とりわけ、復活信仰が、どんなに大きな支えになっているかを思い起こし、感謝の念に満たされたのが、この時節でありました。本日取り上げた聖書の言葉もその1つであり、この中からどれほど力強いメッセージを私たちは頂いて来たことでしょう。

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も決して死ぬことはない。」

 「このことを信じるか」とイエスはマルタに問いかけていますが、この問いこそ、私たちにも向けられているように思います。

この問いに対して、マルタはこう答えています:「はい、主よ、あなたが世に来られる筈の神の子、メシアであるとわたしは信じています。」

私たちもマルタに倣って、同じように答えることが出来るなら、死を乗り越える希望に与る信仰者に加えられているものと信じます。

 私たちは人生を「誕生から死」までの限られた時間の中で捉えることが普通、なされています。これはまた、世間でごく常識的に考えられている所であります。しかし、聖書では人の命を見える世界にのみ、とどめてはおりません。人の命は、誕生以前から存在し、また、死によって肉体が滅んだ後も、神の御許に帰り、永遠の世界に入れられて行くことが聖書では約束されています。イエスがマルタに「あなたはこのことを信じるか」と問いかけておられますが、これは正に信じる世界の出来事です。イエス・キリストが私たちにとって救い主であると言うことは、「時間の世界」しか視野になかった人間に、「永遠の世界」があると言うこと。未だ見てはいませんが、永遠の世界がある、と言うことを信じるならば、地上の限られた生命がたとい、終わったとしても、私たちにはなお希望をもって死を迎えることが許されます。聖書はこうした永遠の世界から地上の命を見るべき視点を表わしている書物であります。救い主・イエス・キリストは、永遠の世界から遣わされて地上に来られ、私たちと同じ肉の姿を纏いながら、永遠の世界に繋がって生きる者として、人々と交わり、教え、救いの御業を表して下さったことを聖書は証しています。「死んでも生きる」永遠の命とは、何を指しているのでしょうか。それは十字架の死を通して、明らかにされた、死に克つ命を表しています。肉の姿を離れても、霊の姿をもって、永遠に生き続けておられるイエス・キリスト、これが聖書の証しする、救い主の姿であり、また、救いの出来事であります。神による地上への派遣から、受肉と誕生、地上での働き、十字架の死をもってしても滅びることのない命について、本日のテキストにもありますが、そのことは、ヨハネ福音書が冒頭から語っている所でもあります。これは「ロゴス賛歌」と呼ばれ、初代教会で謳われた讃美歌・「ロゴス賛歌」と呼ばれている、有名な聖句であります。

初めにロゴス(言)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何1つなかった。言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:1-5)

「暗闇は光を理解しなかった」とはどう言うことでしょうか。そのことをユダヤ人と対比させながら、このあと、6節から9節で説明しています。:

「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。(1:12)しかし、言は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」

今まではロゴスを「永遠の世界からの使者」として見ていたのですが、14節からは、いよいよ、肉を纏ったロゴスについてヨハネ福音書は述べています。:

「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。・・・私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。・・・いまだかって、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」

ロゴス賛歌のあと、ヨハネ福音書は、この方が表して下さった働きについて、「命」と言うキーワードを使って説明しています。イエス・キリストが表して下さった「命」は地上の命と天上の命とを結びあわせる、正に人類救済の「命」を証しています。このことを、最も簡明に表わした言葉、それは「小福音」と呼ばれているヨハネ福音書3章16節です。:

「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が独り子を世に遣わされたのは、世を裁くためでなく、独り子によって世が救われるためである。」(3:16-17)

 滅び行くこの世界にありながら、独り子によって示された永遠の世界を信じて生きる信仰者は、言わば二重の身分をもっています。それは地上の命と、約束された永遠の命、と言う二重の命に生きる存在、それが、独り子を信じる私たちの姿になるのです。どちらが主であるかと言えば、滅び行く体をもって生きるこの世ではなく、体を離れて霊の存在となった「永遠の世界」こそ、終の棲家であることは言うまでもありません。

 「命」について二重の存在があると言うこと、そのことが分ると、ヨハネ福音書で語られる1つ1つの出来事が、一層良く分るようになると思います。サマリアを旅しておられたイエスがスカルの井戸で水汲みをしていたサマリアの女性に水を分けて欲しいと言い、渇きを潤したあとで、イエスは、「この水を飲む者は誰でも渇く。しかしわたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」(ヨハネ4:14,15)

 また、イエスが病人をお癒しになる物語は、どの福音書にも随所に述べられているのですが、ヨハネ福音書では、ただ単に奇跡物語として収められるばかりではありません。癒しが持つ二重の世界へのメッセージが付け加えられています:「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自分のうちに命を持っておられるように、子にも自分の命を持つようにして下さったからである。」(同5:24-26)

 また、「5千人の供食」という物語についても。どの福音書(マタイ14章、マルコ6章、ルカ9章)にも記されておりますが、ヨハネ福音書(6章)では、同じように食べるという、地上での営みと合わせて、満ち足りた天上での姿が重ね合わされています:

 「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、また、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と教えています。更に、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ人の子があなたがたに与える食べ物である。」(同6:27)

 このように、ヨハネ福音書が語るイエス・キリストは「永遠の世界」から遣わされて、地上で天上の世界をを明らかにする使者(メッセンジャー)として働かれたことを証ししています。「わたしは・・・(何々)である」(エゴー エイミー・・・)と言う自己表明はヨハネの教会が証しするイエス・キリストへの信仰告白として受け止めることができます。

既に、「わたしは生ける命の水である」(4:14)、とか、「わたしは命のパンである」(6:35)とありましたが、その他にも「私は世の光である」(8:12)、「わたしは羊の門である」(10:7,9)、「わたしは良い羊飼いである」(10:25)「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)

 これらの言葉の頂点にあるのが、今日のテキストである、復活への言及であります:

「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は、だれも決して死ぬことはない。このことを信じるか』」(11:25) この呼びかけを聞く度に、私の心は喜びに溢れます。「はい、そのとおり、信じます。そう信じる他に、救いはありません。どうか、滅びの縄目を負った私を永遠の世界へと導いて下さい。」そう言う叫びが心の中からこみ上げてきます。これこそが、私の救いであるからです。そう、信じることで、残された地上の命に希望がもてるからであります。

「私を信じるものは死んでも生きる」とは、どう言うことでしょうか。この世の生が終わると言うことは、信ずる者にとっては、地上の生命から、天上の命へと移されることを指しています。そして、「生きていて私を信じる者は、誰も決して死ぬことはない」とは、丁度、私たちのように地上の限り在る生命を生きている者が、信仰によって既に永遠の命に与っているので、地上の死は単なる通過点であり、地上にあっても天上にあっても変わることなく、永遠の命に与って生きていることを意味しています。

 本日の説教題に「生命から命へ」と付けさせて頂きました。お気づきのことと思いますが、漢字で2文字の生命は、誕生から死によって区切られた、所謂、地上の生命を指しています。それに対して漢字で1文字の命は、聖書が語る言葉として、誕生以前から地上の生命、そして死を通して元の住みかに戻って更に生き続ける命を指しています。ただし、これは日本語であるから出来る、翻訳上の解釈によるもので、原語であるギリシャ語(ゾーエー)にはそのような区別はありません。(週報下段の「牧師室から」を参照)新約聖書に登場する「ゾーエー」は全て、神から頂いた命(旧約から受け継がれた内容)である上に、イエス・キリストが表しておられる「永遠の命」、「朽ちることのない新しい命」(パウロ)を指しています。それに対して創造主から切り離された朽ち果てる命は「カウアー」(旧約・ヘブライ語の「カウアー」)であっても「生命」と原稿和訳聖書では用いられています(8箇所の外典黙示文学):

「わたしたちは、この世からイナゴのように移り行き、わたしたちの生命は朝もやのようになりました。もはやわたしたちは、憐れみを受ける資格もありません。」(外典エズラ記4章2節)

 聖書の和訳に際して、この区別は大切な意味をもっています。一文字による命はイエスの教えを信じる者全てが与ることの出来る世界であります。そしてこの命に与っているならば、死はもはや終わりではなく、地上の生命の終わりに過ぎず、二重線の世界の1つが消えるだけで、今ひとつの世界である「永遠の命」は何時までも続くのです。

 終末期医療としてホスピスが誕生したのは1967年、ロンドン郊外のセントクリストファー・ホスピスであると言われています。「死は医学の敗北」としてきた医学界の流れに対して「不自然な延命より、人間らしい命を全うする」ことを選ぶホスピス運動は、キリスト教世界を中心にして急速に広まっています。日本でも、やはり、キリスト教系の医療機関で始められたのは何故でしょうか。それは、人の死生観に関わっています。とくに、死をもって人生の終わりとする見方では、絶望ばかりで、死そのものに打ち勝つ見方にまで、到達できません。ここにキリスト教が説く復活信仰が大きな役割を果たしています。そして1984年に大阪市にある淀川キリスト教病院にホスピス科が誕生したのが日本におけるホスピスの始まりである、と言われています。ホスピスに携わっている人々のホスピスについて、心すべき提言が5つに纏められています。

第一は、終末期をむかえた人に、全人的配慮ケアーを行うこと
第二は、心身の機能が低下しても、その人の人間としての価値に全く変わりのないことをケアーを通して患者も看取るものも共に与ること。
第三は、生物学的な死が、人間にとって克服できないことを、共に知り、死の受容を一緒に分かち合うこと。
第四は、死を超えて生きる価値に、患者も看取る者も共に与ること。
第五は、究極の目的は、死を迎えている人と看取る人が感謝と喜びのうちに生命の終わりを体験できるように支援し、命のバトンを手渡し、受け継ぐ最も輝いた瞬間を過ごせるように支援すること。

 このような働きをするにあたって、聖書の復活信仰がどんなに大きな力になって来たことでしょうか。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」このような復活信仰こそが、終末期を乗り越える患者にとっても、また、看取る者にとっても救いとなるのです。そして、本当に創造的に死を受け止め、新しい命に目覚めてお互いの未来を開示するのです。

 本日のテキストは「ラザロの復活物語」(11章1-44節)の中に収められているのですが、ヨハネ福音書では、この物語に続いてイエス・キリストの受難・復活物語へと受け継がれて行きます。

 このような力強い働きをなさったイエスが何故十字架の死に向かわなければならなかったのでしょうか。ヨハネ福音書では、今まで「私は何々である」(エゴー エイミー・・・) 思い返せば、「私は渇くことのない命の水である」、とか、「わたしは命のパンである」、「わたしは世の光である」、「わたしは天から降ったパンである」(同6:38)など、わたしの属性を説明する「もの」を補足して語られていたのですが、本日のテキストである復活信仰への言及を頂点として、この後はその補足の言葉を持たない「エゴー エイミー」(わたしである)がイエスの口から語られて参ります。その殆どはイエスが逮捕されて、身元を権力者側から尋ねられた時に語られています(18章5,6,8節)。ご記憶であるかも知れませんが、モーセに現われた神の呼び名は「ヤハヴェ」であったことを思い起こして下されば、そのヤハヴェの意味をギリシャ語にすると「わたしはある。わたしである」、すなわち「エゴー エイミー」となります。言い換えれば、逮捕の際に尋ねられた身元について、「ナザレのイエスだ」と一旦は答えた(18:5)あと、わたしは神と等しい存在であることを、この「エゴー エイミー」でイエスは答えておられます。実は、このやりとりの前哨戦が8章21節以下で、ユダヤ人とイエスとの間で交わされています。ただ、まだ、「イエスの時が来ていなかった」(8:20)ために、彼らは理解できなかった、と福音書記者は解説し、18章に至って「エゴー エイミー」が明らかになる、という構図のなかで語られておりました:

「わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。彼らは御父について話しておられることを悟らなかった。そこで、イエスは言われた。『あなたたちは人の子をあげたときに初めて、{わたしはある}ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話し手いることが分るだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしを一人にしてはおられない。わたしは、いつも、この方の御心に適うことを行うからである。』これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。」

 イエスが天から遣わされて、永遠の命を証しているのに、そのことを受け入れることが出来なかった人々は、「ラザロの復活」物語以降、イエスを冒涜者として十字架に付けようとするイエスの敵対者になるのです。「わたしは何々である」から、「わたしである。わたしはある」に変わるところで受難物語に移行するのは、ヨハネ福音書の特徴です。復活信仰を受け入れ、イエスを介して、二文字の生命が終わっても、一文字の命は、信仰者となった今も、また、死の門を通り抜けて永遠の世界に招き入れられたあとも、変わりなく生きてあることを喜び、感謝できる私たちでありたいと思います。

ヨハネ福音書は20章31節で執筆の目的について、こう語っています:「これらのことを書いたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」イエスを信じて受けることの出来る命は申すまでもなく一文字の命であります。

 この一文字の命について、ヨハン・フランクは「イエスはわが喜び」(Jesu meine Freude、讃美歌21―525番では「主なるイエスは我が喜び」と訳されている)のなかで、こう歌っています:

「別れ告げよ、過ぎ行く世の虚しさに。 別れ告げよ、世の誘い、世の誉れ われは求めず、朽ちる世の榮え、イエスに頼らん。」
(後段はII―93では別訳があり親しんで来た詞:「悩みも死も われをイエスより離すを得じ」)
“Elend, Not, Kreuz, Schmach und Tod soll mich, ob ich viel muss leiden, nicht von Jesu scheiden"

(このあと、ご一緒に歌いたいと思います。バッハはモテットの他に、カンタータを4作品(BWV12,64、81、87)やクリスマスオラトリオ第40曲、また、オルガン曲を2曲(610,713)、この讃美歌をもとにして残しています。)

 イエス・キリストから永遠の命を頂いているならば、死でさえも恐れる必要のないことを心に留めて、地上にある限り、精一杯生きて行く信仰者でありたいと思います。

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