ジョン・ウォルトン博士来日講演(3)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

(その1 その2)

来日したジョン・ウォルトン博士の講演会が続いています。本日5月15日(火)の午前は聖契神学校の学生向けにヨブ記についての特別講義が行われ、午後には公開セミナーが行われました。この記事では後者について紹介します。

セミナーのタイトルは「創世記2章は何を語っているのか?~古代の世界観で人類の起源を考える~」というもので、アダムとエバの創造記事についての興味深い講演がなされました。このセミナーの内容は、今回邦訳された『創世記1章の再発見』ではなく、その続編であるThe Lost World of Adam and Eve(邦訳未刊)に基づくものでした。

原型(Archetypes)としてのアダムとエバ

ウォルトン師の議論の中心は、「創世記2章においてアダムとエバは原型として描かれている」というものです。講演冒頭にかなりの時間をかけて、この点について説明されました。

ウォルトン師は「原型」という言葉を「それ以外の集団全員を具現化するもの」という意味で使っています。「原型(achetype)」は最初に造られたものとしての「プロトタイプ」とは違います。アダムとエバが原型であるとは、彼らについて書かれていることは全人類に当てはまる、ということであり、必ずしも彼らが人類の最初の二人であったという意味ではない、ということです。

ウォルトン師によると、創世記2章のアダムとエバの創造記事は、1章にある人間の創造記事を繰り返しているのではなく、継続しているのだといいます。したがって、アダムとエバを1章に描かれている、天地創造の6日目に造られた最初の人間(彼らが二人であったともテクストには書かれていません)と同一視する必要はない、ということになります。

創世記がアダムとエバを原型として描いていることは、たとえば彼らの名前(ヘブル語で「アダム」は「人」を、「エバ」は「いのち」を表します)にも表れています。アダムが「大地のちり」である、という記述(創世記2章7節)は、人間が土のちりからできているという物質的起源を表しているのではなく(ウォルトン師はヘブル語では「~から」に当たる前置詞がないことを強調されました)、人間が土のちりである、というアイデンティティを表しているというのです。そしてそのことの意味は、人間は死すべき存在であるということです(創世記3章19節参照)。

パウロの理解

アダムとエバは堕落前は不死の存在だったと考えている人は、上のような議論には違和感を覚えるでしょう。ここでウォルトン師は補足として、ローマ5章12節以下に書かれているパウロの記述はそのようなことを言ってはいないと語りました。堕落前の人間が死ぬことがなかったのは、エデンの園にあるいのちの木によって死を免れていたからだ、というのです。ところが罪を犯した人間は園から追放され、いのちの木へのアクセスが断たれたため(創世記3章22-24節参照)、死を免れることができなくなったということです。

男性と女性

次にウォルトン師は、エバがどのように創造されたのかを説明しました。創世記2章21節には次のように書かれています:

そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。

多くの日本語訳や英訳ではエバが造られたのはアダムの「あばら骨」であったと訳されていますが、ウォルトン師によると、このヘブル語ツェラーは正確には「片側(side)」と訳すべきであり、ここで起こっていることはアダムが「深い眠り」(つまり幻視状態)にある時に、神が幻の中で彼を真っ二つにし、その半分からエバを造ったという意味になるそうです。

すなわち、この記事はエバの物質的な起源を表現しているのではなく、彼女がアダムにとってどういう存在なのか(23節「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」)というアイデンティティを表している箇所だ、と言うのです。そしてエバが原型であるということは、人類は性別を持った存在であり、全体としての女性は全体としての男性と存在論的に結びついているということを表しているということです。

祭司としてのアダムとエバ

創世記1章についての講演で、ウォルトン師は宇宙全体が神の住まい、つまり神殿として創造されたことを語られました。今回の講演ではさらに一歩進んで、エデンの園は神が住まう聖なる空間=神殿であり、アダムとエバはそこで仕える祭司の役割を担っていたという主張がなされました。エバがアダムの「助け手」である(2章18、20節)というのは、祭司としてのアダムの務めを助ける存在という意味だそうです。そして祭司として、二人は全人類の代表であったと言います。

いのちと知識の木

エデンの園の中央にあったいのちの木と善悪の知識の木は、神こそいのちと知恵の源であることを表しているとウォルトン師は語りました。いのちと秩序は人間に提供されていましたが、それはあくまでも神との関係を通してのみ与えられるべきものだったと言います。そして、人間が神から離れて自分だけでそれらを得ようとしたときに堕落が起こったとウォルトン師は言います。

人とは何者か

このように、アダムとエバに関する記述は原型的なものであると言います。ウォルトン師はアダムとエバが歴史上実在した個人であることを否定しませんが、創世記2章の関心はそこにはなく、むしろ「人間とはどういう存在なのか」というアイデンティティの問題にある、というのです。創世記2章で語られている人間のアイデンティティとは、人間とは死すべき存在であり、聖なる空間で神に仕える存在であり、動物とは異なる存在論的身分を持つ一方で、男女に区別され、互いに存在論的に関係づけられた存在だということです。このような人間のアイデンティティこそがアダムとエバの物語の主眼であって、人類の物質的な起源ではない、ということをウォルトン師は強調されました。もしそうであるなら、アダムとエバの記事は科学的な主張をしているのではないことになり、特定の科学理論(たとえば進化論)と合致するかどうかを議論することは的外れということになります。

聖書的創造論の核心

ウォルトン師はまとめとして、神こそが創造行為の主体であり、人間が何から造られたか(物質的起源)よりも、どのような存在として(アイデンティティ)、何のために(目的)造られたのかということのほうがはるかに重要であると語られました。これこそ聖書的創造論の中心的ポイントだというのです。

*     *     *

セミナーには100人以上の方々が詰めかけ、聖契神学校のチャペルが満席となりました。かなり論議を呼びそうな主題であるにもかかわらず、私の見た限りでは大方の反応は肯定的であったと思われます。これは、方法論の話から始めてわかりやすく丁寧に議論を積み重ねていくウォルトン師のプレゼンテーションの技量にも負うところが大きいように思いました。

今日の講演だけでなく、ウォルトン師の講演には単なる知的な議論ではなく、信仰の養いという要素も随所に見られました。一度などは壇上で涙ぐみながら、「あなたがたは自分が造られた物質以上の存在なのです」と語られ、個人的にも感動を覚えました。真の聖書学や神学は最終的にはつねに神から私たちに語られた愛のメッセージを明らかにするものでなければならないと思わされました。

ウォルトン師の来日公演はこの後も続きますが、私が参加できたのはここまでですので、紹介記事はここまでにして、次回はこれらの講演を聴いて考えたことなどをまとめてみたいと思います。

(続く)

 

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