2011年の教会標語
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
ラスベガス教会に与えられた2011年の教会標語は、『キリストの再臨に備える』です。自分の人生を振り返ってみれば分かることですが、人は常に何かを期待し、何かを待ち望みながら生きています。そして、その待ち望むものによって、その人の生き方が決まり、人生が決まります。そこで、今を生きるクリスチャンが一番に期待し、一番に待ち望むべきものは何かを考えてみたときに、それはキリストの再臨であるべきだと思います。なぜなら、キリストが再び来られるとき、私たちの救いが完成するからです。ですから、キリストの再臨は私たちの地上の生涯における栄光のゴールだと言うことができます。“事実は小説より奇なり”と言いますが、このキリストの再臨は、人が考えた如何なる作り話よりも圧倒的に不思議な神の業です。つまり、小説より奇なるからこそ事実だと言うことができます。クリスチャンたちは、初代教会の時代から今日に至るまで、キリストの再臨を待ち望んできました。クリスチャンがキリストの再臨を信じるのは、それが聖書に預言されているからです。キリストの再臨については、旧約聖書には約1500の預言が、また新約聖書にも、全体の25分の1に当たる319節において再臨の預言があります。これは、キリストの再臨が如何に重要で確実なものであるかを物語るものです。また、キリストの再臨は二段構えでやって来るとされています。それは空中再臨と地上再臨です。空中再臨は、キリストが救われたクリスチャンたちを空中に迎えに来られる出来事です。その際に、まずキリストにあって死んだ人々が栄光の体によみがえり、天に携え挙げられます。そして、その直後に生きているクリスチャンたちが死を経験しないで栄光の体に変えられ、挙げられるのです。これを携挙と言います(第一テサロニケ4:1-17)。これは、私たちの常識や経験や知識で計ることのできない、まさに小説よりも奇なる事実なのです。そして、再臨の第二の部分が地上再臨です。キリストが輝かしい栄光の姿でこの地上に再臨されるのです(マタイ24:30)。これもまた、小説よりも奇なる事実です。そこでラスベガス教会は、キリストの再臨に備えるために、目を覚まし、以下の事柄を実践していきたいと思います。
1.自分の救いを明確にする私は、まずクリスチャンの皆さんに、ご自分の救いを明確にすることをお勧めします。なぜなら、洗礼を受けたことが救いの保証ではなく、また教会生活をしていることが必ずしも救われている根拠ではないからです。救われていると思い込んで、救われていないことほどみじめなことはありません。もちろん誰が本当のクリスチャンであるのかを決めるのは私たちのすべきことではありません。しかし、私たちが神様との本当の関係を持っているかどうかを明確にすることは、自分自身でしなければならないことです。
2.祈りの生活を大事にするクリスチャン生活は霊的な戦いの連続です。この霊的な戦いの勝利の鍵は、ただ一つです。それは祈りです。祈らないクリスチャンは、どんなに素晴らしい誓いを立てても、それを全うすることはできません。祈りのない熱心は、ただの人間業で終わってしまいます。まず祈りによって、霊の戦いに勝利し、その勝利を現実の生活の中で経験したいと思います。そのためには、教会における祈りのミニストリーに積極的に参加することが大切です。なぜなら、一人で祈りの生活を築くことは不可能だからです。「私は家で一人で祈ってますから」と言われる方がいますが、特別な事情もなしに祈祷会に参加しない人が、個人の密室の祈りを守れるほど霊の戦いは生易しいものではありません。本気でキリストの再臨に備えたいと思うなら、油を携えずに花婿を待った愚かな乙女のようにならないで下さい。ちゃんと自分の油を携えて花婿を待った賢い乙女のように、祈りを通し聖霊の油を携えながら生活しましょう。
3.御言葉の学びに励む御言葉を食する生活は、霊的な養いの唯一の方法です。どんなに長く信仰生活をし、どれだけクリスチャン生活に馴染んでいても、御言葉の学びをしないクリスチャンは、いつまでも霊的には幼子です。霊的な幼子は、物事の捉え方、対処の仕方が神の御心に基づかず、この世の基準に基づくので、しばしば御心に適わない間違った判断をしてしまいます。キリストの再臨に備えるには、何が神の御心であるかを正しく知る必要があります。そのために、ぜひ御言葉の学びに励みましょう。
4.キリストがいつ来られてもいいように準備をしておく泥棒がいつ来るか分かっていれば、その家の主人は泥棒を防ぐことが出来ます。しかし実際には、いつ狙われるか分からない訳ですから、いつ狙われても大丈夫なように、戸締りをし、鍵をかけて、気をつけておく必要があります。同様に、再臨を待つクリスチャンも、いつ主が来られてもいいように、教会生活を中心にした生活の中で常に準備をしておかなければなりません。ですから、無駄な事に時間を費やすのは、キリストの再臨を待ち望む者の生き方ではありません。趣味を持つことは素晴らしいことですが、そのせいで神様を第一にできなければ、その趣味は災いです。趣味は、神様を第一にする生活の中で祝福されるのです。趣味だけでなく、仕事も、学業も、あらゆることが最も祝福される道は、それ自体を第一にするのではなく、神様を第一にして、その上でその事に励むことです。またラスベガスはギャンブルの町ですが、クリスチャンの中にもギャンブルを習慣的にしている人がいます。しかし、ギャンブルはキリストの再臨を待ち望む者のする事ではありません。時間の浪費、お金の浪費、そればかりか、そのために聖書を学ぶ時間がない、祈る時間がない、伝道をする時間がない、献金をするお金がない。それが如何に信仰生活の妨げになるか、考えれば誰にでも分かることです。
5.互いに愛し合うクリスチャン同士が互いに愛し合うことは、キリストの再臨に備える者の生き方であり、クリスチャンの証しです。クリスチャンは、お互いの欠点ではなく、お互いの良いところを見るように心掛けるべきです。人は、セルフイメージに基づいて他人を見る傾向があります。つまり、自分を肯定的に見ている人は、他人を肯定的に見ます。反対に、自分を否定的に見ている人は、他人を否定的に見ます。ですから、いつも人の欠点が気になる人は、人の欠点を問題にするよりも、そういう部分を見てしまう傾向にある自分の課題に気付かなければなりません。私たちは、みな不完全で、弱さを持った人間です。そんな私たちが、相手の欠点や足りないところを指摘し合うとしたら、それはお互いを傷つけ合うだけです。そういうところには、クリスチャンの成長も、教会の成長もありません。そうではなく、私たちは、お互いの足りなさや、弱さを受け入れ、尊重し、共にその弱さを補い合うことが大切です。そのためにも、自分の口を制することを学びましょう。語る必要があれば、人の徳を高める言葉を語って、聞いている人たちの益になるようにしましょう。それがキリストの再臨に備える者の生き方です。
6.福音宣教の業に励む最後に、もう一つ、キリストの再臨に備える生き方は、福音宣教の業に励むことです。ペテロ第二の手紙3:9を見ると、キリストの再臨が遅いのは、一つの魂が滅びることをも望まれない神の忍耐のゆえだと言われています。どんなに素晴らしいGood Newsでも、伝える者がいなければ、誰も聞くことができないのです(ローマ10:14)。教会は、この働きのためにこの世に建てられた天国の大使館、クリスチャンはキリストの全権大使なのです(2コリント5:20)。(LVJCC牧師: 鶴田健次)