なぜ、聖書の神はねたむ神なのですか?

私たちは聖書を唯一の土台とする、プロテスタントのキリスト教福音団体です。

#32. 聖書の神は「ねたむ神」なのですか。

Q. 質問

旧約聖書に、「わたしはねたむ神」ということばが出てきますが、「ねたみ」という言葉に良いイメージがありません。神ご自身がなぜ自分をそう表現されたのでしょうか。聖書の神は、ねたむ神なのですか。

A. 回答

確かに、出エジプト記20章5節に、こういうことばが出てきます。

「あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神」(出エジプト記20:5)

では、いつものように3つ申し上げます。

1番目に、ねたみは罪です。

ねたみというのは、他人の物を欲しがる罪ですね。「私にはない、羨ましい、あれが欲しい」と。たとえば、他人が持っている富、能力、美貌、こういったものを、私たちは欲しがるわけです。これは、聖書では明らかに罪です。

しかし2番目に、ねたみには別の意味もあります。

出エジプト記20章5節は、「ねたみ」という言葉を別の意味で使っています。このことを、実例を上げながら分りやすく説明してみましょう。夫婦関係、あるいは親子関係を考えると、よく分かります。

例えば、よその男性が自分の妻に言い寄り、彼女を誘惑しようとしているのを見たとき、夫は平静な心ではおれませんね。そのときに知らん顔して、「俺はねたまないよ」と言うのは、おかしいのです。なぜかと言うと、夫は妻を愛しているからです。また、神様から与えられた夫婦関係を破壊しようとする力が働けば、それを排除しようとするのはごく自然な行為だからです。

親子関係も同じことです。子どもが誘拐されそうになっているときに、「俺は構わないよ」という親はおかしいのです。親なら、自分の子どもを命がけで取り返そうとします。

神様が「わたしは、ねたむ神だ」と言われる場合、「ねたむ」という言葉は、2番目の意味で使われています。

3番目に、出エジプト記20章5節は、「偶像礼拝を禁止する」という文脈の中で語られていることを覚えましょう。

つまり、偶像礼拝をする(目に見える像を作りそれを神とする)ということは、「本来は神のみに属している特性を、別の物に与える」行為です。その特性とは、威光、尊厳、栄誉、栄光…などです。そういったものは、神だけに属する性質です。もし私たちが、それらの特性を神ではない像に帰するなら、神はそれに対して「ねたみ」の感情を覚えるわけです。

私たち人間が、創り主である方から離れて、「別の神々」に行こうとするなら、神は私たちを愛して取り戻そうとされる。それは、神としては当然の感情だということです。
神は、私たちを愛しておられる。それゆえ、ねたむ神なのだということです。
あなたも、神に愛されています。

参考になる聖句

「万軍の【主】はこう仰せられる。『わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、ひどい憤りでこれをねたむ』」(ゼカリヤ書8:2)

「それとも、『神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる』という聖書のことばが、無意味だと思うのですか」(ヤコブの手紙4:5)

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