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- 御国が来ますように
⇒(MP3, 32kbps)「御国が来ますように」陶山義雄申命記6,4-9; 日本の暦では、明日、2月11日は「建国記念の日」と定められています。しかし、私達が所属する日本基督教団では、この日を「信教の自由を守る日」と言い換え、それに相応し行事と集会を持って参りました。本日もそのことを念頭に置きながら、ご一緒に礼拝を守りたいと思います。 1943年2月11日は私にとって忘れられない日となりました。上原国民学校1年生も終わろうとする頃、紀元節の式典(特別な朝礼)がありました。その中で御真影を拝する儀式があり、奉安殿の扉を新屋校長が開いた時には全員が首を垂れて、御真影を見てはいけなかったのです。しかし、私がその指導に十分には服さなかったと云う判断が下されて、そのことが咎められ、教頭先生から叱責を
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- わたしの隣人とはだれですか
⇒「わたしの隣人とはだれですか」田中健三レビ記19,17-18; 「善いサマリア人の譬え」で知られる本日の箇所は、様々な解釈の可能性がある内容豊かな物語です。少なくとも言えることは、律法の中心命題「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神であう主を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」を当然熟知している宗教的指導者への批判が含まれているということです。そういう意味で、読者は最初にここを読むとスカッとするかもしれません。本日は私自身の今までの愚かな歩みによってこの箇所を理解していきたいと思います。1 私はクリスチャンホームではなく、大学時代に人生の模索をしている際に、たまたま自宅にあった本を読んでからキリスト教に近づくようになりました。矢内原忠雄の『キリスト教入
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- 私たちは変えられる
⇒(MP3, 32kbps)「私たちは変えられる」廣石 望ダニエル書12,1-3;I 人は「変わりたい」という夢をもちます。子ども向けの漫画やアニメ、あるいは特撮物のテレビ番組や映画には、たくさんの「変身」ものがあります。大人にとっても同じことです。高い身分の主人公が仮の姿をまとい、決定的瞬間にそれを明かして難事件を解決するというパターンの、いくつかの時代劇シリーズがありますね。 それだけではありません。行政も企業も学校も、そして場合によっては教会も、「変わらなければならない」と言われます。国家や自治体が行う行政改革、業績のV字回復を目指す企業戦略、受験生に選んでもらえる学校になるための入試や学部改編、そして教勢を伸ばすための伝道戦略などです。そのような場合にはたいてい、「私たちは変わりたい
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- 臨死体験から救いの命へ
⇒「臨死体験から救いの命へ」陶山義雄申命記34,5-12; 2か月ほど前までは、幼子イエス・キリストのご降誕を覚え、私達は喜びに溢れた心を分かち合うことが出来ました。顕現後第3主日が過ぎて2月に入ると、直ぐに今度は受難節を迎える準備にはいり、受難節前第3、第2と続いて、今日はその第1主日となりました。ご降誕に続き、キリストのご生涯を思い起こすのが順序である筈ですが、ご降誕から直ぐに主の受難に目を注ぐような教会の暦は、いささか、順序を外れているようにも感じます。しかし、出来事の経緯ではなく、生涯で最も大きく、大切で、また、私達人間にとって最も意味のある働きをなさった十字架の出来事があり、ご降誕は終わりから遡って意味が付けられたことを思うと、教会暦は実に良く出来ていることが分かります。実はご降誕
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- 明らかになるため
⇒(MP3, 32kbps)「明らかになるため」廣石 望民数記21,4-9;Ⅰ 2004年、栃木県で3歳と4歳の幼い兄弟が父親の友人から恒常的に暴行を受け、橋の上から川に投げ落とされて死亡するという、痛ましい事件がありました。これを受けて、子どもの虐待のない社会を目指して「オレンジリボン運動」がスタートしています。そのホームページによると、子どもの虐待には身体的虐待、性的虐待、心理的虐待、そしてネグレクトが含まれ、虐待された子どもは概して自己評価が低く、いわゆる育てなおしが必要だそうです。 平山秀幸監督の映画『愛を乞うひと』を思い出しました(1998年、東宝・角川書店。原作は下田治美氏による1992年の同名小説)。主人公は、娘を一人で育てている女性で、年頃の娘と口論になって思わずパチンと叩い
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- 問い続ける風―このような小さき者たちとは―
⇒(MP3, 32kbps)「問い続ける風―このような小さき者たちとは―」 齊藤 和夫イザヤ書 38,19;はじめに 証(あかし)ということですが、奨励(説教の代わりに信徒が担当するお話しですね)の機会を与えていただき、教会員、役員、そして何よりも神様に感謝します。 会堂に集う方々でわたしが聖書に基づいた落語を演じることをご存知の方も多いでしょう。また、何人かの友人は私の特技、モノマネ、を知っていると思います。今日の証で私が真似たいのは、私が心から尊敬し、敬愛してやまない、村上伸牧師です。声色を真似てお話ししようというわけではありません。マナブはマネブに通じるという趣旨です、ご理解ください。 村上牧師が私たちにお伝えくださったたくさんのことから、一つのメッセージを取り上げ、それをみなさんと共
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- 待望の王
⇒(MP3, 32kbps)「待望の王」田中 健三;ローマの信徒への手紙15, 8-12 イザヤ書は、前8世紀のイザヤ自身に遡る部分と、その後100年から200年後のバビロン捕囚時代以降の編集部分とがあり、編集史的に必ずしも明確に分かっていない箇所が多く含まれています。本日の「エッサイの根から」で始まる11章も研究者の意見は分かれておりますが、おそらくバビロン捕囚時代に最終的にはできたものだと思われます。但しイザヤ時代にしても前6世紀にしても、強国の圧迫の中で戦いに敗北した状況で、正義と平和の未来を切望している箇所であることは間違いありません。そして神のような王による理想的な支配という古代オリエントの影響を受けた可能性のある思想によって、公平な裁きがなされ、不毛な争いがない時がきっと来ること
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- 葬りの日のために
⇒(MP3, 32kbps)「葬りの日のために」廣石 望ヨブ記3,1-1;I この世界にあって有意味なこととは何でしょうか? どのような規準に基づいて、私たちは何かを、別のことよりも優先させるでしょうか? 分かりやすいものとして「好きだから」という規準があります。趣味を選ぶときなどがそうです。あるいは「よりよい結果が期待できるから」という規準もあります。受験勉強のプランや企業の事業戦略を立てるときは、そのように考えるでしょう。あるいは、もう少し倫理的になると、「私の価値観と一致するから」という規準もあります。価値観と行動が一致するのがよいという考え方です。 本日のテクストである、ベタニアでのイエスへの油注ぎのエピソードにも、そうした優先規準が話題にされています。私の問いは、〈マリアはいったい
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- 私達に救いを(ホサナ)
⇒(MP3, 32kbps)「私達に救いを(ホサナ)」陶山義雄詩編118,19-29; 今年も受難週を迎えました。イエス・キリストが十字架につけられた受難の出来事を思う、キリスト教会にとって大切な時節です。その幕開けは、イエスの一行がガリラヤから長い巡礼の旅を終えて、いよいよエルサレムに入城する情景から始まります。ともすると、受難週は暗い十字架の出来事、つまり金曜日の受苦日に目が向けられるのですが、決してそればかりではありません。棕櫚の葉を束ねて歓呼の声で迎えられる勝利の入場が、本日、棕櫚の主日で私達が見つめるべきイースター前・幕開けの出来事です。続いて最後の晩餐、主が弟子の足を洗う洗足の木曜日があります。逮捕、裁判、金曜日の十字架など、イエスの死だけを見ると悲惨のほか何もないように見えます
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- 身代金として
⇒(MP3, 32kbps)「身代金として」廣石 望ミカ書6,1-8;I 本日の聖書箇所で、イエスはゼベダイの息子たちと対話した後、他の10人の弟子たちを呼び寄せて「君たちは仕える者、万人の奴隷になるだろう」と教えます。そして、その理由として、「人の子は仕えられるためでなく、仕えるために、その魂を多くの人のための身代金として与えるために来たのだから」と言います。今日は、この「身代金として」という表現について考えてみたいと思います。 手がかりとして、次のような洗礼志願者の信仰告白があるとしましょう。「キリストが罪人である私に代わり、十字架で犠牲となって死なれたことを信じます。この尊い贖罪の死を通して私は救われると信じます」。このような信仰告白に、「多くの者のための身代金」としてという聖書の言葉
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- 先にガリラヤに行かれる
⇒(MP3, 32kbps)「先にガリラヤに行かれる」廣石 望出エジプト記15,22-27;I 皆さん、イースターおめでとうございます。 イースターの朝、キリストは弟子たちに自らを示された、と私たちは聞きます。じっさい、そのようなイエスの顕現について物語る記事が、福音書にはいろいろあります。しかし本日のテクストは少し違います。マルコによる福音書は、女性たちがイエスの墓を訪問したことについて物語りますが、イエスの復活顕現については予告ないしその伝言が言及されるだけで、顕現そのものについては物語られず、さらにその伝言を託された女性たちは沈黙して、誰にも何も伝えなかったとあります。 ちなみにマルコ福音書16章9節以下の顕現物語は、古い重要な写本群には含まれず、より後代の写本にのみ現れ、内容的にもそ
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- 復活と信仰
⇒(MP3, 32kbps)「復活と信仰」廣石 望イザヤ書61,1-11;I イエスの復活と私たちの信仰は、どのような関係にあるのでしょうか? 復活信仰は、復活のキリストとの出会いから生まれました。死んでいるイエスが生ける者として私に現れるというできごとから、「神はイエスを死者の中から起こした」「イエスは起こされている」という理解が生じたのです。そして、その後の人々の歩みの中で、復活信仰は検証され、証言されてゆきました。 イエスの顕現はしばらく続いたようですが、やがて途切れました。もはやイエスの顕現に接する者は、私たちを含めていません。それでも復活信仰は続きます。「見ないで信じる者は幸いなり」(ヨハネ20,29)と言われるとおりです。しかし、それはどのようにして可能なのでしょうか?II 本日
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- イスラエルの神
⇒(MP3, 32kbps)「イスラエルの神」田中健三イザヤ書12,1-6; 神を形容するのにわたしたちは「イスラエルの神」とすることは少ないかもしれませんが、今でもそう言うことがあります。例えばモラビア兄弟団の聖書日課2019年4月25日にはその祈りの中で「ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ、主なるイスラエルの神を賛美せよ」とあります。本日はこの「イスラエルの神」という呼称に潜む現代的意味について探ってみたいと思います。1 新約聖書には「イスラエルの神」という呼び方が2回だけ出てきます。一つはルカ1,68の洗礼者ヨハネの父ザカリアの賛歌であり、我が子の誕生を通してイスラエルを顧みてくださる神をモラビア兄弟団のように賛美しています。もう一つがマタイ15,31で、様々な病人を癒すイエスを目の当たりに
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- まことのぶどうの木
⇒(MP3, 32kbps)「まことのぶどうの木」廣石 望申命記11,1-12; ただいま入力・校正作業中です。
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- イエスの優しさと励ましの物語
⇒(MP3, 32kbps)「イエスの優しさと励ましの物語」陶山義雄サムエル記下12,1-9; イエス・キリストは生前、数多くの譬話を語っておられます。「良いサマリア人」や、「放蕩息子」のようにまとまった物語から、「葡萄酒と皮袋」のような短い話までも含めると、およそ、60近くのお話が福音書に載せられています。なぜ、これほど沢山の話をされたのでしょうか。 私は、イエスが多くの人に囲まれ、話し手として幅広い聴衆に向かって理解と関心を引き寄せるため、必要を感じておられたことがその一因であると考えています。そのことは、デンマークの童話作家、ハンス・クリスチィアン・アンデルセンも触れている所ですが、彼はイエスが話し上手であった事を上げています。それは確かに当たっていると思います。しかし、そればかりでは
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- 私の主
⇒(MP3, 32kbps)「私の主」松原 新吾ヨシュア記1,5-7;(1) 父は生きていれば108歳 明治44年生まれです。母は大正6年生まれです。昭和15年に二人は結婚し私は昭和19年に生まれました。8畳と6畳の狭い間取りで玄関にガラス引き戸・トタン屋根の時々雨漏りのする借家でした。テレビ、洗濯機、電話はありません。便所は汲み取り式、水道はなく井戸です。父は育ち盛りの私たちにたっぷり牛乳を飲ませようと子山羊を買ってきました。山羊の餌の草刈りや散歩、小屋掃除などは私の役目です。我が家で飲み切れないので欲しい人へ配達に行くのも私の役目になりました。子供心に満足できる楽しい我が家でした。貧しかったにも拘わらず、それを切実な問題と思うことはありませんでした。 「真面目に一生懸命生きていけば何も心
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- 幸福への招き-山上の垂訓講解説教 第1回
⇒(MP3, 32kbps)「幸福への招き」-山上の垂訓講解説教 第1回陶山 義雄申命記33,1-4、29; 今日の礼拝は「昇天後主日」と教会暦では呼ばれています。イエス・キリストが復活されたあと、天に昇られたことを記念して設けられたのが昇天祭で、今年は先週の木曜日、5月30日が昇天日となっておりました。これはルカ福音書記者の記述から来ています。使徒言行録1章3節では:「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」 その話の情景をルカは自分が編纂したルカ福音書24章でまとめておりますが、先ほど賛美した讃美歌57番の4節で歌われている「エマオの出来事」もこの24章に記されています。弟子たちに現れた最
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- 聖霊が降り注ぐ教会
⇒(MP3, 32kbps)「聖霊が降り注ぐ教会」村上 典子 イエスさまは、十字架につけられ苦しみを受け、三日目に復活された後、見える人となって、弟子たちのところに戻ってきてくれました。それから、弟子たちと、とともにいてくださったのですが、40日がたつと、天に昇っていかれました。イエスさまは天に昇って行かれる時、「私が一人の人間として、どんな風に人と出会い、どんな風に人を愛し、この世界を生きたか、お前たちは良く知っている。私は、一人の人間の中には二度と戻らない。これからは、時空を超えて、たくさんの人々、ひとりひとりの中に住もう。そして私の名のもとに集まった、人々の集まりの中に住もう。」と言われました。 空気と火と水と大地は、そんなイエス様のお役にたちたいと心から思いました。「イエスさま、私た
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- 非戦論の根拠
⇒(MP3, 32kbps)「非戦論の根拠」田中 健三;マタイによる福音書26,47-521 戦争を是とするか非とするかという思想について、キリスト教は決して一筋縄ではいかない多様な立場をとってきました。例えばキリスト教思想史上燦然と輝くトマス・アクィナスは、やむを得ない場合には戦争は認められるという「正戦論」を13世紀に主張しています。 非戦論を唱えた人物として有名な内村鑑三も、当初は正戦論(内村は「義戦論」と言った)でした。日清戦争を神の御旨に叶う戦争だとして、そのことを公に述べていました。ところが内村は日清戦争後直ぐに、正戦論から非戦論に自らの主張を変えるに至ります。1897年には、自分の主張は間違っていたと猛省する文章を記しています。その後、正しい戦争などない、いかなる戦争もするべき
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- 金持ちとラザロ
⇒(MP3, 32kbps)「金持ちとラザロ」廣石 望ヨブ記21,1-16;I とりあえず死ぬまでのことを、私たちは考えつつ暮らしています。先ごろ金融庁が、90歳まで生きるなら2千万円の預金がないと、公的年金だけでは足りないという報告書を政府に提出しようとして、おそらく不要な不安を煽るという理由で、麻生金融大臣から受け取りを拒否されました。この試算が本当なら、要するに早く死ねば、せめて私のことは何とかなるかしら、と思ってしまいます。 しかし今日のテクスト箇所は、まだ年金制度などなかった時代の生と、そして死後の運命について物語る譬えです。おそらく19-26節までが古いストーリーであり、27-29節と30-31節は後から付け加えられた拡大であると思われます。なので、主としてその古いストーリー部分

- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
