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- 輝かしい勝利への確信
⇒(MP3, 32kbps)「輝かしい勝利への確信」陶山義雄イザヤ書50,4-9; 今日は教会暦では、本年最後の主日で、終末主日と呼ばれています。また、同時に収穫感謝の聖日です。日本の暦では昨日(11月23日)は勤労感謝の祝日でした。しかし、元を辿れば、これもキリスト教の行事、取り分けアメリカの収穫感謝祭が11月第四木曜日ですから、それに繋がっているように思います。来週からは待降節(アドヴェント)を迎え、私達は喜びに包まれたクリスマスの季節に入ります。その前に置かれた今日の礼拝で私達が覚えて置くべきこと、それは終わりの時に与かる栄光の有様です。栄光の勝利に私達が招かれているからこそ、降誕節でそれを齎して下さった御子イエス・キリストのご降誕を、喜びをもって迎えることができるのではありませんか。
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- 怒りを主に委ねて和解の勤めを(山上の垂訓 講解説教 第4回)
⇒(MP3, 32kbps)「怒りを主に委ねて和解の勤めを」(山上の垂訓 講解説教 第4回)陶山義雄エゼキエル書22,23-31; 本日は待降節第2の主日を迎えました。今年も救い主・主イエス・キリストのご降誕を覚え、それぞれの心に主をお迎えする準備の時を過ごしています。 私が担当する礼拝では、この所、「山上の説教」をテキストとして、講解説教を勤めておりますが、本日はその4回目となります。第1回目が「祝福の招きについて」、第2回目が「キリストに従う者の特質・地の塩、世の光であること」、第3回目が「イエスの教えである掟はユダヤ教に勝るキリスト教律法であるべきこと」を聞き、本日より、いよいよその本論に入ろうとしています。それは旧律法と比較してイエスの教えを掟とするその内容が、如何に優れているか、旧
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- イエスは誰を招くのか
⇒(MP3, 32kbps)「イエスは誰を招くのか」田中健三詩編95,1-3;1 本日の聖書箇所マルコ2,13―17はイエスが通りがかりにレビという人物を見かけ、「わたしに従いなさい」と呼びかけたという出来事と、その後レビの家で多くの徴税人や罪人も含めてイエスが食事をされ、そのことに対して「どうしてそんなことをするのか」という異議が律法学者によって唱えられる、という出来事が続きます。この二つの出来事の間にはいくらか違和感があるとされており、例えば「わたしについて来なさい」と言いながらレビの家に行っていることや、徴税人はその頭であれば裕福であることはよくあったのですが、その下っ端になると必ずしもそうではなかったようなのに、大勢の人を食事に招くことができるレビは徴税人の頭のような描写がされていな
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- 泊まる場所
⇒(MP3, 32kbps)「泊まる場所」廣石望創世記18,1-8;I 日本のクリスマスは、とりわけ親しい友人たちや会社の同僚たちと共に、レストランその他で祝われますが、私が1990年代に留学したドイツ語圏スイスでは、町のお店はぜんぶ閉まってしまい、家族でたいへん静かに祝われていました。昔の日本の正月に近いかもしれません。 ただ、少しだけ違ったのは、その家族の交わりの中に、外国人である私たち一家を招いてくれる友人が毎年いたことです。友人一家の親族、つまり両親や祖父母、姉妹兄弟や従姉妹その他が集まる中に、私たち一家も招かれて子どもたちもいっしょに遊びました。また当時、私の住んでいた町には一人の有名な牧師がいて、市当局の福祉課とかけあって、路上生活者たちを一流ホテルに招くクリスマスの食事会をオー
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- 満ち溢れる豊かさ
⇒(MP3, 32kbps)「満ち溢れる豊かさ」廣石望I クリスマスおめでとうございます。 私たちの世界では、何かを成し遂げることで他の人たちから認めてもらえ、自分も満足します。きちんと挨拶のできるよい子であるか。評判のよい学校に入り、よい成績をあげられたか。バイト先で褒められるか。魅力的だ、指導力があると人から言われるか。社会で立派な地位についたか。あるいは、ちゃんと貯金がたまったかなど。──人間とは、その人が自分を元手に生み出した価値と同じだけ尊い、という考え方です。II イエス・キリストはそのような世界に到来し、世界の始まりはそうではなかったと告げた存在です。 「初に言があった」とある「言」とはキリストのことです。神は、「言」であるイエス・キリストを通して、この世界と私たちを創造しまし
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- 幼子とその母を連れて
⇒(MP3, 32kbps)「幼子とその母を連れて」廣石望出エジプト記12,21-28;I 「ユダヤの王は、このわし一人じゃ!」――教会学校の降誕劇でヘロデ王が放つ科白です。もっとも劇では、その後の幼児虐殺は演じられません。残酷すぎるからです。この聖書箇所にもとづく賛美歌を『讃美歌21』に探しても、ほぼありません。歌にできないのでしょう。ヨセフは「幼子とその母を連れて」(13節、20節)、逃げ回ります。しかし他の子どもたちは、まるで身代わりのように殺されてしまいました。キリスト教徒は、イエスが殺されなくてよかったと胸をなでおろすだけでよいのでしょうか?II 幼子イエスのエジプト逃亡とヘロデによるベツレヘム一帯の幼児虐殺は、マタイ福音書のみによって証言され、他の福音書や同時代の他のユダヤ教文献
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- 女性と弱者の側に立つイエスの言動(山上の垂訓講解説教 第5回)
⇒(MP3, 32kbps)「女性と弱者の側に立つイエスの言動」(「山上の垂訓」講解説教 第5回)陶山義雄創世記6,1-4、8,20-22; 「山上の説教」講解説教を始めて本日は第5回目になります。第1回目(6月2日)は山上の説教・冒頭にある、全ての人を幸福に向かって招き入れる「7つの祝福の呼びかけ(心の貧しい人たち、悲しむ人たち、へりくだる人たち、義に飢え渇く人、慈悲深い人たち、心の清い人たち、平和を作り出す人たち、義のために迫害された人たち)を通して、究極的な幸福とは何かを、御言葉を通して学びました。 第2回(7月7日)はイエスに従う者の特徴を「地の塩」、「世の光」として掲げている聖書の内容を共に見つめました。そして第3回目(9月22日)は「新しい生き方の掟」と題してマタイ福音書記者がユ
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- 被造物に現れる神性
⇒(MP3, 32kbps)「被造物に現れる神性」田中健三創世記1,11-13;1 創世記1章は神が自然を造り、それを良しとしたことが連続で記されています。このこと自体がエコロジーに関してユダヤ・キリスト教的思想における支持を示していますが、「神が自然を良しとした」と人が思ったということです。ところでこの「良しとした」という内実を、進化論的視点を加味することでより深く味わうことができます。 創世記ではあたかも神が自然を、間違いなく、的確に、神の能力に相応しく簡単に、完成させたように記していますが、現実の自然の生成(神の視点で言えば創造)は決して容易なものではありません。つまり自然を観察、研究するならば、神とても簡単に創造したわけではないということになります。 今存在する自然あるいは世界は、失
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- 斧は木の根元に
⇒(MP3, 32kbps)「斧は木の根元に」廣石望イザヤ書10, 27b-34;I 洗礼者ヨハネが、切迫する「火」の審判を告知したことはよく知られています。 私たちにとって「審判」ないし「危機」とは何でしょうか。最初に思い浮かぶのは宇宙人が攻めてくる、あるいは巨大隕石が地球に衝突するといったSFパニック映画のシナリオです。核戦争の危機を描く映画もありますが、こちらはよりリアルな可能性と感じます。 人災としての大量死を私が身近に予感したのは、2011年3月、東日本大震災に引き続いて、福島第一原子力発電所が炉心溶融と建屋爆発という大事故を起こしたときです。ありがたいことに、私も皆さんも生き延びています。今も廃炉のための難しい作業が続いていることは知っています。しかし都心の日常生活においては、あ
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- 東や西から
⇒(MP3, 32kbps)「東や西から」廣石望イザヤ書49,7-13;I 私たちは、ピンチのときに外に向かってSOSを発信し、助けを求めるのが苦手です。「自分のことは自分でしなさい」と言われて育ったからです。他人を頼ってばかりいると「みっともない」と言われます。それでも、例えば年齢とともに体力は衰えます。その場合にも、労働としてのケアに対価を支払うのは、保険を使うとはいえ、やっぱり自分です。だから、いくら貯蓄があるかが気になります。助けを求めてよい範囲も、たいてい家族や親族などの狭い範囲に限られます。あるいは「善きサマリア人」の譬え(ルカ10,30以下)が示すように、異民族に属する人が境を超えて怪我人を助けることは、通常はありません。 それでも福音書には、外国人がイエスに病気治癒を求める物
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- 誓いによらず良心に聴く(山上の垂訓・第6回講解説教)
⇒(MP3, 32kbps)「誓いによらず良心に聴く」(山上の垂訓・第6回講解説教)陶山義雄イザヤ書55, 8-13; 「山上の垂訓」講解説教も第6回目を迎えました。第一回は「幸いなるかな」で始まる7つの祝福を通して全ての人を山上の説教へ招き入れる呼びかけがでした。第二回は主の教えに聴き従う人はこの世にあって、どう云う人々であるのか、即ち、「地の塩・世の光」となる存在であることが、高らかに語られました。そして第三回からはユダヤ教と比較して、イエスの教えと正しさ(つまり、正義)が、どのようなものであるかを旧律法と比べながら紹介を始めました。今日はこの文脈の中で、その4番目、「誓い」、「誓約」を巡ってユダヤ教とイエスの教えを対比させながら、福音の神髄を説く場面に私達は今、臨んでいます。 冒頭に掲
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- 主イエスが来られるとき
⇒(MP3, 32kbps)「主イエスが来られるとき」田中健三イザヤ書2,1-5;1 新型コロナウイルスがこのところもっぱらの話題となっており、人命に関わることであると同時に、様々な分野でそれに付随した影響が派生しています。先月福嶋揚さんがこの場所で講演されたまさにその出来事が現実に目の前で展開されており、エコロジーの問題は地球規模で取り組むべき問題であることがいや応なく示され、今回のウイルスもその一環として位置付けることができるでしょう。福嶋さんが指摘されたように、この問題は一つの国だけで完結できるようなことではありません。 2 このような国や宗教を超えて広がっていく諸問題に対して、それではキリスト教は無力であろうか、あるいはキリスト教にどのような貢献ができるのだろうか、と夢想したりします
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- 起きなさい、恐れることはない
⇒(MP3, 32kbps)「起きなさい、恐れることはない」中村吉基出エジプト記24, 12-18; 今週の水曜日から受難節・レントに入ります。今年は4月11日までの日曜日を除く40日間、イエスさまの十字架でのみ苦しみを憶えながら、私たちの信仰やあり方を糾明するときでもあります。私が信仰を育てられましたいくつかの教会ではこの時に何か自分の好きなものを断つというようなことをしたり、毎日少しずつ生活の中で我慢をしたり、犠牲を払って「克己献金」をしたりとそのようなことが思い出されます。カトリック教会では現在では灰の水曜日とイエスさまが十字架にお架かりになった受難日(聖金曜日)には断食をするなど、さまざまな教会の伝統の中で編み出されてきた信仰の習慣がありますが、受難節で大切なのは、「心を神に(キリス
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- 裏切る弟子(たち)
⇒音声を聞く(MP3, 32kbps)「裏切る弟子(たち)」廣石望イザヤ書53,1-12;新型コロナウイルスの影響拡大に伴い、この説教が予定されていた3月1日の礼拝は、中止となっています。
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- 非暴力・和解と平和への途(山上の垂訓・第7回講解説教)
⇒(MP3, 32kbps)「非暴力・和解と平和への途」(山上の垂訓・第7回講解説教)陶山義雄レビ記24,14-22; 山上の説教をテキストにして講解説教を重ねて来ましたが本日はその第7回目となりました。ここで、少し今までを振り返っておきますと、第1回目は昔の訳ですと有名な「幸いなるかな」と云う呼びかけで、全ての人を福音へ招き入れる7つの「幸い」を通して、究極的幸福についてテキストから学びました。第2回目は福音に与かって生きる人々は「地の塩、世の光」となることが説かれておりました。そして第3回以降、今日の第7回までは(正確に申せば次回の第8回までは)、イエスの教えが旧い掟とどこが違っているか、旧律法に対する反対命題を表す仕方で、裁きについて、姦淫と離婚について、誓約について等、マタイ福音書記
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- 人の子を裏切る
⇒(MP3, 32kbps)「人の子を裏切る」廣石望イザヤ書53,1-12;I 昨年12月、中国の武漢で発生した新型コロナ・ウィルス(COVID-19)が、3ヶ月後の現在、世界中で猛威をふるっています。「パンデミック」宣言を出した世界保健機構(WHO)によると、3/15日現在、世界中で15万人以上の感染が確認され、すでに約5,700人が死亡し、感染が確認された国や地域は141に上ります。 亡くなられた方々の魂に平安を、遺族近親の方々に慰めを、ウィルスに罹患された方々には一日も早い回復を、また最前線で戦っている医療従事者の方々に守りを、そして、社会の動きを決定する立場にある人々に知恵と決断力が与えられるよう、心から祈ります。 私たちのコミュニティーも、教会が感染源になることを避けるために、役員
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- 今、ここに現れる神の業
⇒(MP3, 32kbps)「今、ここに現れる神の業」中村吉基サムエル記上16,1-13; 天国の「天」に刑罰の「刑」と書いて「天刑(てんけい)病」という言葉があるのをご存じでしょうか。すでに使われなくなった言葉かもしれません。これは原因究明が出来ない病などを神が与えた罰すなわち天罰として存在する病気だとされた病気を指す言葉です。とても差別的に用いられました。かつてこういう偏見に満ち満ちた言葉を使われることによって苦しめられた人々がたくさん居られました。 たとえば肺を病んでいた人は「はい、はい」と良い返事をしなかったからだとか、顔にあざのある人は前世で人の顔を踏みつけたからだとか、あるいは何らかのハンディキャップを前世の罪の報いとか、親の罪とか、いろいろなことに「こじつけ」ました。しかし「天
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- キリストとともに歩む旅
⇒(MP3, 32kbps)「キリストとともに歩む旅」中村吉基イザヤ書50,4-9; 今日私たちは棕梠の主日の礼拝を久しぶりに教会の礼拝堂で捧げるはずでした。しかし新型コロナウイルス対策として、教会はなおしばらくの時、礼拝をはじめとする教会の諸集会を中止せざるを得なくなりました。けれども文書を通して、あるいは教会ホームページの音声を通して、皆さまとともに御言葉に聴いております。どうかこの時も神さまを仰いでいくことを忘れず、それぞれの場で礼拝を捧げられますようにと願います。「おかえりなさい」 私は今日、皆さんをこの言葉でお迎えしようと思っておりました。私たちの人生には予測の付かないことがしばしば起こります。「まさか」ということが起こるのです。それは神さましかご存じないことでもあります。つい3か
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- なぜ泣いているのか
⇒(MP3, 32kbps)「なぜ泣いているのか」中村吉基イザヤ書55,1-11;皆さん、イースターおめでとうございます。 イエス・キリストが十字架の上で亡くなられたのは、金曜日の午後3時ごろであったと聖書は告げています。傷だらけになり、血みどろになったそのお身体は十字架から下ろされて、亡骸はすっぽりと亜麻布で包まれて、頭には別の布が覆われて、岩に掘られた洞窟のような墓に葬られました。墓の入り口には大きな石で蓋をしました。普通であったら、亡くなった人に対していちばんきれいな服を着せてあげるとか、たくさんの花を飾るというのが私たちの常であろうかと思いますが、しかしユダヤ教の掟では、金曜日の日没から日曜日の夜明けまでの安息日はすべての労働を休むことになっていましたから主イエスの亡骸を引き取ったも
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- 心に鍵をかけていませんか
⇒(MP3, 32kbps)「心に鍵をかけていませんか」中村吉基出エジプト記15:1~11;「平和があるように」 先週のイースター礼拝では、復活に立ち会った女性の弟子たちあるいは男性の弟子たちの受け止め方をヨハネによる福音書から聴きました。今週もその復活の光の中で、それぞれの経験をした人々の姿を引き続きヨハネによる福音書から見ていきましょう。 今日の箇所は「週の初めの日」という言葉で始まります。週の初めの日とは、主イエスが復活をされた日曜日のことでした。主イエスの弟子たちは、再び一つの家に集まっていました。あの最後の晩餐のあった木曜日にゲツセマネの園で主イエスが敵対者に捕らえられるその時、彼らは主イエスを見捨てて、逃げ去ってきたのでした。そして、金曜日、主イエスが十字架上で残忍な死を遂げたこ
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- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
