聖書は、堕落したり、改ざんしたり、編集したり、改定したり、いじったりされていますか?

旧約聖書の書物は、およそ紀元前1400年から紀元前400年の間に書かれました。新約聖書の書物は、およそ40年から90年の間に書かれています。ですから、聖書の中の書物が書かれてから、1900年から3400年がたったことになります。この間に、原書は失われてしまいました。おそらく、どれも現存しないでしょう。同時にこの間に、聖書の書物は繰り返し繰り返し書写されてきました。写しの写しの写しが作られてきたのです。これを念頭に入れて、聖書はそれでも信頼できるのでしょうか?神が、神のことばを書かせるために最初に著者たちを霊感されたとき、聖書は神の霊感によるもので、間違いがありませんでした(IIテモテ3:16-17、ヨハネ17:17)。聖書が、これを原本の写しに適用しているところはどこにもありません。筆記者た

聖書に書物を足すということは可能ですか?

神がご自身のことばに、さらに何か啓示を付け足すかもしれないと信じる理由はありません。聖書は、人類の始まりである創世記に始まり、人類の終わりであると私たちが知っている黙示録で終わっています。その間にあるすべての書物は、信者として私たちの役に立つためにあり、日々の生活の中で私たちを神の真理によって強めてくれます。これはIIテモテ3:16-17にあります。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」もし、聖書に更に書物が付け足されるなら、それは、私たちが今日持っている聖書が不十分であるということになり、聖書には私たちに必要なことが全部書かれていないということになります。直接

聖書の無謬性を信じることは、なぜ大切なのですか?

私たちは、間違いに直面すると、肩をすくませるような傾向にある時代に生きています。ピラトのように「真理とは何か?」と問う代わりに、ポスト・モダン人は「真理はない」か、または「真理はあるが、我々はそれを知ることはできない」と言います。私たちはうそをつかれることに慣れて育ち、多くの人々は、聖書もまた間違いがあるという見解に満足しているように見えます。聖書の無謬性という教理は、大変に大切です。なぜなら、真理は重要だからです。この問題は神の属性を反映し、聖書が教えているすべてのことに関する私たちの理解の土台です。以下に、なぜ私たちが聖書の無謬性を信じなければならないかの理由をあげます。1.聖書自体が完全であると宣言しています。「主のみことばは混じりけのないことば、土の炉で七回もためされて、純化かれた銀

なぜ聖書を読み/学ぶべきなのですか?

単純に言えば、聖書が神のことばだからわたし達はそれを読み、学ぶべきなのです。第2テモテ3章16節は、聖書は神の息がかかっていると言っています。つまり、ことばを変えれば、わたし達にとって、聖書は神のことば であるということです。思想家など多くの人たちがする非常に多くの質問の答えを、神は聖書の中で与えてくださいます。人生の目的は?自分はどこから来たのか?死後の世界はあるのか?死んだらどうなるのか? どうしたら天国にいけるか?世界はなぜこんなにも悪がはびこっているのか?なぜ良いことをしようとして、もがくのか?これらの“大きな”質問に加えて、実用的なアドバイスを山ほど与えています。例えば、 結婚相手を探す時、どういうことを求めるか?どうしたら、良い結婚生活ができるか?どうしたら、良い友達になれるか?

聖書の書物の著者は誰ですか?

究極的には、人間の著者を超えて、聖書は神によって書かれました。IIテモテ3:16には、聖書は神の「霊感による(訳注:英語では『息を吐き出すように神によって吐き出された』となっています)」と書かれています。神が聖書の人間の著者を監督されました。それは、彼ら独自の文章形体と個性を使いながらも、彼らが神の計画されたとおりを記録 するためでした。聖書は、神の口述筆記ではありませんが、神によって完璧に導かれ霊感されたものなのです。人間的に言えば、聖書はおよそ40人のそれぞれ違った背景を持つ男たちによって、1500年に渡って書かれました。イザヤは預言者、エズラは祭司、マタイは取税人、ヨハネは漁師、パウロは天幕作り、モーセは羊飼い、ルカは医者でした。15世紀に渡り、違う著者たちによって書かれていながら、聖

聖書が霊感を受けているとはどういう意味ですか?

人が聖書が霊感を受けていると言う時、それは、神が人間の著者に影響を与え、聖書を書かせたので、彼らの書いたものは神のことばそのものであるという事実を指して言うのです。聖書の中では、霊感ということばはただ、「神の息が吹きかかった」という意味です。霊感を受けているということは、聖書が本当に神のことばであること、他のすべての本よりも全く独特なものであるという事実を私達に伝えてくれます。 どの程度まで聖書が霊感を受けているかに関しては様々な見解がありますが、すべて、一語一語の単語、すべての部分に神の息がかかっていると聖書そのものが主張していることは疑う余地もありません。(第1コリント2章12-13節;第2テモテ章16-17節) この聖書の見解は、「全語絶対的」霊感とよく言われています。これはどういう意

聖書を正しく学ぶにははどうしたらいいのでしょうか?

聖書の意味は何かを見つけることは、信者のこの世で最も重要な仕事です。神は私達にただ、聖書を読めとは言われません。聖書をよく研究して、聖書を正しく解釈しなくてはなりません。聖書を研究するのは難しい仕事です。.聖書に簡単にざっと目を通すだけでは、神が意図された意味ではなく、間違った結論に達するときもあります。だから、聖書の意味を正しく解釈するためには、いくつかの原則を理解することがどうしても重要になります。1. 聖霊に、理解力をくださるようにと祈る。ヨハネ16章13節には、「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなた方をすべての真理に導きいれます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなた方に示すからです。」 と書いてあります。 ヨハネ16章

聖書は今日の私達に関係ありますか?

へブル書4章12節は、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」と言っています。 聖書は40人の著者により、1500年という長い時間に書かれたのですが、その正確さと今日にも適切なことに、変わりはありません。聖書は、神自身について、人間のための計画について、神が私達に与えられた唯一の客観的な啓示の源泉です。 聖書は、自然界に関して科学的観察や研究によって確認された非常に多くの情報を含んでいます。レビ記17章11節;伝道者の書1章6-7節;ヨブ記36章27-29節;詩篇102編25-27節、それから、コロサイ 1章16-17節などがそう言う情報の箇所です。人間の贖いのための神の計画

聖書には、間違い、矛盾、不一致などがあるでしょうか?

聖書を、間違いを見つけてやろうという偏った先入観を持ってではなく、表面通り読めば、聖書は、筋の通った、首尾一貫した比較的わかりやすい本であるということがわかります。はい、もちろん困難な箇所もあります。中には互いに矛盾しているように思える聖句もあります。しかし、 聖書は1500年位かかって約40人の著者によって書かれたと言う事を私達はおぼえておくべきです。各著者は、各々違った様式で、異なった観点から、異なった読者に向けて異なった目的で書いているのです。 いくらかの違いがあって当然だと言っても不思議ではないのです。 しかしながら、違いがあるということと、矛盾があるということは同じことではありません。 もし、どう考えても聖句や聖書の箇所が絶対に一致しないと言うなら、間違いだということになります。

聖書の正典はいつ、どのようにして集録されたのですか?

「正典」とは、神の霊感を受けた書物のことで、だから聖書に属する書のことを言う時に用いられることばです。聖書の正典を決める難しい面は、聖書が正典に属すべき書物のリストを教えてくれていないことです。正典を決めるには過程がありました。まず、ユダヤのラビや学者達によって決められ、後に、初代のクリスチャンによって決まりました。最終的には、どの書が正典に属すかを決めたのは 、神でした。聖書の書は神が霊感を持って人に書かせたそのときから、正典に属していました。ただ単に、 どの書が聖書に含まれるべきかを、神が人間にどう納得させるかという問題でした。 新約聖書に比べ、旧約聖書はその正典がどれであるかについての論争はほとんどありませんでした。へブル人の信者たちは、神の使者を認識して、その人たちの書いたものを、神

もしクリスチャンが自殺すると、その人は救われているのですか?

悲しいことに、クリスチャンでも自殺することがあります。その悲劇に加えて、自殺することは自動的に地獄へ行くことになるという間違った教えがあります。多くの人は自殺するクリスチャンは救われていなかったと信じています。この教えは聖書では支持されていません。聖書は、私たちがキリストを本当に信じた瞬間から、私たちには永遠のいのちが保障されていると教えています。(ヨハネ3:16)聖書によると、クリスチャンは永遠のいのちを持っていることを疑いなく知ることができます。(1ヨハネ5:13) クリスチャンを神の愛から離れさせるものは何もありません。(ローマ8:38-39) どんな"造られた物"もクリスチャンを神の愛から離れさせることはできないのです。自殺するクリスチャンでも"造られたもの"です。だから自殺でさえク

聖書とは何ですか?

「バイブル(聖書)」ということばは、ラテン語とギリシャ語の「本」という意味のことばから来ています。聖書は時を越えた、すべての人のための本ですから、まさにぴったりの名前であるといえるでしょう。聖書は他に類のない本です。聖書は66巻の書物から成り立っています。そこにはレビ記、申命記のような律法の書、エズラ記、使徒行伝のような歴史書、詩篇や伝道者の書のような詩書、イザヤ書や黙示録のような預言書、マタイやヨハネのような伝記、そしてテトスやへブルのような書簡(正式な手紙)が含まれています。著者たちおよそ40人の人間の別々の著者が貢献して、聖書は約1500年に渡って書かれました。著者たちは王、漁師、祭司、政府の役人、農民、羊飼い、医師とさまざまです。これほどの多様な人々が、信じられないような一致をし、共

救う恵みとは何?

"救う恵み"は慣用語としては、"欠点を補う取り得"のことで、人を受け入れるに価するようにする資質のことです。しかし、それは聖書的な意味ではありません。聖書の恵みということばは,"人間の新生と、聖化において与えられる多分に過ぎた神の助け"、または"それを受けるに値しない人に与えられる神の情け"という意味です。聖書的には、"救う恵み"は人を救う神の恵みのことです。聖書は、恵み、功なくして受ける神からの恩恵が必要なのだと教えています。「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。」(ローマ3:20) 神からの救う恵みを受ける唯一の方法は、キリストを信じる信仰によるのです。「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

行いによる救いは、なぜそれほど広く信じられている見解なのでしょうか?

簡単な答えは、行いによる救いは人間の目には正しいように見えるからです。人間の根本的願望のひとつは、自分の運命を自分で支配するということです。その中に永遠の運命も含まれています。行いによる救いは人間の自尊心と支配したいという願望に訴えます。行いによって救われることは、信仰によってのみ救われるという考えよりもはるかにその願望に訴えるのです。それに人間は本来、正義感があります。 最も熱心な無神論者でさえ、ある種の正義を信じていて、善悪に関する観念があります。 そのような判断をする道徳的基礎はないにしても。私たちの本来の善悪の観念が、私たちが救われるには,"良い行い"が"悪い行い"よりも多くなければならないと要求します。 だから人間が宗教を作り出す時、ある形で行いによる救いが関係してくるのは自然なの

聖書によると新生とは何のことですか?

新生は〝新しく生まれ変わる″と言う意味です。聖書の「ボーン.アゲイン」と関係があります。私たちの新生は、私たちが肉体的に受胎して罪の性質を受け継ぐ最初の生とは違います。 新しい誕生は 、霊的で聖で、天からの誕生で、私たちが霊的に生かされる結果になります。人間の生まれつきの状態は、キリストによって生かされるまで、「自分の罪過と罪との中に死んでいた」のです。キリストにを信じる信仰によって、生かされるのですが。(エペソ2:1) 新生は過激的な変化です。私たちの肉体の誕生の結果、新しい人がこの地上の領域に入って来るのと同じように、 霊的誕生は、新しい人格が天の領域に入る結果になります。(エペソ2:6)新生した後、私たちは神に関することを見たり聞いたり、求めたりするようになります。;私たちは信仰と聖な

救いは死後の世界以上に影響するのですか?

私たちはよく死後の世界に救いが影響することを強調しますが、現在の私たちの生活にどんな影響を与えるべきかあまり考えません。信仰によってキリストのところへ来ることは多くの点で重大な時期です。一度救われたら、私たちは罪から解放されて、新しいいのちと新しい前途を与えられます。ジョン.ニュートンが言ったように、「以前は迷っていたが見つけられた。/目が見えなかったが今は見える。」(直訳)と。救いの後はすべてが変わるのです。書簡の中には日常に日々の生活について強調されていることがあるのがわかります。エペソ2:10には、私たちが救われた理由は単に天国で永遠を過ごすためではなく、「神は良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えて下さったのです。」 これらの良い行いはここで、この世でしなければなりませ

なだめとは何?

"なだめ″と言う語は、特に神に対して、基本的には,"鎮める、怒りを和らげる、満足させる"という意味を含めます。なだめは、怒らせた人の怒りを鎮めることとその人と和解することの二つの部分が含まれます。 神の怒りを鎮める必要は多くの宗教に共通することです。古代の異教の宗教でも今日の多くの宗教でも、人間は様々な捧げ物や犠牲を捧げて神の怒りを鎮めるという考えが教えられてきました。 しかしながら、聖書は、神の怒りが鎮められて、罪人が神と和解させられる唯一の方法を、神が備えられたと教えています。新約聖書では、なだめの行いは、いつも人間が捧げる犠牲や捧げ物ではなく、神のわざのことを言います。この理由は、人間は、神の正義を完全に満足させるには無力だからです。永遠に地獄に行くこと以外は。神の聖なる怒りを鎮め、神

救いのためには公に信仰告白することは必要ですか?(ローマ10:9-10)?

ローマ10:9-10は、人をキリストの信仰へ導こうと善意でクリスチャンがよく引用する箇所です。 「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」この箇所は、口に出して聞こえる信仰告白で救われるという意味にとるべきではありません。私たちは恵みのゆえに信仰という賜物によって救われると知っています。(エペソ2:8-9)口で言うことばでではありません。だから、ほかのすべての聖書箇所がそうであるように、ローマ10章を正しく理解するには、前後関係が非常に大事なのです。ローマ書が書かれた時点では、キリストを受け入れて主と告白することは典型的に迫害を受け、最終的

救いは信仰によるということをどうして信じられるのですか?「信仰だけ」と言っている唯一の聖書箇所(ヤコブ2:24)が救いは信仰だけによるのではないと言っているのに。?

聖書の中で、「信仰だけ」ということばを含む唯一の節が救いは信仰だけによるということに反対の議論をしているように思えることは全く本当です。ヤコブ2:24は、「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」と言っています。しかしながら、この節だけに基づいて、救いは信信仰だけによると言う教理を否定するのは二つの問題があります。第一に、ヤコブ2:24の前後関係を見ると、救いは信仰だけによるという教理に反対しているのではないのです。二番目に、聖書は、救いは信仰だけによるということを明白に教えるために、精密な「信仰だけによる」ということばを含む必要はありません。ヤコブ2:14-26、特に24節はいくつかの混乱した解釈の対象になって来ました。この箇所は、確かに、

自分が選ばれた者のひとりであることはどうしたらわかりますか?

救いに関しての選びの意味が何であるか多くの考えがあるのですが、信者は選ばれているという事実は疑う余地もありません。(ローマ8:29-30;エペソ1:4-5,11;1テサロニケ1:4)簡単に言えば、選びの教理は、神が誰が救われるかを選び/決断され/選んで/あらかじめ定められるということです。選びがどのように作動するかを決めるのは、この記事の範囲以外です。それよりも、この質問は「自分が選ばれている者のひとりであるかどうかを知るにはどうしたらいいか?」です。 答えは非常に簡単です。信じなさい。!です。 聖書のどこにも、選ばれているか否かについて心配しなさいとは教えていません。それよりも神は私たちに信じるように、恵みを通して信仰によってイエス.キリストを救い主として受け入れなさい(ヨハネ3:16;エ

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