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- 至高の愛(山上の垂訓講解説教・第8回)
⇒(MP3, 32kbps) /代読:中村吉基「至高の愛」(「山上の垂訓」講解説教・第8回)陶山義雄申命記20:16~18; 主の復活節第3主日を迎え、今日もイースターの喜びに与かりながら、共に礼拝を捧げたく思います。世界中が今、新型コロナウイルスの感染を恐れて、死の危険にさらされているこの時に、主の甦りが私達には、どんなに大きな力であり、希望であることでしょうか、復活節にこれほど強く覚えたことは無かったかも知れません。本日の御言葉から、私達も永遠の命にあずかりたく思います。 山上の垂訓・講解説教も第8回目を迎えました。イエスの教えを説教集に纏めて、ユダヤ教に勝るイエスの教え、旧律法を命題にし、それに勝る新律法であるイエスの教えを「反対命題」として展開して来た、「………と云われているが、しか
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- 本当の『岩』となる
⇒(MP3, 32kbps)「本当の『岩』となる」中村吉基イザヤ書62:1~5; 今日の個所で主イエスはペトロに3度「わたしを愛するか」と問いかけます。なぜ3度も主が問われたのかはよく判りませんが、一説に十字架の主イエスをペトロは3度否認したからだとも言われています。しかしこの3度の「愛するか」という主の言葉は厳密に意味が違っているのです。このやり取りには「アガパオー」と「フィレオー」という言葉が使われています。「アガパオー」というのは「アガペー」という言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、神さまの愛、すなわち、徹底的に相手を思いやる、愛する愛を指します。そして「フィレオー」友情とか兄弟愛などを指します。主イエスは15節の最初の問いで、「アガパオー」を用いて「あなたはわたしを愛するか」と問
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- イエスの指し示す道
⇒(MP3, 32kbps)「イエスの指し示す道」中村吉基箴言2:6~15; しばらく前に台湾を旅行した時にこんなことがありました。信号のない大きな交差点の下に、立派な地下道が通っていました。そこを歩いていたとき、突然停電になったのです。外国でのことでしたし、いったい何が起きたのかと驚き、私は慌てました。地下道でしたから視界がゼロになったのです。今まで経験したことのないような不安を覚えました。大勢の人の声は聞こえてきます。しかし、私には理解できない外国語で何を言っているのか、判らないのです。見えるのはただ、真っ暗闇でした。前がどこで、後ろがどこで、左も、右も判らない。二人の友人が一緒に歩いていましたが、彼らがどこに行ってしまったか判らない。今、ここで火事が起こるかもしれない。そういった不安の
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- 隠れた善行(山上の垂訓・第9回講解説教)
⇒(MP3, 32kbps)/代読:中村吉基「隠れた善行」(山上の垂訓・第9回講解説教)陶山義雄ダニエル書 4:16~24; 今回より山上の説教は新しいテーマに入ります。マタイ記者がユダヤ教に勝るキリスト教の教えとして、イエスの教えを編纂しようとしているのですが、前回までは、序論として全ての人々を招き入れる「幸福への招待」に続き、イエスに従う者の特質を「地の塩、世の光」として掲げた後、ユダヤ教で最も関心のある律法について「殺人、姦淫、離婚、誓約、報復、」についてイエス独自の言動を対比させ、これら全てを結ぶ頂点に「同族への隣人愛を越える、敵への愛」をもって、ユダヤ教の旧律法に勝る新律法をイエスの教えとして、マタイ記者は山上の説教として提示して参りました。そして、これからは暫く、ユダヤ教で大切に
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- 私たちと共に歩まれるイエス
⇒(MP3, 32kbps)「私たちと共に歩まれるイエス」中村吉基列王記下2: 1~11; イエス・キリストは神の力によって死からいのちへと甦られ、この地上に40日留まられました。そしてまた神の力によって天に上げられました。キリスト教会ではその出来事を記念して昇天日を祝います。この昇天日というのは本来イースターから40日目にあたる復活節第6木曜日(今年は5月21日でした)に祝いますが、キリスト教国でない国々では、今日、復活節第7主日に祝います。私たちの教会でもこうして主の昇天の記事に聴きながら礼拝をささげています。 今日私たちに届けられた御言葉はルカによる福音書の末尾の記事です。このあとルカはこの福音書の続編として「使徒言行録」を記します。使徒言行録といえば、その最初のところに聖霊降臨の出
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- あなたがたは行って……
⇒(MP3, 32kbps)「あなたがたは行って……」中村吉基創世記1:1~2:4前半; 教会ではよく「チチ ト コ ト セイレイ」という言葉を聞きます。初めて教会にいらっしゃった際に、いったいこの言葉は何のことだろうか、と思った人もいるかもしれません。今日私たちは三位一体の神を祝って礼拝をささげています。特段、三位一体ということを意識しなくても、私たちは毎週神様を礼拝しています。そして今日は、父と子と聖霊の三位一体の教義が制定された記念日でもありませんし、先週私たちは教会の三大祭りの一つであるペンテコステを祝ったばかりです。その翌週になぜ「父と子と聖霊」の神を記念するのでしょうか。そして今日、三位一体主日は「期節の変わり目」でもあるのです。 教会暦では今日を境に新しい期節に入るのです。私た
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- 聖霊の力にあふれ
⇒(MP3, 32kbps)「聖霊の力にあふれ」中村吉基エゼキエル書37: 1~14; 皆さん、ペンテコステおめでとうございます。 先日、仏教系の伝道新聞を読む機会がありました。たいへん素晴らしい編集がなされておりまして、現代人に慰めを語りかける内容でありました。しかし、いくつかのところで、私の知らないことばにぶつかりました。これはすべていわゆる「仏教用語」でありました。私は意味を推測しながら読み進めたのですが、果たしてその推測が当たっていたかどうかは分かりません。それぞれの宗教にはその歴史の中で培われてきたことばがあり、それだけではなく、それぞれの国や地方に固有の言語や方言があるものです。それを一律に共通化してしまっては面白みも相手を理解する心も失われてしまうでしょう。 けれども私はその時
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- 遣わしてください
⇒(MP3, 32kbps)「遣わしてください」中村吉基出エジプト記19:1~8前半; 福音書を読んでおりますと、主イエスのもとに群集が押し寄せて、押しつぶされそうになっていくという場面によくさしかかります。以前私は、日本でも有数の大教会(礼拝が400人ほどの出席者)の牧師をしておられた先生の家を訪ねたことがあります。もう既に隠退して、それでも1年の3分の2はどこかの教会での説教を引き受けられて、またその合間にたくさんの本を著したり、訳したりしてなお忙しい日々を過ごしておられます。しかし、この先生はご夫妻で口を揃えて私にこう言いました。「教会を辞めたら、すっかり気分が楽になった。牧会をしているときは教会員の一人ひとりのことが心配で気が気でならなかった」。私はその時まだ神学生でしたから牧師とい
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- 恐れるな
⇒(MP3, 32kbps)「恐れるな」中村吉基;マタイによる福音書10:26~33 今朝、こうして久しぶりに役員の皆さんと礼拝を捧げることができまして感謝しております。まだすべての方と共に礼拝をお捧げできるのは先のことになりますが、私たちは今、希望の中にあります。礼拝の招詞はエレミヤ書33章6節の御言葉でした。「見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。」この神の御言葉は真実です。信じるものは心の中で「アーメン」と応答してください。必ずや実現するでしょう。 今朝私たちには「恐れるな」という御言葉も届けられました。さて皆さんは、これまでに家族やお友達に聖書の話をしたり、教会にお誘いになったことがあるでしょうか? あるいは自分が教会に通っ
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- 心底からの祈りと願い(山上の垂訓・第10回講解説教)
⇒(MP3, 32kbps)「心底からの祈りと願い」(山上の垂訓・第10回講解説教)陶山義雄/代読:中村吉基サムエル記上8:10~22; 祈りは、人が生きて行く上で欠かすことの出来ない心の営みです。生きると云うことは未来を切り開く勤めであれば、どのように生きるべきか、何をしなければならないか、あらゆる瞬間は、進むべき道を選び取り、切り開く決断に満ちています。心の内にあって未だ無い未来を選び取るにあたり、私達は祈りと願いを内に秘めながら生きています。既存のレールが敷かれており、その上を走るのであれば、人はどんなにか安心できることでしょう。 また、一人で岐路を選ぶのではなく、その選択にあたって一緒に参加してくれるような援助者、協力者、更には導き手がいてくれたなら、どんなにか心強くあることが出来る
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- 来なさい。休ませてあげよう
⇒(MP3, 32kbps)「来なさい。休ませてあげよう」中村吉基ゼカリヤ書9:9,10; 先週、私たちの教会が属する東京教区の西南支区の按手(あんしゅ)礼と准允(じゅんいん)式が行われました。残念ながら今年は一堂に会することができず、インターネットを介してのライブ中継でした。私はこの礼拝堂にパソコンを持ち込んで、祈りを合わせました。4人の若い先生たちが准允=これは「説教することを許可される」という意味ですが=をお受けになり伝道師になり、私の友人でもある一人の伝道師が按手を受けて牧師になりましたが、私はこの場所から映像に手をかざして「エア按手」とでもいうのでしょうか。祝福を致しました。 必ずその式では新しい伝道師、牧師が各自、所信表明というか証しをされるわけですが、それは期待に満ちて、これか
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- そのままにしておきなさい
⇒(MP3, 32kbps)「そのままにしておきなさい」中村吉基創世記28:10~19前半; 今日の箇所は「毒麦のたとえ」と呼ばれるところです。冒頭の24節で「ある人」が「良い種」を蒔きました。しかし、26節でそれが生長していくと「毒麦」が現れたというのです。 私たちの人生にも「まさか、こんなことが!」ということが起こります。けれどもその間の25節は、冷静に事情を説明しています。毒麦の種が蒔かれたのは、「人々が眠っている間に」起こったというのです。これは種を蒔いた人には過失がないことを意味します。蒔いた張本人は「敵」であるというのです。この人(24節では「ある人」、27節では「主人」と記されています)に何らかの恨みがあった者の仕業でしょう。2000年前のパレスティナではこういうことが日常のこ
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- まなざしがすべてを変える
⇒(MP3, 32kbps)「まなざしがすべてを変える」中村吉基ハバクク書1:1~4; 電車の中で、ほとんどの者たちが知らないもの同士乗り合わせているところに、身体に障がいを負っている人や、少し奇抜なファッションをしている人、あるいはホームレスの方などが乗車してくると、突然その人たちの方へその車内のほとんどの人が視線を投げかけている光景に出合うことがあります。今でしたら、マスクをしないで電車に乗っている人、咳をしている人などにも同様のことがあろうかと思います。そして私たち自身もそのようなまなざしを送ってしまう一人になることがあります。 このコロナ禍以前でしたら東京には外国人観光客が押し寄せるように集まり、かつてに比べれば外国人の方々を目にする、交流するということが珍しいことではなくなりました
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- そこに宝はある
⇒(MP3, 32kbps)「そこに宝はある」中村吉基列王記上3:5,7~12; 今朝もこうしてご一緒に礼拝ができることを感謝しております。今、感染者の状況が危ぶまれる中で、このように私たちが教会堂に集っての礼拝が再びできなくなってしまうことも懸念されます。どうぞそのことを憶えて祈っていただきたいと思います。私たちは今、分散しています。この礼拝に出席できる方々、それがかなわない方々、そしてホームページを通して礼拝をご自宅から捧げておられる方々、またそれもかなわない方々、さまざまな方々がおられます。しかし、私たちは主イエスを絆として結ばれている者たちです。今、私たちは思うような交わりができません。しかし、主イエスを通して結ばれていることは確かです。 けれどもそんな私たちも、それぞれ違うことの一
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- ほんとうにたいせつなこと
⇒(MP3, 32kbps)「ほんとうにたいせつなこと」中村吉基イザヤ書9:1~6; 今から58年前の1962年、私たちの日本キリスト教団の総会において西中国教区より「平和聖日」の制定について提案されました。それを受けて、「毎年8月第1日曜日を平和聖日とする」ことを教団は決定し、翌年の8月より実施されました。ちなみに西中国教区には世界最初の被爆地であるヒロシマが含まれています。教団に連なる全国1700余りの諸教会は第2次大戦中の戦争協力への反省と近隣諸国へ与えた被害、また広島・長崎の被爆をおぼえ、今日の礼拝を捧げております。今日は平和について、祈り、志を新たにする日です。 さて今日の福音には、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」(1節)とあります。これはどのような状況
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- 安心しなさい
⇒(MP3, 32kbps)「安心しなさい」中村吉基列王記上19:9前半、11~13前半; 今年の6月、北朝鮮に娘の横田めぐみさんを拉致された横田滋さんが87歳で天に召されました。皆さんも報道でご存知のことと思います。しかし、その報道に接して、横田さんがクリスチャンであったということを初めて知った方もおられたと思います。つい数日前に発売された週刊誌にはこのようなことが記されておりました。お連れ合いの早紀江さんのインタビュー記事です。「私は、めぐみがいなくなった苦しみの中で、すべてを神様に委ねようと、ちょうどめぐみが20歳になった年、洗礼を受けました。けれどお父さんには信仰を強いることもありませんでした。お父さん自身、『神様がいたら、こんなひどいことは起こらないだろう』とひどく怒っていましたか
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- 聞き入れられる祈り
⇒(MP3, 32kbps)「聞き入れられる祈り」中村吉基イザヤ書56:1、6~7; 牧師としていろいろな方から、さまざまな時に「祈ってほしい」とリクエストを受けることがしばしばあります。牧師をしていて嬉しい瞬間でもありますが、、どの方もその祈りに関して真剣な思いを抱いています。自分だけではなく、他の人にも、そして教会の牧師にも祈ってほしいと言われるのですから余程の強い思いがその祈りに込められています。 今日の箇所の中に出てくるカナンの女性の祈りは「悪霊に苦しめられている娘を癒してほしい」というものでした。当時は、悪霊が病気を引き起こす原因だと考えられていました。この女性の娘の病気がどのような病気なのかは判りませんが、その願いは「必死である」ことは間違いありませんでした。 しかし、なぜでしょ
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- この山でもエルサレムでもない所で
⇒(MP3, 32kbps)「この山でもエルサレムでもない所で」廣石 望レビ記23:1~3、27~32;I 現在私たちは、コロナ禍の下で、感染対策を施しつつ簡略化された礼拝を守っています。 教会生活は、礼拝と信徒の交わりという二つの軸から、つまり神からの語りかけを聞くことと、互いに仕えることから成ります。祈りが、両者をつなぎ合わせます。説教の中継はオンラインでも可能ですが、相互奉仕に基づく信仰の成長は著しく制限されているのが現状です。 今日は、レビ記とヨハネ福音書のテクストに基づいて、真の礼拝とは何かについて、ごいっしょに考えましょう。II レビ記23章は7つの指定祭日――「安息日」「過越祭/除酵祭」「初物奉献」「収穫祭(週の祭り/五旬祭)」「角笛の祝日」「贖罪日」そして「仮庵祭」――につい
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- 平和の福音
⇒(MP3, 32kbps)「平和の福音」廣石 望イザヤ書32:15~20;I 新型コロナウイルスがもたらした混乱は、私たちの社会関係のあり方に大きな挑戦を突きつけます。助け合いや連帯は、たしかに存在しています。しかしどちらかというと、孤立と分断と差別の方が、より強く浮き彫りになったという印象があります。 日本では、寮生活で集団感染を引き起こした高校生たちに向かって、「日本から出て行け」と罵声が浴びせられます。「陰性」の検査結果をもらった上で、地方の実家に帰省した人の庭先に、「東京の人間が来るのは迷惑」という投げ文が放り込まれます。 アメリカでは人種差別の問題が顕在化しています。ウイルスは自然現象ですが、治療その他には社会格差が反映し、アフリカ系米国人の死者数は白人のそれを大きく上回るそうで
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- きょうだいを得る
⇒(MP3, 32kbps)「きょうだいを得る」中村吉基エゼキエル書33:7~10; マタイによる福音書18章には一貫したテーマが全体を流れています。それは「小さいものたちに対する兄弟たちの配慮」を強調しています。実際に最初から読んでみると今日の15節以前に「子供」(2,3,4,5節)という言葉が4回、「小さな者」(6,10,14節)が3回、そして只今共に聴きました15節に「兄弟」が2回、ほかに21節、35節にも出て来ます。18章の最初で 主イエスは「はっきり言っておく、心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と仰せになります(3,4節)。 そして「小さな者」(6~9節)とあるのは、主イエス

- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
