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神がデスヴォイスで歌うとき(3)

わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。(1コリント9章19-23節)(その1 その

オープン神論とは何か(7)

(シリーズ過去記事 1 2 3 4 5 6)オープン神論がもつ実践的意義について、今回は悪の問題を取り上げます。人生におけるさまざまな悪や苦しみの問題に対して、オープン神論がどのような視点を提供することができるか、考えてみましょう。悪の問題(あるいは神義論とも呼ばれます)は、簡単に言うと次のようなものです。伝統的にキリスト教は、神は全能であり、かつ完全に善なる存在であると主張します。しかし、一方でこの世界には悪が存在しています。もしクリスチャンが信じ告白しているような善かつ全能の神がおられるなら、なぜこの世には悪や苦しみが満ちているのでしょうか?もう少し整理すると、悪の問題とは、次の3つの命題が同時には成り立たないことを言います。1.神は全能である。 2.神は善である。 3.世界には悪が存在

旧約聖書における「福音」(鎌野直人師講演会)

私が理事長を務める日本福音主義神学会中部部会では、毎年5月に外部から講師をお招きして、公開講演会を行なっています。今年度は鎌野直人先生(関西聖書神学校学監)をお迎えして、「旧約聖書における『福音』とは~イザヤ書から考える~」と題して講演をいただきました。鎌野師はまず、旧約聖書で「福音」と訳されるヘブル語besorahそしてその動詞形basarの用法を概観することから説き起こされました。それによると、このヘブル語は「何らかの形の紛争、多くの場合には戦場における戦闘が行われている中での、その勝敗の知らせ」(名詞)とその「知らせを伝えること」(動詞)であると結論づけられます。そしてこの理解はイザヤ書における「福音」の概念を理解する上で重要な土台となるといいます。イザヤ書において動詞basarは7回

聖なるものの受肉(広瀬由佳師ゲスト投稿6)

シリーズ過去記事 0 1 2 3 4 5⑥痛みからいのちへ前回の記事ではヨハネの福音書4章に出てくるサマリアの女性を取り上げました。イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」(ヨハネの福音書4章16-18節)「夫がいない」というのは、彼女にとって大きな痛みでした。その痛みの事実を打ち明けたときのイエス・キリストの言葉は、なんて温かいんだろうと思います。「あなたにとって、その悩みを打ち明けるのは、勇気のいることだっただろう。痛みを伴うことだっただろう。でも、よ

確かさという名の偶像(11)

(シリーズ過去記事 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10)グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回から第2部「真の信仰」を概観します。前回までの記事では、第1部「偽りの信仰」の内容をかなり細かく紹介してきました。これからは少しスピードアップして、基本的に1回で1章の内容をカバーするようにしたいと思います。前回までの記事では、今日のキリスト教会で広く見られる「確実性追求型の信仰」について、その問題点を考察してきました。第2部でボイドは、確実性を追求し、疑いを排除しようとする信仰のあり方は聖書的なものではないことを論じ、聖書的な信仰のあり方はどのようなものかを探っていきます。今回は第4章「神との格闘」です。ボイドによると、聖書的な信仰

新しいはじまり

所属教会のクリスマス礼拝で語らせていただいた説教をこちらに掲載します(引用聖句の訳など多少変更あり)。クリスマスイヴの今夜は多くの教会でキャンドルサービスが行われますが、暗闇の中に光を灯すために来てくださったイエス・キリストの降誕を覚えたいと思います。「新しいはじまり」1  初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2  この言は初めに神と共にあった。3  すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。4  この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。5  光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。6  ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。7  この人はあかしのためにきた

さいごに残るもの

2018年も終わりに近づきました。この一年は私と家族にとって大きな変化の年になりました。別れがあり、出遭いがありました。失ったものがあり、得たものがありました。引き抜かれ、植えられる体験をしました。苦しみがあり、喜びがありました。これまでの歩みを振り返るとき、気づかされることがあります。それは、私たちの目によいと思えることも、悪と思えることも、すべては過ぎ去っていくことです。すべてが私たちの前を幻影のように通り過ぎていったとき、いったい何が残るだろうかと考えさせられます。折に触れて思い起こす、アビラのテレサによる有名な詩があります:何事にも心乱されず 何事も恐るまじなべては過ぎ去り 神のみ変わり賜わず 忍耐はすべてを得べし 神を所有し奉らば 何事をも欠かず 神のみにて足れり嬉しいこと、祝福と

アドベント―夜明けを待ち望む

今日から教会暦ではアドベント(待降節)に入りました。これはクリスマスに先立つ4つ前の日曜日から始まる約4週間の期間を指しますが、西方教会(カトリック・プロテスタント)の暦はアドベントから始まりますので、これらの教会にとっては今日から新しい年を迎えるということになります。アドベントという言葉はラテン語で「到来」を意味するadventusという言葉から来ています。これはもちろんイエス・キリストの到来を意味していますが、それには二つの意味があります。まず第一に、この期間は約二千年前にキリストが人となって降誕されたできごとを覚え、それを待ち望む期間です。これはすでに起こったキリスト降誕のできごとを覚え、救い主を待望する神の民イスラエルの祈りに心を合わせる期間ということができるでしょう。けれども、アド

和服についての雑感

長女がこの夏から海外に留学することになり、その前に家族写真を撮ることになりました。昔からの知り合いの写真家にお願いして、家族のポートレート写真や一人ひとりの写真、仕事用のプロフィール写真など、場所を変えてたくさんの写真を撮っていただきました。その中で、かねてからの願いであった、和服姿の写真を撮る機会がありました。photo by Kats Mizunophoto by Kats Mizuno今回撮影してくださったカツ・ミズノさんは高校の写真部の顧問もしておられますが、たいへんな腕前をお持ちの写真家です。ここで紹介できないのが残念ですが、家族の記念となる素晴らしい写真をいくつも撮ってくださいました。朝から夕方まで一日がかりの撮影でしたが、暑い中私たちに付き合ってくださり、本当に感謝しています。

黙示録における「福音」(2)

今回は、黙示録では神またはキリストがどのように描かれているか、と言う点について考えてみます。多くの人は、黙示録に描かれている神は新約的な愛と赦しと恵みの神ではなく、旧約的な怒りと裁きの神、というイメージを抱いています。(このような旧新約聖書の性格付けは正確なものではないと思いますが、あくまで一般にもたれているイメージとして、ということです)。 福音書では、イエス・キリストは神の愛を体現する存在として描かれています。イエスは敵を愛せよと教え(マタイ5章44節)、右の頬を打たれたら左の頬を向けよと言われ(マタイ5:39)、剣を取る者は剣で滅びると言われました(マタイ26章52節)。弟子たちにそう教えただけでなく、自らそれを実行して十字架にかかられ、「父よ、彼らをおゆるしください。」と祈られました

聖なるものの受肉(広瀬由佳師ゲスト投稿2)

シリーズ過去記事 0 1②「肉」と「聖」といのち 前回「キリスト教倫理というものが、生身の人間の現実を無視して〇×を判定するだけのものになってしまっているとしたら、なんと悲しいことでしょうか」と書きました。私は、このような悲しい現場に立ち会ったことが何度かあります。それどころか、自分自身がそのような視点でしかこの世界にある痛みと向き合えなかったことがあります。たとえば社会問題を考えるとき、誰かが伝統的に「罪」とされる行為に関わったとき、そして、自分自身が苦しんだり悲しんだり葛藤したりしたとき、私は聖書から〇×を判定しようとしました。そして、私情を挟まず「冷静」に、「客観的」に判断することが信仰者として正しい態度だと思っていました。 振り返ってみると、ある種の物語が私をそのような態度に向かわせ

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(1)

このブログではこれまでの投稿の中でさまざまな本やウェブサイトを参照してきましたが、特定の著作についての感想やレビューを書いたことはありませんでした。これからはそういった「書籍紹介」の記事も書いていきたいと思います。最初に取り上げるのは、最近邦訳が出版されたばかりのN.T.ライト著『クリスチャンであるとは』(上沼昌雄訳・あめんどう)です。N.T.ライト(Nicholas Thomas Wright, 1948-)については本ブログでもしばしば取り上げてきましたので、読者はご存じの方も多いのではないかと思います。英国の世界的に著名な新約聖書学者で、現在はスコットランドのセント・アンドルーズ大学で教鞭を執っています。日本語で読める簡単な紹介としては、こちらのウィキペディアの記事をご覧ください。ライ

Global Returnees Conference 2015

このシルバーウィークに富士吉田市で開かれたGlobal Returnees Conference 2015に夫婦で参加してきました。私は分科会の講師として「福音の全体像を求めて」というタイトルでお話をさせていただき、妻はスモールグループのリーダーとして奉仕させていただきました。聖会の恵みとともに、多くの新しい出会いや懐かしい方々との再会もあり、大変充実した数日間を過ごさせていただきました。この集会を主催したのはJCFN(Japanese Christian Fellowship Network)という団体です。毎年海外で多くの日本人がイエス・キリストに出会ってクリスチャンになっています。実際、日本人が海外で信仰を持つ割合は、国内の数十倍であると言われます。ところが、その多くは日本に戻ってくる

Can We Dance?(御国のワルツ)

昨年末のEC16の大会中に妻がインスピレーションを与えられて歌を作りました。それをYouTubeで公開しましたので、こちらでも紹介します。Can We Dance? (a.k.a. The Kingdom Waltz) by Doria Yamazaki-Ransomこの曲の背景については、YouTubeのページに説明があります(動画の右下にあるYouTubeのロゴをクリックすると、そのページに移動します)。ビデオの背景に使われている美しい絵は名古屋在住の画家石神則子さんの作品です。彼女は以前うちの娘に絵を教えてくださっていました。今回、妻のビデオに作品の使用許可を与えてくださり感謝しています。*     *     *Can We Dance?(御国のワルツ)1.I see you the

オープン神論とは何か(2)

(その1)前回の記事で、オープン神論の中心的な考えは、神は被造物に真の意味での自由意志を与えられ、被造物とダイナミックな人格的相互関係を持たれるということ、そして未来は部分的に開かれているということだと述べました。今回は、このような主張が聖書の記述によってどのように裏付けられるのかを概観したいと思います。 人間とフレキシブルでダイナミックな関係を持たれる神聖書では、神はその全能の意志を一方的に被造物に押しつけ、すべてを完全に支配して歴史を動かされる方ではありません。神は人間と相互的でダイナミックな関係を持たれます。(本当は人間だけでなく天使のような人格的霊的存在も含みますが、議論の単純化のため、以下では人間のみについて語ります。)つまり、神は人間の側の行動に応じて、フレキシブルに対応を変える

ジョン・ウォルトン博士来日講演(3)

(その1 その2)来日したジョン・ウォルトン博士の講演会が続いています。本日5月15日(火)の午前は聖契神学校の学生向けにヨブ記についての特別講義が行われ、午後には公開セミナーが行われました。この記事では後者について紹介します。セミナーのタイトルは「創世記2章は何を語っているのか?~古代の世界観で人類の起源を考える~」というもので、アダムとエバの創造記事についての興味深い講演がなされました。このセミナーの内容は、今回邦訳された『創世記1章の再発見』ではなく、その続編であるThe Lost World of Adam and Eve(邦訳未刊)に基づくものでした。原型(Archetypes)としてのアダムとエバウォルトン師の議論の中心は、「創世記2章においてアダムとエバは原型として描かれている

「『いいね』文化」考

フェイスブック断食ここしばらく、わが家では「ジャンクメディア断食」と称するものを行っています。詳しくは妻のブログに書いてありますが、特にわが家の子どもたちによるメディア使用を(本人たちも同意の上)制限しようとする試みです。親もそれに合わせて、寝室にスマートフォンを持ち込まないなどの試みをしています。今のところ家族全員が良い影響を受けていると感じています。それに伴い、私も個人的に、フェイスブックの使用をしばらく休止することにしました。いわば「フェイスブック断食」です。フェイスブックはここ数年使っていますが、このようなソーシャルメディアによって、自分の心がどのような影響を受けているのかを、一度立ち止まって考えてみようと思ったのです。(私の場合は仕事でもフェイスブックを使っていますので、必要最小限

聖なるものの受肉(広瀬由佳師ゲスト投稿3)

シリーズ過去記事 0 1 2③ヨハネの物語~聖なるものの受肉~前回見たように「聖」とは「いのちを与えるもの」であり、「肉」は「生身のいのち」であるということですが、両者は「いのち」というキーワードにおいて重なりを持つものです。イエス・キリストの受肉は、この「聖」と「肉」というふたつの概念が重なるものであると言えるでしょう。ヨハネは手紙の中でイエス・キリストの受肉を強調します。神からの霊は、このようにして分かります。肉(新改訳2017では「人」)となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。(ヨハネの手紙第一4章2節)こう命じるのは、人を惑わす者たち、イエス・キリストが肉(新改訳2017では「人」)となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来たからです。こう

確かさという名の偶像(9)

(シリーズ過去記事 1 2 3 4 5 6 7 8)少し間が空いてしまいましたが、グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介シリーズを続けます。今回は第3章「確実性という偶像」の続きです。「神学」や「聖書」という偶像あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。(ヨハネ5章39-40節)ユダヤ人の宗教指導者たちとの対話の中で、イエスは彼らが熱心に(旧約)聖書を研究し、それに精通していたにもかかわらず、聖書が指し示している、「いのち」の源であるイエスご自身のもとに来ようとしないことを指摘しました。ボイドはこの箇所から、聖

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(2)

(その1)本書は3部構成になっています。第1部「ある声の響き」では、人間の持つ渇望について述べ、それらがこの世界を越えた別の世界の存在を指し示していることが語られます。第2部「太陽を見つめる」では、神についてのキリスト教信仰の要点が示され、その中でイスラエル、イエス、聖霊についての「物語(ストーリー)」が概観されていきます。第3部「イメージを反映させる」では「教会」について述べられており、第2部で描写されたような信仰を生きることは何を意味するのか、そしてそれが第1部で語られた人間の渇望に対してどのように応えることができるのかが語られていきます。さて、今回は第1部について見て行きたいと思います。第一部 ある声の響き第1章 この世界を正しいものに第2章 隠れた泉を慕って第3章 互いのために造られ

The Cross Pendant

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Emmanuel

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Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......

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