生きるエネルギー 日野原重行
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
医師・医学博士でおられる日野原先生は、今年102歳を迎えます。そのお元気な活躍ぶりから、信仰のまた人生の大先輩として、沢山の方へ励ましを送り続けておられます。110歳までは現役を続けるのが目標という言葉も伺った事がありますが、そこには、生きる強いエネルギーを感じます。日野原先生の著書の一つに「生きることの質」という本があります。この中にも魂にふれる素晴らしい言葉がありましたので、ご紹介させていただきます。皆さんは週に一度、一時間礼拝に来られたとします。一年に53時間、つまり、2日と5時間です。20年でわずか40日、0年として4ヶ月です。もし皆さんの寿命が80年とするならば、皆さんが聖書を読み、祈り、静かに自分を考える時間は人生の0.4%、1%にも満たないのです。チャールズ・ラムという英国の随筆家は、「人間が自分自身のものと大っぴらに呼べる時間、自分だけで自由に使える時間、それのみが真実な「時間」なのだ」といっています。この「時間」のみがあなたの寿命中の寿命なのです。この自分の時間で、感じ、考え、決心するだけでなく、皆さんの行動がこのような時間の中で準備されれば、その時間は大変な価値をもちます。イエス・キリストの弟子のパウロは、最初はイエスに石を投げるほどに反抗したのですが、ある時、イエスの教えがわかってイエスの弟子になるという大転換をしました。いままで黒だと思っていたものが、その瞬間から白に見えて輝いてきたのです。いままでは苦しいこと、憎いことだと思っていたいたことが、許しだ、愛だということに転換した。真のキリスト者になるということは、生きる意味が転換するということです。キリスト教では回心といいます。キリスト者としての信仰をもつということで、すべての意味が変わり、ものの価値観が変わってくるのです。つらいことはつらいことではなく、この苦しみこそ練達を生じさせ、自分に他の人の苦しみが理解できるような自分とさせる。そして、苦しいのに希望が与えられる。信仰は、私達に生きる望みを与え、目標を与えます。空には雲があって山の頂きは見えなくても、仰ぐ空の中には山頂があることを信じるようになる。ですから、信仰者は山に向かって目を上げ、行動に出るのです。(中略)人生のたそがれが迫っても、日暮れてまだ道遠しであっては、私達の人生が不幸なのは当然です。私達のからだは土でできており、からだは早晩土に還ります。「コリント人への第2の手紙」の4章7節に「わたしたちは(この宝を)土の器の中にもっている」とあります。私達は私達のからだである土の器の中にはかり知れない宝を入れることができるのです。私達の寿命は、土のからだに何を容れるかを模索することで費やさせていくのです。器は器のためにあるのではなく、中に何ものかを容れるためにのみあるのです。医学は、ただからだを長持ちさせるために存在意義があるではないのです。医学は、本当を言えば、その器の中に意味あるものを容れるために器を守るべきものなのです。目的は器ではなく、中身です。そう考えますと、皆さんの毎日の生活の中に、たとえ苦しみや悩みがあっても、自分のからだの使い方を考えることができるのではないでしょうか。皆さんは健康そうに見えても、その器にひびが入り、欠けもし、傷ができます。人はどんなに健康だと診断されても、心臓や脳の血管には動脈硬化があります。齢をとるとともに、器は光沢を失い、もろくなってきます。しかし、皆さんは自らの魂で器を満たす事ができます。この有限のいのちしかもたない器の中に、無限に通じるイエスの教えを入れて、永遠のいのちに連なる信仰的な生き方が許されているのです。その皆さんの心こそが、リアルな皆さんの姿であり、あとはすべて仮りものなのです。ノーベル賞を受賞したフランス人の作家モーリヤックは、84歳で亡くなる少し前に、自ら次のような墓碑銘を書いています。「私は幼な心に信じたことを、今もそのまま信じている。人生には意味がある。行先がある。価値がある。一つの苦しみも無駄にはならなず、一粒の涙も、一しずくの血も忘れられることはない。この世の秘密は聖ヨハネのあの言葉に含まれているのだ-「神は愛なり」」くり返しくり返し、神は愛であり、その愛とは何かを教える言葉です。私達がこの宇宙をつくった神様の愛に触れるために、私達は自分自身が生きている意味を、生きている価値を、絶えず問いつづけて、いまの自分がどうあるべきかを追求したいものです。いま「何をどうもつか」ということより、いまの私という人間がどうあるかということのほうが、価値の高いことに気づくべきです。もっているものは器とともに朽ちていくけれども、器に入れた魂の水はいつまでもまわりの人々の中にしみこんでいく。私達がそういう意味での永遠性を信じる事ができれば、私達は何をもつかという事を考えるよりも、何であるかということに全力投球するべきだということが理解できるでしょう。人との出会い、本との出会い、いと小さきものとの出会いを大切にし、その中から私達の生きるエネルギーを得たいものです。
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