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- 「この人たち以上に」ヨハネ21:15-25 中村吉基
イザヤ書62:1-5;ヨハネによる福音書21:15-25今日は午後から定期教会総会が開かれます。この一年の間に神さまからたくさんの恵みを受けたことに感謝しつつ、また新たな一年を、教会という「舟」に乗って共に今日ここから歩み出したいと思うのです。今日の箇所では、主イエスを「愛しているか」と何度も問われたペトロが登場します。私たちはこの物語をペトロ個人が主から尋ねられたというだけで読み過ごすのではなく、私たちの教会も、そして私たち自身も主イエスから「わたしを愛しているか」と問われています。そのことを念頭に置いて、今日の主の言葉に聴きたいと思うのです。先週は、魚が漁れないと思われていたティベリアス湖で、主イエスが「舟の右側に網を打ちなさい」と言われた一言で、網を引き上げられないほどの大漁となり、そ
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- シオン主義/クリスチャンシオン主義とは何?
シオン主義は発端は単なる政治的運動でしたが、今日では何よりもイデオロギーになって来ました。シオン主義は、ヘブル語の聖書がユダヤ人に約束しているように、イスラエル国家の政府としての権威を維持する権利を持ちながら、シオンに、つまりイスラエルの土地にユダヤ人を戻そうとする国際的な運動です。シオン主義の根拠は創世記12章と15章にあります。そこで神はアブラハムと契約を結び、アブラハムの子孫がエジプトとユーフラテス川の間の土地を相続すると約束されました。シオン主義が政治的運動として始まったという事実のゆえに、宗教的でない異邦人と非宗教的ユダヤ人の間に、ユダヤ人の宗教的背景とシオン主義とは何の関係もないという考え方が存在しています。シオン主義はそれよりも、第一次、第二次世界大戦の時のユダヤ人の世界的迫害
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- バアルとは誰?
バアルは古代カナンとフェニキヤで崇拝されていた最高の神の名前です。バアル崇拝は士師の時代にイスラエルの宗教的生活に侵入しました。(士師記3:7)アハブ王の時代にイスラエルに広くはびこり、(1列王記16:31-33)ユダにも影響を及ぼしました。(2歴代誌28:1-2) バアルということばは、”主”という意味で、その複数形はバアリムです。バアルは普通、地の農産物の収穫 を増やし、人々の多産を可能にする多産神だと信じられていました。違った地方では、違った方法でバアルを礼拝していました。バアルは非常に適応性のある神であることがわかっています。いろいろ異なった地方では、バアルの一、二の性質を強調して、それぞれのバアル礼拝の〝宗派“を発達させました。バアル.ペオル(民数記25:3)、バアル.ペリテ(士師
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- モレクとは誰?
多くの古代の歴史と同じく、モレク礼拝の正確な発端は明らかではありません。モレクということばは、フェニキヤのmlk から始まったと信じられています。mlk は誓願を確認、又は放免するために払う犠牲の型のことだとされます。メレク( Melekh )はヘブル語の“王”ということばです。イスラエル人が異教の神の名とヘブル語の“恥”(bosheth )という語の母音を結合させるのはよくあることでした。こうして多産と戦争の女神 アスタルテがアシェタロテになったのです。 mlk, melekh, と bosheth を混合すると、“恥ずべきいけにえの支配者が人格化された者”とも訳すことができるモレク( “Molech,)になりました。モレクは、ミルコム(Milcom ),ミリキム( Milikim) ,
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- アシュラとは誰?
アシェラ、又はアシュタロテは古代シリヤ、フェニキヤ、カナンで崇拝されていた女神の名前です。フェニキヤ人はアシュタルテ とその女神を呼び、アッシリヤ人はイシュタ―と呼んで崇拝しました。ペリシテ人はアシェラの神殿を持っていました。(1サムエル31:10) イスラエルがカナンの地を完全に克服しなかったので、アシュラ崇拝はなお続き、ヨシュアが死ぬとすぐ始まってイスラエルを悩ませました。(士師記2:13)アシュラは土に立つ枝のない木の幹で代表されています。幹はふつう女神の象徴的な代表が彫刻してありました。彫刻された木に関係しているので、アシュラ崇拝の場所はふつう、木立“ と呼ばれ、へブル語のアシュラは女神、又は”木々の木立“のことを指すこともありました。 マナセ王の悪い行いの一つは「自分が造ったアシェ
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- トリノの聖がい布は、本物ですか?
トリノの聖骸布は、イエスキリストが埋葬されたときに使われた亜麻布だと信じる人もいます。4つの福音書はそれぞれ、イエスが布にくるまれて埋葬されたと記しています。(マタイ27:59;マルコ15:46;ルカ23:53、ヨハネ19:40) トリノの聖骸布は、紀元14世紀に〝発見”され、又は少なくとも公にされました。トリノの聖がい布は、それが置かれている町 -イタリヤのトリノにちなんで名づけられています。トリノの聖がい布のいくつかの写真を含んでいるウェブサイトがあります。 http://www.shroud.com/examine.htm. 調査の結果、トリノの聖がい布は十字架刑で死んだ男性のようです。手と足に十字架刑で受けた傷 と一致する傷痕があります。イエスの拷問について叙述された記録のと同じ
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- 聖痕とは何?それは聖書的ですか?
聖痕とは、イエスの傷跡が人のからだに現れることです。聖痕の中にはキリストのむち打ちによる傷跡、又はいばらの冠によってできた頭の傷痕の表われも含まれます。しかし、伝統的に聖痕は5つの典型的な点;脇腹(キリストの死を確認するために槍で突かれた所)、両手、両足(十字架の時の釘によって起きた傷)から成っています。 聖痕は、”5つの傷痕”又は”主の聖なる傷 痕”とも呼ばれています。境界の歴史上、数人の人が奇跡的に聖痕を受けたと主張しています。しかしながら、これらの現れと思われているものの正当さに関しては重大な挑戦があります。多くは奇跡的な聖痕を真似ようとして自分で傷つけたものだと証明されています。聖書のどこにも聖痕を受けるようにとは教えていないし、また神が聖痕を与えるとも言ってません。ガラテヤ6:17
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- 山上の垂訓とは何?
山上の垂訓はマタイ5-7章でイエスがされた説教のことです。マタイ5:1-2ニその説教が山上の垂訓と呼ばれるようになった理由が書いてあります。:「この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこでイエスは口を開き、彼らに教えて言われた。」 山上の垂訓はイエスがされた最も有名な説教です。多分他の誰もがした最も有名な説教と言えるでしょう。 山上の垂訓はさまざまな題目を取り扱っています。この記事の目的は すべての題目にコメントするのではなく、どちらかというと、垂訓の中にある事柄の短い要約をすることです。山上の垂訓を一文章で要約するとしたら、このようになるでしょう。 :偽善から解放されて、愛と恵みにあふれ、知恵と識別力に満ちた、神にささげる、神に喜ばれる生活をするにはど
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- 神の七つの霊とは何?
〝神の七つの霊”は黙示録1:4;3:1;4:5;5:6に出てきます。神の七つの霊が何であるかは特に書いてありません。だから独断的に断定するのは不可能です。黙示録1:4では、七つの霊は神の御座の前にいると言っています。黙示録3:1では、イエス.キリストが神の七つの霊を持っていると示されています。黙示録4:5は、神の七つの御霊と神の御座の前ににある七つのともしびを結びつけています。黙示録5:6は、七つの御霊が子羊の〝七つの目″ だとして、その目は〝全世界に遣わされた”と述べています。神の七つの霊には少なくとも3つの解釈が可能です。第一は、神の七つの霊は聖霊を象徴しているということ。 聖書は、特に黙示録は、7という数字を完璧、完成という意味に使っています。もし、〝七つの霊”の意味がそういう意味であ
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- マグダラのマリヤとは誰ですか?
マグダラのマリヤは、イエスが7つの悪霊を追い出された女性です。(ルカ8:2)マグダラという名前は、彼女がガリラヤ湖南西の岸辺の町マグダラ出身だということを示しています。イエスが彼女から7つの霊を 追い出された後、彼女はイエスにつき従う人の中のひとりとなりました。 マグダラのマリヤはイエスの足を洗った”一人の罪深い女”(ルカ7:37)と連想されていますが、聖書的な根拠はありません。マグダラの町は確かに売春で評判のある町でした。この情報とルカが罪深い女の記事(ルカ7:36-50)のすぐ後に初めてマグダラのマリヤのことを書いていることと関連して この二人が同一人物だと推測する人がいます。しかし、聖書的にはこの考えを支持する証拠は何もありません。マグダラのマリヤは、どこにも売春婦とも罪深い女としても
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- サマリヤ人とは誰?
サマリヤ人は以前エフレイムと半分のマナセ族が所有していた土地を占領していました。その国の首都はサマリヤで以前は偉大で立派な、町でした。 イスラエルの10部族がアッシリヤに捕囚されていった時、アッシリヤの王は、クテ、アワ、ハマテとセファルワイムから人を送ってサマリヤに住ませました。(2列王記17:24;エズラ4:2-11)これら外国人たちはサマリヤ周辺にまだ住んでいたイスラエル人人口と結婚 しました。これらの”サマリヤ人たち”は初めは自分たちの国の偶像をを礼拝していましたが、 ライオンに悩まされて、それはその地方の神を敬わなかったせいだと 思いました。それで、ユダヤ人の祭司がアッシリヤから送られてきて、彼らにユダヤ教の神について教えました。彼らはモーセの書から教わったのですが、それでも自分たち
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- ユダは赦されて/救われていたのですか?
聖書は明らかにユダが救われていなかったと示しています。イエスご自身がユダのことを、言われました。「人の子は自分について書いてある通りに、去っていきます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかった方がよかったのです。」(マタイ26:24)ここに、神の主権と人間の意志がともに働いていることが明確に描かれています。神は永遠の昔から、キリストがユダに裏切られて、私たちの罪のために十字架で死んで、よみがえられることを定めておられました。イエスが「自分について書いてある通りに去っていきます。」と言われたのはこの意味だったのです。 人間のために救いを備える神の計画は、何も止めることはできなかったのです。 しかしながら、すべてがあらかじめ定められていたという事実は、ユダの弁解
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- 命は受胎の時から始まると聖書は教えていますか?
聖書は確かに命が受胎で始まると教えています。人間の命がいつ始まるかという見方は、すべての文化によって、その文化の価値、道徳的水準、胎児の初期の発展過程の知識 などで変わります。アメリカ合衆国では、1973年に最高裁判所が要求に応じての堕胎を許可した決断以前は、発達途中の胎児は、生まれる前の人だとみなされていました。今では、母親の胎外でも自分で生き延びることのできる胎児でさえ、ある医学的状況においては、堕胎をすることが合法的に許可されることができます。これは、生まれていない子供は本当に人間だとはみなされないことを表します。 科学は人間の命は、受胎の時に始まると教えています。受精の瞬間に、子供の遺伝子の調合はすでに完成しています。 その性は、背丈と、髪、目、皮膚の色と共にすでに決まっているのです
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- 聖書で高き所の意味は何ですか?
高き所とは、簡単に言えば、礼拝のために、谷間などの低地で土を高く盛り上げたり、高くした祭壇のことです。高き所は初めは、偶像礼拝に用いられていました。(民数記33:52;レビ記26:30)特にモアブ人の間で。(イザヤ16:12)これらの神社は、しばしば祭壇と石の柱、又は様々な形(礼拝の対象として、動物、星座、女神などを表す形)の木の柱などの聖なる物体も含まれていました。イスラエル人は絶えず神から離れていて、モレクの崇拝をし、バアールのために高き所を建てました。(エレミヤ32:35)ソロモンはエルサレムに神のために神殿を建てましたが、 のちに、エルサレムの外に、外国人の妻たちのために偶像礼拝のための高き所を建てました。そして妻たちと一緒にそこで礼拝しました。それが原因でソロモンは王国を失うことに
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- バプテズマのヨハネは本当にエリヤの生まれ変わりだったのですか?
マタイ11:7-14は、「この人たちが(ヨハネの弟子たちが)行ってしまうと、イエスはヨハネについて群衆に話しだされた。『あなた方は何を見に荒野に出て行ったのですか。風にゆれる葦ですか。でなかったら、何を見に行ったのですか。やわらかい着物を着た人ですか。やわらかい着物を着た人なら王の宮殿に住んでいます。でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。その通り、だが、わたしは言いましょう。預言者よりも優れた者をです。この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道をあなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。まことにあながたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテズマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。
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- 黄金律とは何?
黄金律とは、山上の教訓でイエスが教えられた原則の呼び名です。“黄金律”ということばは実際には聖書にはありません。“山上の教訓”ということばも同様に聖書にはありません。 これらの呼び名はのちに聖書の訳者たちが聖書の学びを少し簡単にするために、聖書の箇所を説明して付け加えたものです。“黄金律″ということばは、あの当時すでに流行していた言い回しだったので、16~17世紀の間に聖書のこの箇所に当てはめられるようになりました。このことに注意するのは重要です。黄金律について話す時、クリスチャンは時々知らずに、間違って、イエスが実際言われたことばにしてしまうからです。 いわゆる〝黄金律”とはマタイ7:12の「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。これが律法であり、預言
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- 神はなぜ、エノクとエリヤを、死なないまま天に取られたのですか?
聖書によると、死なないままで神が天に取られた人はエノクとエリヤの二人しかいません。創世記5:24に、「エノクは神と共に歩んだ。神が彼を取られたので彼はいなくなった。」とあります。 2列王記2:11では、「、、、何と一台の戦車と火の馬が現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上がって行った。」とあります。エノクについては〝300年間、神と共に歩んだ”人(創世記5:23)とあり、エリヤは、多分旧約聖書で最も力強い神の預言者でした。エリヤが再び戻って来るという預言もあります。(マラキ4:5-6)。神はなぜエノクとエリヤを取られたのでしょうか?聖書は特に答えを出していません。終わりの時に彼らがする役目の準備のためにとられた、黙示録11:3-12の二人の証人としての役目の可能性があると憶
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- 神はなぜ悪霊を送ってサウルを悩ませたのですか?
「主の霊はサウルから離れ、主からの、災いの霊が彼をおびえさせた。」(1サムエル16:14)1サムエル16:15-16,23,18:10と19:9にもこのことは出てきます。神はサウルをおびやかすために”悪霊”を送られました。サウルは二度にわたって、神の命令に直接逆らいました。(1サムエル13:1-14;15:1-35)。 それで、神はサウルから聖霊を取り去って、悪霊がサウルをおびやかすのを許されました。多分、 サタンと悪霊たちは、ずっとサウルを攻撃したいといつも思っていたのでしょうが、ここで神はただ、そうすることを許可されたのです。これは、次に関連した質問になります。―今日でも神は悪霊を送って、人々を悩まされますか? 新約聖書にも、罰としてサタン、又は悪霊に受け渡される人の例がいくつかあります
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- クリスチャンは、世界的貧困と飢餓に対してどのように反応すべきですか?
最新の統計によると、世界中で8億4千万人以上の人が慢性的に栄養不良です。毎日、2万6千人の幼い子供たちが、貧困、飢餓と予防できる病気のせいで死んでいます。 世界人口のそれほど多くが、そんな嘆くべき状況にある中で、ではクリスチャンは何をしたらいいのでしょう?教会はどのように反応すべきなのでしょう? クリスチャンは、世界的貧困と飢餓に対してあわれみをもって反応すべきです。 イエス様が見本を示されたように(マルコ8:2)貧しい人たちに対して本当のあわれみを持つことは、その必要に気付くこと、人々のことを心配してあげて、彼らのためにいつでも行動を起こす準備をしていることです。貧しい兄弟のためにあわれみを持つことは私たちのうちに神の愛が宿っている証拠です。(1ヨハネ3:17) 貧しい人たちに親切にすると
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- ペンテコステの日とは何?
”ペンテコステ”は、旧約でも、新約聖書でも重要な意味があります。ペンテコステは実は、旧約聖書で、”七週間の祭り”(レビ記23:15,16;申命記16:9)として知られていた祭りのギリシャ語の名前です。 ギリシャ語で五十という意味で、過ぎ越しの祭りで奉献物の束を持ってきた日から50日過ぎたことを述べています。七週の祭りは、穀物の収穫の終わりを祝います。しかしながら、最も興味深いのは、ヨエルと使徒伝でのペンテコステということばの使い方です。ヨエルの預言(ヨエル2:8-32)を振り返って、キリストが昇天される前の最後の聖霊を送るという約束(使徒伝を1:8)を前方に見ると、ペンテコステは教会時代の始まりを告げる信号なのです。 ペンテコステの日に起こった実際の出来事に関する唯一の聖書記録は、使徒伝2:
- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......