非暴力・和解と平和への途(山上の垂訓・第7回講解説教)

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「非暴力・和解と平和への途」(山上の垂訓・第7回講解説教)

陶山義雄
レビ記24,14-22;

 山上の説教をテキストにして講解説教を重ねて来ましたが本日はその第7回目となりました。ここで、少し今までを振り返っておきますと、第1回目は昔の訳ですと有名な「幸いなるかな」と云う呼びかけで、全ての人を福音へ招き入れる7つの「幸い」を通して、究極的幸福についてテキストから学びました。第2回目は福音に与かって生きる人々は「地の塩、世の光」となることが説かれておりました。そして第3回以降、今日の第7回までは(正確に申せば次回の第8回までは)、イエスの教えが旧い掟とどこが違っているか、旧律法に対する反対命題を表す仕方で、裁きについて、姦淫と離婚について、誓約について等、マタイ福音書記者が纏めている所を学んで参りました。そして今日は「報復・復讐」を巡ってイエスの教えを旧律法と対比させている、大変有名な箇所であります。

 第1回目で申し上げた事ですが、ルカ福音書にはマタイ福音書に良く似た箇所があり、ルカの方を「平地の説教」と呼んでいます。ルカの6章20節から49節まで、合計しても29節しかありませんので、マタイの「山上の説教」の方は3章に渡って繰り広げられているので、マタイの方がどれだけ長く、また、説教集として纏まっているかが分かります。そのように申し上げるよりは、ルカの「平地の説教」の方が、元々あった資料集、これを一般にはQ資料と呼んでいるのですが、その元の資料に近い形でルカは残しており、マタイ記者はその元資料から広げる仕方で一大説教集を編集しているために、量的にも違いが表れています。ルカの「平地の説教」を見ますと「幸福への招き」に続いて、「敵への愛」を語るイエスの説教が置かれています。これは、マタイの「山上の説教」では次回で取り上げる内容です。しかし、厳密に云うと、「敵への愛」が語られている元の資料をマタイは二つに分け、「報復」を戒めているイエスのメッセージを、元の資料から分けた上に、これを旧律法に記されている有名な「目には目、歯には歯を」と云う規定と結び付けて、本日のテキストにしていることが分かります。これから検討するように、その対比はイエスの教えをより深く理解するために、大変有効な方法であり、このようにしてマタイ記者は今までも、またこれからも、イエスの教えを独自の視点をもって繰り広げていくのです。

 念のために、ルカ福音書6章27節から、その区切りの初めの方を読んでみたいと思います。(新約113頁)

「しかし、わたしの言葉を聴いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を云う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、誰にでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。(31節)人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい。」

 今お読みしたのはルカ福音書で僅か4節に渡る所ですが、マタイ記者は、ここから3つのメッセージを取り出し、それぞれ項目を分けて「山上の説教」に仕上げています。その一つが、これから注目する「非暴力、報復を戒める教え」です。次は「敵への愛」、そしてルカ6章31節の言葉は、「山上の説教」を締めくくる「黄金律」として7章12節へ持って行き、このように3つに分けてマタイ記者は使っているのです。

 前置きが少し長くなりました。早速、本日のテキストに注目して参りましょう。冒頭からマタイ記者の作業が際立っています。イエスの言葉は、「非暴力の勧め」であったと思われます。これを「山上の説教」では旧律法に勝る新律法とするために、マタイ記者は有名な「同害報復」の掟を導入しています。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。」この言葉は旧約聖書では出エジプト記21章24節に出ています。同様の言葉がレビ記19章18節にもあります。出エジプト記の方を、その前後から少し引用すると:

「人々が喧嘩をして、妊娠している女を打ち、流産させた場合は、もしその他の損傷がなくても、その女の主人が要求する賠償を支払わねばならない。仲裁者の裁定に従って、それを支払わねばならない。もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」(同21:22~25)

 この法文はハンムラビ法典の196条と200条にも記されています。そう申し上げるよりも、聖書の方がハンムラビ法典から取り入れている、聖書以前にオリエントで行われていた慣わしがイスラエルの人々にも当てはめられて使われていた、と云うべき事でありましょう。何しろハンムラビ法典は紀元前18世紀に、バビロン第1王朝、第6代の王ハンムラビ(前1792~1750)が在世中に交付した法典であるからです。その法文は楔形文字で、等身大の石碑に刻まれており、石碑の上半分にはハンムラビ王が神から法典を授かる絵が刻まれており、その下に、260条から成る法文が刻まれています。1902年に、現在は、ペルシャの国、スサで発見されました。

 私はこれをルーヴル博物館で見ましたが、そのレプリカを現在、三鷹にある中近東文化センター内にある展示室でも見ることが出来ます。「目には目を、歯には歯を」と云う同害報復(jus talionis)は現代人から見ると理解できない掟に見えますが、古代社会では、被害者を擁護する掟として重んぜられておりました。犯罪は報復を招き、得てしてエスカレートするものです。復讐が過剰な復讐になったり、私的リンチになったりすることを防止するのが同害報復、つまり「目には目を、歯には歯を」もって償う、という掟の基本精神でした。加害者も被害者も公平に同じ痛みを受けることを定めたのがハンムラビ王とその法典が定めている所でした。旧約聖書の民もその基本精神を受け継いでいたことが分かります。

 「山上の説教」で、今までは、旧律法を、より厳しく規定する方向で新律法を提示していたのですが、ここでは、完全に旧律法を否定し、それを放棄する仕方で、マタイ記者はここに新律法を提示しようとしています。同害報復ではなく、それに代わって「非暴力・無抵抗」をイエスによる掟の進化として、ここに提示しているのです。39節をご覧ください。ここでイエス(マタイ記者)はどんな被害を受けて、たとい、それが故意であれ、不意、つまり、故意でなくても、一切の復讐を放棄することを教えて、「悪人に手向かうな、πονηρ・・は悪事とも訳せるので、悪事に逆らうな」と命じています。しかしそれは相手の悪に対して屈服するのではなく、非暴力と云う仕方で抵抗し、そのことによって悪を止める、と云う高い次元の抑止であり、自分を犠牲にしてでも正義を証する、実に高い理想を掲げた新律法である、と申せます。イエスの十字架が正にその模範となっています。

 このあと、マタイ記者は非暴力について、その例を3つ挙げています。その第一弾は同じ39節後半に掲げられています:「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬(もう一つの頬)をも向けなさい。」非暴力の実践例、その第二弾は40節で「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」とあります。これは訴訟を起こされて下着を与えなければならない事態になった場合には、上着まで与えてしまえ、と云う対応の仕方を語っています。同じ言葉をルカ福音書6章29~30節では少し違った言い方で残されています。これは、先ほどお読みした所と重なるのですが、マタイの記事と比較するために、もう一度読み返してみたいと思います:「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には下着をも拒んではならない。(求める者には誰にでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。31節:人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(黄金律)。Q資料で、ルカ福音書に残されている方が、元の資料により近い内容であると思われます。マタイの方は律法論争に仕上げているからです。「右の頬に対して左をも向けなさい」、とか、「下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい」と云うように、打たれ方と、衣服の取られ方に律法問題を絡めているからです。

 第三弾は旧律法を超え出る新律法の例としては主旨が違っているので、一先ず置いておき、第一弾と第二弾について注目したいと思います。「右の頬に対して左をも向けること」と、「下着を奪おうとする者に、上着をも与えること」は、いずれも旧律法を超え出る、過度の行いを指しています。ユダヤの掟によれば、相手を殴る場合、第一手は感情に走って相手を殴ってしまったとしても、第二手目は(理性をもって)止めなければならない。しかも、第一手は左手で相手の右の頬を打つなら許される、と云うものです。ところが、マタイ記者は、その留まるべき第二手を、返し手で打つことを許しています。つまり、第一手で相手の右の頬を打ったあと、その帰り手で相手の左の頬を打つとなれば、これは手の甲、つまり、バック・ハンドで打つことになり、これは相手を侮辱するので禁止されている打ち方になります。そのようなユダヤの掟を無視して、右のあとには左の頬をむけ、バック・ハンドで打たれる事をも甘んじて受けよ、と云うのです(W.D.デーヴィス教授の講義録、ミシュナーの当該規定より)。

 「下着を取ろうとする者には上着をも与えよ。」これも旧律法を超え出る過度の勧めであることが旧約聖書と比べると良く分かります:

「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに(そのお客に)返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることが出来るだろうか。もし、彼が私に向かって叫ぶなら私は聞く。私は憐み深いからである。」(出エジプト記22章25~27節)

 上着と云っても、それはマントのようなもので、貧しい人にとって、下着を質草に取られて無くなっても、マントだけは命にかかわる物だから、その日のうちに返せ、これは旧約時代に主が命じた温情である、と云うのです。申命記では、祝福と報いを受ける、とまで質屋の主人に教えています:

「もし、その人が貧しい場合には、その担保を取ったまま床に就いてはならない。日没には必ず担保を返しなさい。そうすれば、その人は自分の上着を掛けて寝ることができ、あなたを祝福するであろう。あなたはあなたの神、主の御前に報いを受けるであろう。」(申命記24:12~13)

 頬を打つ話も、また、衣服にまつわる下着と上着の話も、これを、旧律法を超え出たイエスの新しい掟の例として利用したのはマタイ記者でした。では、元の話はどうなっていたのでしょうか。Q資料からルカ福音書の方は、元の形、イエスが話であろう姿を留めた話として残しています。

「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。」(ルカ6:29)

 ルカ福音書は、この言葉を「敵への愛」を実践する具体例として語っています。この言葉の直前で、こう語られています:

「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。・・・」(6:28)

 その後に、この「頬を打たれる例と、衣服を取られる例」が語られた、再度、「敵への愛」で結ばれています。ちょうどサンドイッチの両端がパンであれば、それが「敵への愛」の勧めであり、サンドイッチの中身が「頬打ちと衣服」の話になっています。中身のもう一つがマタイ福音書で使われる「黄金律」ですが、これは中身である、とも取れるし、挟み込む、もう一切れである外側のパンとも受け止めることが出来ると思います。こう言う締めくくりの文章です:

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛した所で、あなたがたは、どんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。・・・しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善い事をし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば沢山の報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい。」(同6:31~36)

 このように、元来、「敵への愛」でまとめられていた、中身の「頬打ちと衣服」をマタイ記者は分離させ、「非暴力」の教えに作り替えていることが分かります。私達は、このように、マタイ福音書とルカ福音書があることに感謝したいと思います。「敵への愛」は確かに重要なイエスのメッセージです。マタイ記者はこのあと、項目を分けて「旧律法に勝る新律法」の事例でその結びに、この後、据えようとしています。「非暴力」の項目を分けて、本日のテキストのように仕上げてくれなかったら、「非暴力」を柱とするキリスト教徒による、世界史を変えるような運動が歴史上、起こり得たでしょうか。それほど、マタイ記者の貢献は大きいと私は思います。只、律法論争に組み入れたり、あるいは、この後、第三弾でローマ帝国が民衆に強制していた労役の規定までも「非暴力」の例に挙げてしまうのは、マタイ記者の弱点であり、減点したいような内容です。つまり第三弾は無視するか、削除したいと思います。でも、聖書にありますので、若干、補足の説明をしておきます。

 無抵抗を示すマタイ記者による第三弾は、ローマ軍が定めている民衆への徴用・労役の義務について、街道を行く軍隊や物資の補給に際して、道端に付けられた1ミリオンばかりでなく、それに倍する労役を勧めることによって、規定を超え出た奉仕の例を挙げています。

 「非暴力による抵抗」がローマ帝国を揺るがせるような運動にまで発展し、帝政内の属州で広まったキリスト教をもはや弾圧出来なくなり、紀元4世紀になると、今度は帝政支配の支えとしてキリスト教を承認し、更にはローマ帝国の国教にまで取り入れるに至ることを、マタイ記者は、およそ300年前には知らなかった筈です。その功績に免じてこの記事の掲載は赦されても良いかもしれません。

 イエスの「非暴力」について、ここに掲げられた教えが、現代史において、アメリカの公民権運動と、南アフリカ連邦のアパルトヘイト撤廃運動で大きな役割を果たした事実を、終わりに触れておきたいと思います。公民権運動の指導者であったマルテイン・ルーサー・キングはこのように語っています:

「人は生涯において何かを信じなければならない。すなわち、この世を去る時まで、それを守り続けるほどの熱意をもって、何かを信じることである。神は、私に人を憎むように望んでおられるとはとても思えない。私は、暴力には飽きた。しかし、どのような手段を使ったら良いかについて、抑圧者から指図を受けようとは思わない。私達には力が備わっている。それは、火炎瓶などには見られないような力である。また、弾丸や銃の持つ力とも違う。だが、とにかく、私達には力が備わっている。その力は、ナザレのイエスの洞察力と同じくらい古く、マハトマ・ガンデイーの手腕と同じくらい現代に通じる力である。・・・非暴力的アプローチが、直ちに相手の心を変えると云うわけではない。非暴力は、まずそれに関わる人の心や魂に対して、何らかの働きかけをして新しい自尊心を与える。つまり、彼らが自分にはそのようなものがあるとは気付かなかった勇気の源を呼び覚ますのである。そしてそれは、ついには相手の心に到達し、良心を動かして和解が実現することになるのである。」

 キング牧師の、こうした指導のもとで1963年8月28日には首都ワシントンのリンカーン記念堂前で大集会が開かれました。私もアメリカン・ユニヴァ―シテイで開かれていた会合の合間を縫って参加させて頂きましたが、およそ20万人が参加したこの会には、本日の週報コラムに掲載・紹介したような規律と約束があったからでした。以下にコラムを一部読ませて頂きます:

 イエスに始まる神の国・建設は、私達に委ねられていることを覚えて、今週もそれぞれの持ち場にあって、御業に励みましょう。

祈祷:
父なる神様
あなたがこの世にお遣わし下さった御一人子の働きと御言葉が、歴史の中で、生きて働いていることを信じます。どうか、御心が天において成就しているように、一日も早く地上で実現し、愛と平和に溢れた世界に代わりますよう、私達の良心と働きを呼び覚まして下さい。主の御名によって祈ります。


 
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