啓示21章・聖なる都市新しいエルサレムとは何か

正しいか間違っているかは別として、私は最善を尽くしましたが、これらは私の意見を表明しているだけです。

  

  新しいエルサレム

「 また,聖なる都市,新しいエルサレムが,天から,神のもとから下って来るのを,そして自分の夫のために飾った花嫁のように支度を整えたのを見た。」(啓示21:2)

啓示の書に登場する聖なる都市,新しいエルサレムとは何でしょうか。七つの鉢を持つ七人のみ使いの一人が「子羊の妻である花嫁をあなたに見せよう」と言って、「聖なる都市、エルサレム」をヨハネに見せました。(啓示21:9,10)それで新しいエルサレムとは「子羊イエス・キリストの花嫁」です。

イエス・キリストの花嫁とは誰でしょうか。バプテスマのヨハネは、イエスを花婿、自分を花婿の友人に例えたことがありました。(ヨハネ3:29,30)その時、ヨハネは、イエスの弟子たちをイエスの花嫁に例えました。また、パウロは、イエスの弟子たちをイエス・キリストと婚約した貞潔な処女に例えたことがあります。(コリント第二11:2)また、パウロはイエスの弟子たちの会衆を、イエスを夫とする妻になぞらえたこともありました。(エフェソス5:23,30)それで、子羊イエス・キリストの花嫁とは、イエスの弟子たちを意味します。

ですから、新しいエルサレムは、イエスの弟子たちに関連して用いられている語です。しかし、新しいエルサレムとは、イエスの弟子たちのすべてを意味しているわけではありません。

なぜなら、聖書はクリスチャンにふたつの種類の希望を差し伸べているからです。それがどのように分かるのでしょうか。新しいエルサレムが何を意味するかを考える上で、エルサレムが神の民にとって何を意味するかを考えることができます。エルサレムは、ダビデがそこに座してイスラエルを支配しました。(サムエル第二5:5)そして、歴代のダビデの子孫の王たちもそこから支配しました。(列王第一11:36。歴代第二1:13)ですから、新しいエルサレムとは、イエスの弟子たちの中でも、何らかの支配的立場に関連しているに違いありません。

また、「新しいエルサレム」という言葉は、聖書の中で、2箇所だけ出てきます。この啓示21章2節と、啓示3章12節です。啓示3章12節では、栄光を受けられたイエスが、七つの会衆の一つであるフィラデルフィア会衆の「征服する者」の上に、「新しいエルサレム」の名が書かれるという報いを差し伸べられています。ですから、新しいエルサレムの成員となるという報いは、イエスのように「征服する者」に与えられます。

啓示の書の七つの会衆の成員の「征服する者」にイエスは、神のパラダイスにある命の木から食べることを許し、第二の死に損なわれることはないという報いと、イエスと共にイエスの座に座る特権を差し伸べます。(啓示2:7,11;3:21)それで、イエスのように征服する者には、天での不滅の命が差し伸べられ、イエスと同じ立場に立つという特権が差し伸べられることが分かります。

イエスはダビデの王権を永遠に受け継ぎます。(ルカ1:32,33) 新しいエルサレムの成員は、同様にイエスと共にイエスが受け継ぐ永遠の王権を与えられます。彼らは、イエスの共同支配者になります。(テモテ第二2:8,10,12)言い換えれば、新しいエルサレムとは、神の王国すなわち神の政府を意味します。(マタイ6:10)

啓示の書でも、イエスと共に千年間王として支配するという見込みがあるクリスチャンに差し伸べられています。(啓示20:4)千年間王として支配するということは、新しいエルサレムの成員となることを意味しているに違いありません。

さらに、聖書によると、新しいエルサレムの一員となってイエスと共に神の民を支配する特権は、イエスの弟子の中でも、エホバ神から選ばれたクリスチャンに与えられることが分かります。聖書は「選ばれた者」という表現を用いています。(ローマ16:13。テモテ第二2:17)

聖書はイエスの弟子となる人々に、二つの種類の希望を差し伸べています。一つは、イエスと共に天に復活して、神の王国つまり新しいエルサレムの成員となるという見込みです。新しいエルサレムの一員となる見込みは限られた数の選ばれた人々に差し伸べられます。その数は十四万四千人です。(啓示14:1)

しかし、その他の数え切れないクリスチャンには、大患難を生き残って、この地上で永遠の命を楽しむという見込みが差し伸べられています。(啓示7:9,14,17;21:1~4;22:3,5)地上での永遠の命を享受するクリスチャンすなわち大群衆の中には、一度も死ぬことなく、地上での永遠の命を享受できる人がいることでしょう。

では、新しいエルサレムが自分の夫のために飾った花嫁のように支度を整えたとは何を意味しますか。それは、将来新しいエルサレムの成員になる人が、あたかも輝く、清い、上等の亜麻布で身を装うように、義の行為で身を装うという意味でしょう。(啓示19:7,8)

義の行為で身を装うとは何を意味するでしょうか。新しいエルサレムの一員となるために、征服する者とならなければなりませんが、啓示2章26節には、「征服する者」とは、「わたし(イエス)の行ないを終わりまで守り通す者」であることが記されています。ですから、征服する者は、イエスにみならってイエスのように神の王国を宣べ伝え、弟子を作る業を行い、試練のもとでもイエスの言葉を守るという神のご意志を行なわなければならなければならないことが分かります。(ルカ8:1。マタイ28:19;7:21,24。啓示16:5;22:17)

新しいエルサレムの一員になる者たちは、またイエス・キリストの贖いの犠牲に信仰を働かせながら、エホバの義の基準に従い、野獣の崇拝を避け、仲間の兄弟たちを愛し、戦争に行って人を殺すようなことをしません。(ヨハネ第一3:10。啓示15:3。詩篇11:7。エゼキエル18:27。ローマ3:22)新しいエルサレムの成員になる人々は、大患難の前の極度の圧力が加えられる時にも、神の基準に確固として従います。

そのようにして、新しいエルサレムの成員なる見込みのあるクリスチャンは、義の行為で身を装うでしょう。

千年間、イエスと共に王として支配する者たちについて、次のように述べられています。「イエスについて行なった証しのため、また神について語ったために斧で処刑された者たち、また、野獣もその像をも崇拝せず、額と手に印を受けなかった者たちの魂を見たのである。そして彼らは生き返り、キリストと共に千年のあいだ王として支配した。」(啓示20:4)

ですから、新しいエルサレムの成員になる人は、厳しい試練を受け、証しの業のために、また野獣やその像の偶像崇拝を避けるため、殉教の死を遂げることが求められるかもしれません。いずれにしても、生き返ってから新しいエルサレムの成員となれるのですから、その人は最後には必ずいったん死ななければならないことが分かります。

とりわけ大患難の始まる前に迫害や試練は増し加わるでしょう。大群衆は全体として大患難を生き残るという保証が与えられていますが、新しいエルサレムの成員になる人は、大患難の前の迫害と試練によって命を失う人が多いのかもしれません。

そのようにして、新しいエルサレムの成員になる見込みを持つクリスチャンが義の行為で身を装うゆえに殉教の死を遂げるということは、自分の夫であるイエスの花嫁として支度を整えたということを意味するでしょう。

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