-
- 聖書の前に人はどうやって神のことを知ったのですか?
人が書かれたみことばを持っていなくても、神を受け入れて理解し、従う能力はあったのです。事実、今日でも、世界には聖書が手に入らない多くの地域があります。けれど、人々は神を知ることができ、実際神について知っているのです。この問題は啓示―神がご自分について知ってほしいことを私たちに現されることについてです。 いつも聖書があったわけではないにしろ、人間が神の啓示を受け入れて理解する方法はいつもありました。二つの種類の啓示、一般啓示と特別啓示があります。一般啓示は神が普遍的にすべての人間に伝達されるものです。一般啓示の外部の面では、神がその原因であり、源泉でなければなりません。なぜなら、これらのものが存在するので、存在の原因があるはずです。神も存在しなければなりません。ローマ1:20は、「神の、目に見
-
- 聖書の奇跡は文字通りに受け取るのですか?
はい、そうです。聖書の奇跡は文字通りと受け取るべきです。明らかに象徴的に受け取るようにと意図された部分以外は、聖書はすべて文字通り受け取るべきです。象徴的意義の例は詩篇17:8です。私たちは文字通り、神の瞳ではないし、神は文字通り翼をもってはおられません。けれども、奇跡は象徴的な出来事ではありません。奇跡は実際に起こった本当の出来事です。 聖書の各奇跡は目的を持ち、それ以外の方法ではできなかったことを果したのです。 最も初期の絶大な奇跡の中の奇跡は創造です。神はすべてを無から創造されました。そのあとからの其々の奇跡は神の信じられないほどの力を強調しました。出エジプト記は、神がみこころを成すために用いられた多くの奇跡的出来事であふれています。ナイル川の水が血に変わることから始まって(出エジプト
-
- 福音書の一致とは何ですか?
福音書の”一致”とは4つの福音書の同意することです。新約聖書の4つの福音書は、4部からなる聖歌隊の歌手たちのようなものです。ひとりひとりに独特な歌う部分がありますが、それらが一緒になって美しい音楽を奏でます。4つの福音書はそれぞれが、ほんの少し違った眺望からイエス様の証しを伝えていますが、どれも同じ物語を語っています。それゆえ、福音書はみな互いに一致しているのです。福音書の記事を年代順に一列に整列する本は、福音書の一致と呼ばれます。いくつかの聖書は、福音書の一致という参照の部分を含めていて、同じことをしています。 マタイ、マルコ、ルカは、”共観福音書”と呼ばれています。イエスの人生で起こった多くの同じ出来事を含めているからです。(“共観”とは“同じ眺め”という意味)ヨハネは他の福音書が記録し
-
- 聖書はなぜ聖なる書と呼ばれているのですか?
biblia sacra (“聖なる書物”)ということばは、中世のいつ頃かに初めて現れました。英語では、初めに― 一番初めでなくとも― 1611年に”聖書”と言うことばは公認された訳、アメリカでは、King James訳と呼ばれる訳の表紙に現れました。 聖ということばにはいくつかの意味があります。これからその意味を見て行きますが、すべてが神のことばのことを述べています。 “聖”と言う意味の一つには、”神聖な、聖別された、神聖化された”と言う意味があります。神が燃える柴の中から、モーセに語られた時、モーセが”聖なる地”―神が臨在によって聖なるものとされた地―に立っているので、足の靴を脱げと命令されました。神は神聖なお方なので、神の語られることばも神聖なのです。同じように、シナイ山でモーセに告げ
-
- 聖書はどの書が聖書に属しているか言ってないので、どうやってどの書が聖書の一部か決めるのですか?
聖書が私たちの唯一の権威であるというのなら、何の権威によって私たちはどの書が聖書に属していると言えるのでしょう?―聖書がどの書が聖書に入るべきだと述べていないので。これはとても重大な質問です。なぜなら、鎖はその最弱の連結環(リンク)と同じくらい強いのだから。 神から人間への伝達のチェーンにおいて、弱いリンクがあるでしょうか?もしあれば、チェーン全体が 失敗し、最終的にその伝達は 信用できないことになります。神から私たちへの伝達に含まれるさまざまな“リンク”を考えてください。まず初めに、伝達したいという神の願いが来ます。これは、神の愛に根ざしていました。善なる神ができる最も愛なることは、ご自分の被造物に自分を現わすことでした。次に、人間の著者を通して神のことばを実際に伝えることでした。これには
-
- 聖書を学ぶのに、前後関係を考慮することがなぜそれほど重要なのですか?前後関係から聖句を取り出すことはなぜいけないのですか?
聖書の箇所や物語を学ぶのに、前後関係(背景)の中で考えることは重要です。聖句を前後関係なしに取り上げることはさまざまな間違いや誤解を生じます。前後関係を理解することは4つの原則から始まります。:文字通りの意味(その聖句が何を言っているか);歴史的背景(物語の出来事、誰に宛てて書かれたか、当時どう理解されたか);文法(単語やフレーズの中にある直接の文とパラグラフ);統合(聖書の他の部分との比較)前後関係は聖書解釈にとって非常に重要です。その箇所の文字通り、歴史的、文法的な性質 を説明した後、次にはその書の構造、それからその章、それからパラグラフに焦点を当てなければなりません。これらすべては“前後関係”の中に含まれています。これを図に描くと,グーグルの地図で世界地図を見て、少しずつ図面を拡大して
-
- 照明の聖書的教理とは何ですか?
簡単に言えば、霊的な意味での照明とは、ある箇所を理解するために、“光を当てる。”ことです。神の啓示が新しい知識、または未来の出来事に関する場合、それは“預言”と呼ばれます。その啓発が、すでに与えられた知識を理解したり、適用したりすることに関する場合は、“照明”と呼ばれます。“神はどうやってみことばを学ぶ人の心を照明されるのか”という質問が出てきます。 啓発の最も基本的レベルは罪の知識です。その知識なしには、他のすべてが無意味です。詩篇18:28は,「あなたは私のともしびをともされ,主,私の神は私のやみを照らされます。」と言っています。聖書で一番長い章を持つ詩篇119はみことばについて歌った歌です。130節には、「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」とありま
-
- 聖書数秘学とは?
聖書数秘学とは聖書に出てくる数字の研究です。聖書で最もよく繰り返し出てくる数字は7と40です。 7 は、完成または完全を示します。(創世記7:2-4;黙示録1:20)神は完全で完成している唯一のお方なので、7はしばしば“神の数字”と呼ばれています。(黙示録4:5;5:1、5-6)3もよく神の完全な数字だと思われています。三位一体は父、子、聖霊の三つで成り立っています。40はよく”見習い期間、または試練の数字“だと理解されています。例えば、イスラエルは40年間荒野をさまよいました。(申命記8:2-5)モーセはシナイ山に40日間いました。(出エジプト記24:18)ヨナはニネベの人たちに後40日で裁きが下ると警告しました。(ヨナ3:4)イエスは40日間サタンに試みられました。(マタイ4:2)主イエ
-
- 聖書の教えに関して、なぜ混乱があるのですか?
神は私たちに、ご自分と神の道について教えるために聖書をお与えになりました。神は混乱の神ではないので(1コリント14:33)どんな混乱もすべて、この世の破壊的な力、肉、そして悪魔から来ているに違いありません。この“世”は神に従わない世の組織とみことばを理解しない、または気にもしない人々のことです。“肉”はクリスチャンの持つ廃らない罪の性質でクリスチャンの歩みを腐敗させる罪の性質です。“悪魔”とはサタンと悪霊たち。彼らはしばしば光の使いに扮装してみことばをねじ曲げる者たちです。(2コリント11:14-15)これらの勢力は、別々に、または一致して、みことばについて人を混乱させます。悲劇なのは、聖書に関しての混乱は偽の救いの希望に導くこことがあります。サタンはイエスを誘惑した時、御ことばを誤解して用
-
- 聖書の無誤性は原典だけに当てはまるのですか?
これは、本当に把握するのに困難な問題です。原典(使徒たちや預言者たちが書いた書)だけが、霊感と無誤性を神に約束されています。聖書は初めに神の霊感を受けて書かれたので、100%誤りがなく、正確で、権威があり、真理です。(2テモテ3:16-17) 原典の写本が同様に誤りがなく、または写本した人の間違いがないとは聖書は約束していません。聖書は、何千年の間に何千回も.写されてきたので、写本する人の間違いがあったことでしょう。これをどう扱うべきでしょうか?まず覚えておくべき重要なことは、今日 ある聖書の写本は互いに99%一致しているということです。もちろん、少しの違いはありますが、聖書のテキストの広大な大多数が写本同士が全く同じです。ほとんどの違いは句読点、単語の語尾、ちょっとした文法の問題、ことばの
-
- 幸福の使信とは?
幸福の使信とは、イエスが山上の垂訓の始めで話された祝福の8つの宣言です。(マタイ5:3-12)それぞれ、“~者は幸いです。”で始まっています。正確には幸福の宣言がいくつあるかは議論中です。ある人たちは7、9、または10の宣言だと言いますが、8つあるようです。(マタイ5:10-12節が一つで。) “幸いである”と訳されているギリシャ語は、"霊的幸福と繁栄”という意味です。このことばは魂の奥深い喜びのことです。幸福の使信の最初の部分(貧しい、悲しむ、柔和、義に飢え乾く、あわれみ、心の清い、平和をつくる、迫害される)を体験する人は 、二番目の部分(天の御国、慰め、地を相続、満ち足りる,あわれみを受ける、神を見る、神の子どもとされる、天の御国を受け継ぐ)をも経験します。幸いな者は、救いを受けて、すで
-
- 聖書のどの部分が今日私たちに適用できるのかどうしたらわかりますか?
私たちが従うべき命令を、当時の初めの聴衆だけに適用して“時代に特定している”とするか、ある特定の聴衆にだけの命令を時代を超えた永遠の真理だと間違えたりすると、多くの誤解が生じます。ではどうやってその違いを識別することができるでしょう?まず第一に注目すべきことは、聖書の正典は紀元1世紀の終わりに決定したということです。この意味は、聖書はほとんど、全部ではないにしても,初めは私たちに直接宛てて書かれたのではない ということです。著者たちは、当時の聴衆を頭に入れていて、多分彼らのことばが何世紀も後に世界中の人によって読まれるとは思っていなかったのでしょう。このことは、私たちが今日のクリスチャンのために聖書を解釈しようとする時、非常な注意を要求することになります。現代の説教の多くは、関連性を気にする
-
- 聖書を読み始めるのに良い箇所はどこですか?
初心者にとって、聖書は始めから終わりまですらすらと読めるような普通の本ではないことに気づくことが大切です。実際、聖書は図書館か全集のようなもので、何人もの著者たちによっていくつかの違う言語で1500年以上に渡って書かれた物です。マルティン・ルターは、聖書を「キリストのゆりかご」と言いました。すべての聖書の歴史と預言とが究極的にイエスを指し示しているからです。ですから、聖書でまず最初に読むべきなのは、福音書です。マルコの福音書は、短くて展開が速いのでスタートを切るには良い箇所です。その次は、イエスがご自身について主張されていることに焦点をおいているヨハネの福音書が良いかもしれません。マルコはイエスが何をされたかを語り、ヨハネはイエスが何を言われたか、イエスがどんな方だったかを語ります。ヨハネの
-
- パウロの書いた物は霊感を受けているのですか?(1コリント7:12を見てください)?
大多数の保守的福音派のクリスチャンは聖書は全単語が霊感を受けていると信じています。つまり、聖書の単語の一語ずつは”神の霊感(息吹)を受けている”という意味です。(2テモテ3:16)聖書の批評家たちは1コリント7:12は霊感を受けているのではなく、パウロの意見だと主張します。聖書の他のどの箇所が人間の著者の意見で、神の著者の命令でないと主張できるでしょう?この問題は聖書の権威の中心そのものを突いています。パウロはこの手紙を、非常に腐敗した町コリントに住んでいるクリスチャンのグループに宛てて書きました。この腐敗の一部は、アフロデイーテーの神殿、千人以上の神殿の売春婦の住む場所がその町にあったせいです。パウロがコリントに教会を開拓したのはそのような背景においてでした。 事実、会衆の多くは不道徳なコ
-
- 聖書の失われた書物とは何ですか?
聖書には、「失われた書物」も、聖書から取り去られた書物もありません。失われた書物の伝説やうわさはありますが、そういう物語には、全く真実性がありません。神が意図され、聖書の中に入れられるようにと霊感されたすべての書物は、聖書の中に入っています。聖書の書物と同時代に書かれた宗教書は文字通り何百とあります。それらの中には、実際に起こった出来事の記事が含まれているものもあります(例えばIマカベア書など)。良い霊的な教えを含むものもあります(例えばソロモンの知恵書など)。しかしながら、それらの本は神に霊感されていません。例えば外典などのようなこれらの本のひとつを読むとき、霊感された間違いのない神のことば(IIテモテ:16-17)としてではなく、間違いのありうる歴史書として扱わなければなりません。例えば
-
- なぜ旧約聖書を学ばなければならないのですか?
聖書の啓示は進行形です。もし、どんなに良い本であっても、最初の半分を飛ばして読み終えようとするなら、登場人物、本の筋、そして結末を理解するのは大変でしょう。同様に、新約聖書は、旧約聖書の出来事、登場人物、律法、いけにえの制度、契約、そして約束の成就として見たときに初めて完全に理解することができます。もし、新約聖書だけしかなかったとしたら、福音書を読んでなぜユダヤ人たちがメシヤ(救い主である王)を探していたのか分からないでしょう。旧約聖書がなくては、なぜこのメシヤが来るのか理解できないでしょう(イザヤ53章参照)。また、多くの詳細な預言によってナザレのイエスがメシヤであることを見分けることもできないでしょう。たとえば、メシヤがどこで生まれるか(ミカ5:2)、メシヤがどのように死なれるか(詩篇2
-
- なぜ神は私たちに4つの福音書を与えられたのですか?
神がなぜひとつではなく4つの福音書を与えられたかの理由をいくつかあげてみましょう。1)キリストがどのような方か、より完全な描写をするため。聖書全体が神の霊感によって書かれたものですが(IIテモテ3:16)、神は背景も違い、個性も違う人間の著者たちが書くことを用いて、ご自分の目的を達成されました。それぞれの福音記者たちが、自分の書いた福音の背景に特別な目的を持ち、これらの目的を達成するのにあたってそれぞれがイエス・キリストの人となりとミニストリーの別の局面を強調したのです。マタイは、へブル人の聴衆のために書いており、彼の目的のひとつは、イエスの系図と旧約聖書の預言の成就から、イエスがが長い間待ち望まれたメシヤであるから、イエスを信じなければならないということを示すことでした。マタイの強調点は、
-
- 救われるためには、聖書の無謬性を信じなければなりませんか?
私たちは、聖書が霊感されていることや無謬であることを信じることで救われるのではありません。私たちは、主イエス・キリストが私たちの罪からの救い主である(ヨハネ3:16、エペソ2:8-9、ローマ10:9-10)ことを信じて救われたのです。しかし、それと同時に、イエス・キリストのこと、私たちのために主が死んでよみがえられたことは、聖書をとおしてしか学ぶことはできません(IIコリント5:21、ローマ5:8)。私たちは、救われるために聖書にあるすべてのことを信じる必要はありません。しかし、聖書によって宣べ伝えられているイエス・キリストを信じなければなりません。私たちは確かに、聖書を神のことばとして固守し、聖書に教えられていることのすべてを心から信じなければならないのです。救われたばかりのとき、だれでも
-
- 旧約聖書と新約聖書、違いは何ですか?
旧約聖書は、新約聖書に見られる教えやできごとの土台です。聖書の啓示は、進行形です。もし、どんなに良い本であっても、最初の半分を飛ばして読み終えようとするなら、登場人物、本の筋、そして結末を理解するのは大変でしょう。同様に、新約聖書は、旧約聖書の出来事、登場人物、律法、いけにえの制度、契約、そして約束の成就として見たときに初めて完全に理解することができます。もし、新約聖書だけしかなかったとしたら、福音書を読んでなぜユダヤ人たちがメシヤ(救い主である王)を探していたのか分からないでしょう。旧約聖書がなくては、なぜこのメシヤが来るのか理解できないでしょう(イザヤ53章参照)。また、多くの詳細な預言によってナザレのイエスがメシヤであることを見分けることもできないでしょう。たとえば、メシヤがどこで生ま
-
- 聖書の正典とは何ですか?
「正典」ということばは、法律の規制でその書物が標準に達しているかどうかを決定することからきています。聖書の書物は、書かれた瞬間に正典と認められるものであったことに注目することが大切です。聖書のことばは、ペンが羊皮紙にさわった瞬間に聖書のことばでした。. これはとても大切なことです。なぜなら、キリスト教は神やイエス・キリストや救いの説明をするところから始まるのではないからです。キリスト教の土台は、聖書の権威にあります。もし、私たちが聖書のなんたるかを見分けられないのなら、神学的な真理と間違いを正しく見極めることはできません。どの書物が聖書として分類されるべきだと決定するために、どのような尺度や基準が用いられたのでしょう?聖書が与えられた過程と目的と、おそらくタイミングを理解するためのカギとなる
- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......