斧は木の根元に

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「斧は木の根元に」

廣石望
イザヤ書10, 27b-34;

I

 洗礼者ヨハネが、切迫する「火」の審判を告知したことはよく知られています。

 私たちにとって「審判」ないし「危機」とは何でしょうか。最初に思い浮かぶのは宇宙人が攻めてくる、あるいは巨大隕石が地球に衝突するといったSFパニック映画のシナリオです。核戦争の危機を描く映画もありますが、こちらはよりリアルな可能性と感じます。

 人災としての大量死を私が身近に予感したのは、2011年3月、東日本大震災に引き続いて、福島第一原子力発電所が炉心溶融と建屋爆発という大事故を起こしたときです。ありがたいことに、私も皆さんも生き延びています。今も廃炉のための難しい作業が続いていることは知っています。しかし都心の日常生活においては、あたかもそれがなかったかのように、夜も煌々と明かりが灯っています。

 地球環境破壊の進捗度と速度についても、いわゆる先進国の指導者たちと環境NGOの人々の間では、認識に大きな違いがあるようです。それでも、立て続けに大きな地震が起こり、大きな被害をもたらす台風が毎年来ます。いつもと変わりないと思い込んで、危険が迫っていることに気づかず、あるべき行動をとることができない「正常性バイアス」と呼ばれる習性を、私たちは少しずつ改めて行く必要がありそうです。

 もっと個人的な水準では、例えば昨年末、日本とフランスの大手自動車会社で経営者として大活躍した人が、金融商品取引法違反の容疑で逮捕され、仮釈放中にプライベートジェットで国外に脱出し、中東の国に逃亡するという事件がありました。この人はお金とコネを使って、個人的な「危機」ないし「審判」から逃れようとしたのでしょう。他方で、お金もコネもない私たち庶民にとって、アクチュアルな危機は病気や事故、犯罪に巻き込まれること、あるいは社会的な挫折や失敗などが思い浮かびます。

II

 それにしてもなぜ、洗礼者ヨハネは審判を告知したのでしょうか? その背景に何があるのでしょう?

 イスラエル民族に対する審判預言そのものは、旧約聖書の審判預言者たちの伝統にあります(およそ前8-6世紀)。神に背いてモーセ律法に従わない民族とその指導者たちに、彼らは破滅を告げました。多くの場合、それは近隣の強国による侵略です。ヨハネの登場は、旧約聖書的な審判預言の隔世遺伝的な再来です。

 彼の時代に、何が脅威だったのでしょうか? 政治的には前4年、ヘロデ大王が死去し、盗賊戦争と呼ばれる混乱期を経て、彼の息子たちが四分封領主として、父の領地を分割統治するかたちになりました。しかしユダヤとサマリアの統治を委ねられた長子アルケラオスが、わずか10年後の後6年に廃位され、ユダヤ・サマリア地方はそっくりローマ直轄領に入りました。こうして、外国人による直接統治という恐怖がユダヤ民族に加えられるようになりました。

 洗礼者ヨハネとナザレのイエスに縁の深い、四分封領主の一人であるヘロデ・アンティパス(在位前4-後39年)は、ガリラヤとトランス・ヨルダン南部のペレアを支配しました。彼は伝統的なユダヤ文化から、いくつかの点で離反したことが知られています。アンティパスは外国人女性と結婚しましたが離婚し、兄弟の生前にその妻と再婚しました。また彼は新しい都ティベリアを、墓地の上に建設したと伝えられています。ユダヤ人にとって、墓地は人骨があるために強度の穢れをもたらします。アンティパスは自身への家臣団の忠誠を、ユダヤ文化よりも上位に置いたことになるでしょう。またこの都の王宮に、動物の彫刻を飾らせた居室がありました。ローマ風の生活をとり入れたわけですが、ユダヤ文化に伝統的な偶像禁止に反します。後のユダヤ戦争(後66-70[74]年)の始めころ、このことを知っているガリラヤ群衆が、まっさきにこの居室を破壊したと伝えられています。

 つまり洗礼者ヨハネが感じとった「危機」の背後には、政治的また文化的・宗教的な意味での伝統価値の崩壊への予感がありそうです。

III

 洗礼者ヨハネの生涯について、詳しいことは分かりません。

 出自についてルカ福音書は、ヨハネは祭司家系であり、父ザカリアそして母エリサベツの間に両親が年老いてから生まれたと物語ります(ルカ1,5以下)。しかし、他の資料に関連した証言がなく、その史実性は確認できません。

 彼の活動については、福音書とユダヤ人歴史家ヨセフスの証言に基づいて、およそ後28年ころ南部ユダ地方の「荒野」に、らくだの毛衣と革帯を身につけ、バッタと野蜜を食べて暮らす隠遁者として登場したと思われます。禁欲的な生活スタイルは、彼が告知した審判預言に対応しています。つまり審判の正当性を認め、それを先取りして自らに科すことで、生活スタイルそのものを通してメッセージを伝達したのです。

 彼はヨルダン川で、「罪々の赦しに至る悔い改めの水沈め」(マコ1,4.6)という独特の象徴行為を創設しました。この活動は人々の注目を集め、それにちなんで「洗礼者」(原義は「沈め人」)と綽名されるようになりました。

 生涯の最後は、ヘロデ・アンティパスによる殺害です。マルコ福音書によれば、ヨハネがアンティパスの再婚を批判したために、個人的な恨みを買って捕縛幽閉され、アンティパスの誕生日パーティーの座興にティベリアの王宮で斬首されました(マルコ6,14以下)。他方でヨセフスによれば、ペレア地域と国境を接する隣国ナバテア王国との政治関係により、ペレア地方のヘロデ王家の離宮かつ要塞のあったマカイロスで殺害されました(ヨセフス『ユダヤ古代誌』18,116以下)。じつはアンティパスの最初の妻は、ナバテア王国の王女でした。つまり政略結婚です。アンティパスにとって、自らの結婚政策に向けられたヨハネの発言は内政上の批判のみならず、さらにはナバテア王国との外交関係における利敵行為と映ったでしょう。おそらく処刑地もマカイロスです。後年、アンティパスはアレタス四世との国境戦争に敗北しますが、これをユダヤ民衆はヨハネ殺害に対する「神罰」と噂したとヨセフスが伝えています。

IV

 さて、そのヨハネのメッセージの中心は以下のようです。

毒蛇の(卵から)孵った者らよ、来るべき怒りから逃れるよう、誰が君たちに示唆したか。ならば、悔い改めにふさわしい実を結べ。そして、私たちはアブラハムを父にもつと内心で言い始めるな。なぜなら君たちに私は言う、神はこれらの石々からアブラハムのために子らを起こすことができる。すでに斧も樹々の根元に置いてある。よい実を結ばない樹はすべて切り倒され、火に投げ入れられる。(ルカ3,7-9との比較による復元)

 ヨハネはまず、目前に迫った神の「怒り」を根拠に「悔い改め」を要求します。

 そのさい、民族の父祖アブラハムに依拠することが否定されます。アブラハム契約は創世記に記されており(創12章その他)、彼の子孫が繁栄すること、子孫に約束の地が与えられること、他の民族がアブラハムを通して祝福に入ることなどです。それゆえ、モーセ契約つまりシナイ律法に対する民族の度重なる違反ないし離反も、彼らが悔い改めるならば、アブラハム契約に基づいて、イスラエルの「選び」の約束は廃棄されないというのが、歴代一貫した共通認識でした。使徒パウロもその立場です(ロマ9,4-5他)。――洗礼者ヨハネはこの民族特権を、イスラエル宗教史上初めて否定しました。

 アブラハム契約が無効である以上、「悔い改めにふさわしい(/よい)実を結べ」とは、これからはモーセ律法に従って生きよという意味ではおそらくありません。そのための時間的な余裕もなさそうです。むしろ神の審判の正当性を認め、その証しとして「水沈め」を受けることが、「実を結ぶ」ことの内実であろうかと思います。

 その上で「斧も樹々の根元に置いてある。よい実を結ばない樹はすべて切り倒され、火に投げ入れられる」とあります。さきほど朗読したイザヤ書10章では、戦争行為の一環として、森林を丸裸にすることが言われています。攻撃対象となる民族の再建を不可能にするためです。これに対してヨハネの発言は戦争でなく、果樹園労働に由来します。主人が、果樹園のある特定の樹木について、これを切り倒して場所を空けるのがよいと判断した場合、その根元に斧を置き、後に続く労働者がその樹を切り倒すという手順です。したがってこの発言は、〈切り倒されないために今からでも何かしなさい〉という意味ではありません。審判はすでに確定しています。ヨハネの強調は「火」にあり、彼は民族全体に及ぶ神の怒りの審判を告知しました。

 こうしてアブラハム契約すら無効である以上、イスラエルの再建は、ひたすら神の創造的な力による以外にありません。だからこそ、「神はこれらの石々からアブラハムのために子らを起こすことができる」と言われます。

 ところで、「洗礼」という日本語表記には〈罪を水で洗い流す〉というニュアンスがあります。これに対して、ヨハネが行った「水沈め」は溺れること、つまり象徴的な「死」を意味します。そして、死んだ人間の罪は問われないという考え方に基づいて、目前に迫った「火」の審判を生き延びることを目指します。――これは後のキリスト教会に標準的な、いつでもどこでも執行可能な入信儀礼としての洗礼というのとは、少し異なる理解です。

 いずれにせよヨハネのメッセージは、〈私たちは一度死ななければ、生きることはできない〉というものでした。

V

 ナザレのイエスは洗礼者ヨハネのメッセージに同意し、洗礼を受けました。ヨハネは荒野の隠遁者、他方でイエスは村々を回る奇跡行為者であり、それぞれタイプは違います。それでもイエスは、師匠であるヨハネに似ていたようです。ヘロデ・アンティパスはイエスについて聞いたとき、「私が首を切ったあのヨハネが復活した」と言ったと伝えられています(マコ6,16)。

 洗礼者ヨハネが微かに暗示し、イエスによって継承されて大きく開花した要素に以下の三つがあります。先ず、ヨハネが告知した天からの審判者の到来は、イエスにあって、まさに来らんとする「神の王国」の宣教となって開花しました。次に、ヨハネが告知した「罪の赦し」、また救われる者たちの「集め」は――箕で麦粒と籾殻を選別し、麦を倉に集める一方で籾殻は焼却する(12節)――イエスにあって、病気治癒や悪霊祓いを伴う民衆への宣教となって開花しました。そして最後に、ヨハネが告知した「石々」からの新しいアブラハムの「子ら」の創出は、イエスにあって、モーセ律法に照らして「罪人」である者たちに「神の子ら」としての身分を宣言する活動として開花し、理念的には異邦人もそこに包摂されました。

 こうして見ると、イエスのメッセージに備わったカリスマの起源が洗礼者ヨハネにあることが、よく分かります。

VI

 では、私たち自身にとって、改めて「審判」とは何でしょうか?

 〈いま悔い改めないと君たちは滅びる〉という都心の交差点のスピーカーから垂れ流しされているようなメッセージを、社会に送りたいとは思いません。自分たちが滅亡のパニックに陥ることも避けたいです。ましてや間近に迫った世界の終わりを、聖書を用いて正当化する気持ちにはなれません。

 それでも洗礼者ヨハネの説教は、私たちにとって示唆するところがあると思います。

 まず彼の告知は、私たちを神に直面せしめることで、倫理的にも社会的にも「覚醒」を促します。それは個人、共同体、あるいは国家という多様な水準でありうるでしょう。

 次に、ヨハネが宣告した「死」の運命は、挫折と断絶についての自覚を促します。私たちが教会形成の基としている「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(通称「教団戦責告白」)には、いろいろな読み方があろうかと思います。その中で、日本のキリスト教会は先の戦争に全面協力することで一度決定的に破綻した、この罪責がもたらす「死」を自覚すること以外に前に進む道はない、という理解がありうると思います。

 そして最後に、新しく与えられる可能性から生きる存在としての「再生」があります。イエスにとって、そのひとつの具体化が被差別者たちとの「交わりの食卓」でした。

ヨハネは来て、食べも飲みもしなかった。すると人々は、彼が悪霊をもっていると言う。(他方で)人の子(イエス)は来て、食べて飲んだ。すると人々は言う、「見よ、大食いで大酒飲みの人間だ、徴税人たちや罪人たちの友だ」。(ルカ7,33-34)

 これは、洗礼者ヨハネとナザレのイエスに対する悪口の証言です。それでも、「徴税人や罪人たち」との共同での飲み食いこそが、かつての師である洗礼者ヨハネがかすかに暗示した「石々からアブラハムの子ら」を創出することでした。

 私たちはこの「石々」の末裔です。私たち自身は、石ころのように無価値です。しかし神は、そのような者たちから「新しい民」を作ると信じたいと思います。


 
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