輝かしい勝利への確信

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

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「輝かしい勝利への確信」

陶山義雄
イザヤ書50,4-9;

 今日は教会暦では、本年最後の主日で、終末主日と呼ばれています。また、同時に収穫感謝の聖日です。日本の暦では昨日(11月23日)は勤労感謝の祝日でした。しかし、元を辿れば、これもキリスト教の行事、取り分けアメリカの収穫感謝祭が11月第四木曜日ですから、それに繋がっているように思います。来週からは待降節(アドヴェント)を迎え、私達は喜びに包まれたクリスマスの季節に入ります。その前に置かれた今日の礼拝で私達が覚えて置くべきこと、それは終わりの時に与かる栄光の有様です。栄光の勝利に私達が招かれているからこそ、降誕節でそれを齎して下さった御子イエス・キリストのご降誕を、喜びをもって迎えることができるのではありませんか。

 先ほどお読みしたロマ書8章31節以下には、救いを信じる者たちが、終わりに与かる勝利の栄光が高らかに語られています。実に力強い言葉が次々に語られています。実は、この8章31節から39節はパウロが1章から書き始めた「福音とは何か」について展開して来た、ロマ書第一部の締めくくりに当たる、ある意味で、著者が最も力を注いで私達にも訴えている「福音の真髄」を述べた結論部になっています。

 「信仰によって義とされる」、その信仰とはキリストの死と復活によって罪と死から贖われて、信ずる者も同じように、御子の姿に等しい栄光を身に纏うと云うことを、希望をもって信じて行くことです。御子の死と復活は御父から私達に与えられた愛、「神の愛」であることを思い起こし、この結びの所で、キリストの死に勝つ復活の勝利を読者に思い起こさせながら、この愛に結ばれている限り、どんな危機的状況や危害に遭っても、信徒は耐え得るし、「輝かしい勝利を収めている」(8,37)とパウロは述べています。私はポール・テイリッヒ(1886~1965)がこの箇所を基にして、素晴らしい礼拝と説教をニューヨークのユニオン神学校に留学をしていた時(1964年秋)に聴き、大変深い感動を覚えた体験があります。その礼拝説教は彼の著作集にも収められています。その冒頭でテイリッヒはこう述べています:

「(ロマ書8章38-39節にある)これらの言葉は今まで記された中で最も力強いものである。その響きは絶望の状況にある人々の魂を捉えて離さない。私自身が体験して来た中でも、これらの言葉は炸裂する砲弾の音や、墓場で流した涙の中や、病床での呻きや、臨終での嘆きなどを吹き飛ばすような力強さを現して来たのである。また、これらの言葉は、絶望の中で自らを攻め苛む力にも打克ち、我々の存在の根底に潜んでいる絶えざる不安のささやきにも打ち克たせる力をもっている。これ程までも、先の言葉が生み出す力とは、一体何なのか?」

 テイリッヒは1933年、ナチスに追われてアメリカへ逃亡してきた自分の歴史を振り返りながら現代社会の不安定な有様を、パウロの言葉を並べて、こう綴っています:

「近年、歴史や個人的運命で抗(あらが)うことの出来ない諸力に苦しめられていないものがあるだろうか。・・・我々の誰もがこれらの戦いに巻きこまれ、大なり小なり、こうした力によって追い詰められている。どんな安全と思われるものも危機に晒されている。人も、家も、仕事も、友人も、家族でも、国や地域社会でさえも、この世に安全地帯は存在しないのである。・・・運命の力に押しやられて、我々は人類が絶えず口にしてきた呻きを繰り返し口ずさんでいる。これはどうしたことか。どうすればこれに耐えることができるのか?」

 テイリッヒはここで、「運命」と云う言葉に注目します。人々が「仕方ない、これは運命だ」と云って諦めの代名詞として「運命」を呪って来ましたが、それに反してパウロの言葉は、苦しい現況にあっても、同時に、これに立ち向かう勇気と力を伝えている、とテイリッヒは指摘しています。聖書(パウロ)は復活信仰を土台として、どのような困難や限界も、それを乗り越える力を持っている。そればかりか、輝かしい勝利の宣言まで、この聖句でパウロは語っている。そのようにテイリッヒは説教で力強く私達に語り掛けてくれました。ユニオン神学校・ジェームス・チャペルにおける名説教者の一人でした。

 私達は、本日のテキスト・38節と39節がクライマックス、メッセージの頂点をなす言葉であることに同意しながらも、この頂点に至るパウロの周到な計画と展開にも注目したいと思います。「人はキリストを信じる信仰によって救われる」と云う教えの結びとして8章31節以下・今日のテキストが置かれています。冒頭の言葉「では、これらの事について」とは、信仰義認について述べて来た内容を締めくくる言葉になっています。

 パウロの周到な準備と展開が本日のテキスト31節から39節にかけて見受けられると申しましたが、ここには4つの段落が設けられています。テイリッヒが挙げた38節と39節はその第4区分、全体を締めくくる結びに当たる箇所であります。それぞれの区分の初めには、パウロ自身が読者に質問を投げかけ、それに自身が答えるような仕方で積み上げられています。第一の質問(8,31-32)は「もし神が私達の味方であるならば、誰が私達に敵対できますか」と云う問い掛けです。答えは「誰も敵対できない」と云うことです。その理由が32節の言葉です。「私達すべてのために、その御子さえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私達に賜らない筈は絶対にないからです。」神は御子に対してなさったように全てのものを私達に与えて下さるからです。第二の質問は、33節前半にあります。「誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょうか。」その答えも、「誰も訴える者はいない」と云うことです。その理由をパウロは33節後半でこう語っています。「人を義として下さるのは神」であるからです。神は裁判官であると同時に、救済者でもあるからです。そして第四の仮想質問は33節前半で「誰が私達を罪に定めることが出来るでしょうか」。その答えも前の答えと同じように「誰もいない」と云うことです。何故ならば、33節後半で「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私達のために執り成して下さる」からです。そして、いよいよ最後の質問は35節で「誰が、キリストの愛から私達を引き離すことができるでしょうか。」その答えも、やはり「誰もいない」と語るわけですが、その結びの所ではテイリッヒの挙げた、信ずる者に与えられる力強い「勝利宣言」へと繋がって行く訳です。

 その前に、人間が発する呻きや苦界の状況を羅列し、その苦難を詩編第44編の歌人が「死の陰の谷に落とされ、嘆き呻く言葉の果てに歌った23節をパウロは引用しながら「勝利宣言」へと繋いで行くのです:「艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中、死にさらされ、屠られる羊のように見られている。』」 詩編の「屠られる羊」として信徒を見るのではなく、主なる神が「良い羊飼い」としてキリストを私達に遣わして下さった恵みを、パウロは直接、この所で書いている訳ではありませんが、私の心の中では、暗に「良い羊飼いであるイエス・キリスト」を想起させながら、ここで「勝利の宣言」へと移行しているように思います。

 「十字架と復活の恵みを、キリストを通して与えて下さった神は、その愛をもって私たちが遭遇するどんな苦しみ、悩みや、限界をも必ずや乗り越える力を私達に与えてくださる」と云う信仰を終末主日のこの礼拝で、私達も思い起こしたいと思います。これこそが、死をも乗り越える力になるからです。この信仰を除いて他に「死に勝つ勝利」はあるでしょうか。

 本日のテキストの少し前の所で、ロマ書8章28節から30節を基にして、数年前のことですが、この講壇から私は「摂理信仰」に触れた話をしたことがあります。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように、共に働くと云うことを、私達は知っています。」(38節)明治訳では「詮方・尽くれども望みを失わず」とあり、この言葉が私の病床にあって生きる力を与えてくれた次第も触れさせて頂きました。加えて、長崎の聖人と呼ばれた永井隆博士の原爆犠牲者追悼の式辞から「摂理信仰」の例を紹介させて頂きました。私の舌足らずであった所もあり、永井博士の意図、また、摂理信仰の真意を受け止めて頂けなかったか方がおられて、その方から後でご意見を伺いました。弔辞はこう言う言葉で結ばれています:

「主与え給い、主取り給う。主の御名は讃美せられよかし。浦上が選ばれて燔祭に供えられたることを感謝致します。この尊い犠牲によりて世界に平和が再来し、日本の信教の自由が許可されたことに感謝致します。願わくば、死せる人々の霊魂、天主の御憐みによりて安らかに憩わんことを アーメン。」

 私が10代の終わりに病を得て2年間闘病生活をしたことを、神から頂いた恵みとして感謝し、受容できたのは「全ての事が益となるように働く」と云う摂理信仰によると受け止めることと、長崎に原子爆弾が投下されて10万人以上の人々が犠牲になったこととは質が違う出来事です。一方は個人的体験であるのに対して、長崎の原爆は人類が犯した過ちであり、赦すことの出来ない、絶対に繰り返してはならない罪悪です。にもかかわらず、これを人類が犯した罪の贖いとしての犠牲として聖化するわけには行きません。たとい、永井博士ご自身が個人的に原爆による犠牲者を悼む心から、無益な死にしてはならない思いから、意味づけを行ったとしても、同意できるものではない。まして、これを神から頂いた摂理として意味づけようとすることは見当違いである、とのご意見であったと思います。

 こうした種類の意味づけは第二次世界大戦で戦死した方々、犠牲に合った方々にも当てはめられることが良くあります。こうした方々の犠牲があって、現在、私達は平和を頂いている。あたかも戦争には意味があったかのような取り違えが、良く語られています。パウロが語っていることに、もし、摂理信仰と云う言葉を使うとすれば、それは、「病気よ、有難う」、「戦争よ、有難う」、「原爆よ、有難う」、と云うように、云わば、負の出来事を受容したり、正当化したりすることではありません。今日のテキストの結びにあるように、「人生で起こるどのような出来事も、私達のキリスト・イエスによって示された『神の愛』から、私達を引き離すことは出来ない」とする信仰でとあります。この信仰が「万事を益となるように」負のできごとを意味ある方向へ個人が力を振り絞って働かせるのです。

 ヘンデルの「メサイア」は「屠られた子羊」への讃美とアーメン・コーラスで全曲を閉じているのですが、その直前に置かれた第52曲・ソプラノによる詠唱(アリア)は本日のテキストを美しく歌い上げています。メサイアではハレルヤ・コーラスが何と言っても有名なのですが、終曲まえの所で穏やかに歌われる、救世主が「神の右に座して、私達のために執成しておられる」有様とそれに続く讃美とアーメン・コーラスの方が、この作品の頂点にあるように思います。今日は終末主日の礼拝です。収穫感謝の礼拝です。1年を締めくくるにあたり、それぞれが神から頂いた恵みに感謝を捧げたく思います。また、同時に今ここで終わりを迎えたとしても、私達は終わりへの備えが出来ている事にも感謝を捧げたく思います。先ほどご一緒にうたった讃美歌230番はフィリップ・ニコライがウンナの教会牧師をしていた時、ペストで多くの教会員を天国の送らなければならなかった際に、ニコライが召天者と遺族、見送る会衆を慰めるために作ったもので、終末とクリスマスを合わせるに相応しい讃美歌です。その第3節を、もう一度思い起こしながら、この説教の結びとさせて頂きます。

「グロリア」と讃えよ、御使いらと共に、竪琴かなでて。
主の御座巡りて 集う聖徒たちと 歌声合わせて。
未だ知らぬ この喜び、ハレルヤ。
われらも歌もて 褒めたたえよ、アーメン

祈祷
主イエス・キリストの父なる神様
敬愛する兄弟・姉妹と共に、こうしてあなたの御前に集い、一年をしめくくるに相応しい御言葉を頂き、ここに感謝と喜びをあなたに捧げることが出来ます幸いを心から感謝いたします。来週より待降節に入ります。あなたが御一人子をお送り下さった愛を、新たにお迎えし、新しい年の備えを今週、それぞれの持ち場でなすことが出来ますよう、主の御名によって祈ります。


 
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