御国が来ますように

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「御国が来ますように」

陶山義雄
申命記6,4-9;

 日本の暦では、明日、2月11日は「建国記念の日」と定められています。しかし、私達が所属する日本基督教団では、この日を「信教の自由を守る日」と言い換え、それに相応し行事と集会を持って参りました。本日もそのことを念頭に置きながら、ご一緒に礼拝を守りたいと思います。

 1943年2月11日は私にとって忘れられない日となりました。上原国民学校1年生も終わろうとする頃、紀元節の式典(特別な朝礼)がありました。その中で御真影を拝する儀式があり、奉安殿の扉を新屋校長が開いた時には全員が首を垂れて、御真影を見てはいけなかったのです。しかし、私がその指導に十分には服さなかったと云う判断が下されて、そのことが咎められ、教頭先生から叱責を受けた後、父親・陶山義興までも学校に呼び出されて忠告を受けたのです。私が上原教会の日曜学校生であったこと、両親がクリスチャンであること、だから御真影に対して不敬な態度をとったのである、と指摘された挙句、教会へ行くこと、また、キリスト者であることが非国民の徴であると云って責められたのです。こうした経緯を両親は私に詳しく話すことはなく、後で分かった事ですが、この事件の後、両親は私を経堂にある私立の和光学園に転校させました。

 戦後、紀元節は「建国記念の日」と名称を変えました。しかし、私には決して忘れることの出来ない体験となりました。このことが、この教会に極めて近い上原小学校で起きたことなのです。戦時下にあってキリスト者がどんなに危険な思想であると見られていたのか、その一端を私の体験を通してもお分りの事と思います。戦時下にあって日本の教会はおしなべて白眼視されておりました。その最大の理由は、キリスト教が国家神道の教えにそぐわなかったからでした。天孫降臨と紀元節はキリストご降誕の出来事やイエス・キリストを神の子として礼拝する教会の働きと真正面から衝突する行き方であったからです。

 上原教会にも日曜礼拝時には、良く特高警察官が制服のまま、時には私服の姿で一般の会衆に紛れて礼拝を監視しておりました。或る時、赤岩牧師は渋谷警察署に呼び出されて、「天皇陛下とキリストとはどちらが偉いのか」と云う、今振り返れば、実に低級で粗野な尋問でしたが、「キリストが天皇よりも偉い」、とか「上位にある」と云えば、それだけで収監されたり、拷問されて棄教を迫られ、牧師の中には命を落とした方々もおられます。赤岩先生の答えはこうでした。「私はその質問に答えることは出来ません。なぜならば、どちらが偉いのか、と云う質問に答える人は、天皇陛下とキリストの上に立つことになるからです。」この話を赤岩先生から聞いた時、私は聖書の中の「権威論争物語」を思い出しておりました。イエスが神殿で話をしていたとき、祭司や律法学者たちが来て、「お前は一体、何の権威によって神殿ではなしているのか。誰が許可をしたのか。」と詰問された時、バプテスマのヨハネに言及しながら、その質問には直接お答えにならなかったことが赤岩先生の姿勢にも繋がっているように思いました(マルコ11:27~33)。

 先月・1月20日の日曜日、私は礼拝後、明治学院同窓会が主催する新年会を担当しました。それに続いて「いま、なぜ賀川豊彦なのか」と云う題で、元同僚であった加山久夫さんがお話しくださいました。賀川豊彦について、今では殆ど注目されず、忘れ去られた人、と云っても過言ではないと思います。福音宣教者であり、社会事業家、生活協同組合創設者、また、その初代会長であり、小説家でもあったキリスト者です。湯川秀樹博士より前に、ノーベル平和賞、ノーベル文学賞に数年続けてノミネートされながら、それが叶わなかった最大の理由は何であったかと云えば、賀川豊彦が戦争末期に軍部の圧力に負けて協力したからでした。軍部は、賀川先生の国際的知名度を利用して、太平洋戦争を正当化する宣伝放送に先生を利用したのでした。賀川先生は軍部の圧力に屈して「大東亜戦争は西欧の植民地と化したアジアの国々を植民支配から解放するために必要な戦いである」ことを放送で訴えたのです。

 平和主義者であった賀川先生が戦争を肯定するような主張に変わるとはとても信じられない事でした。実際、先生は明治学院神学部の学生であった1905年10月、日露戦争勝利に沸き、東郷平八郎元帥を迎えに品川駅まで出かけようとする同僚の神学生たちをたしなめて一人ヘボン寮に残っていたり、故郷・徳島の新聞に非戦論と絶対平和の論文を投稿したりしていた先生であったのです。戦時下の異常な圧力のもとで賀川先生が一時的に方向を変えているように見えますが、その前後を見れば、先生は一貫して平和主義者であることが分かります。

 1940年8月25日、松沢教会で賀川先生は礼拝説教時に、監視をしていた官憲によって逮捕されました。反戦運動の疑いを持たれて、渋谷警察署で拘置され、巣鴨刑務所に送られ、18日間も拘留されたのです。獄中から先生は、個人的にも親しくしていた松岡洋祐外務大臣に手紙を出し、特別な計らいを得て9月13日に出獄しています。以降2年近く、瀬戸内海の豊島(てしま)で静養をかねて、また、情勢の推移をみながら、暫くは公的なお働きから退いておられます。変化はその中で獄中で起きている様子がうかがえます。日本のキリスト教と、彼が携って来た協同組合運動を軍部の弾圧から守るために、意に反して大東亜共栄圏をキリスト教的価値観と結びつけて、(この戦争によってアジアが解放されるかのように)論じるようになったのです。

 しかし、賀川先生は戦争に屈した訳ではなかったのです。先生の本心は戦中にあっても民族や国を越えて、貧しい民衆を救い、防ぎ、そして究極的には世界が一つになって平和が実現する途にあったのです。賀川先生の平和論は「戦争に勝つか負けるか」と云うような狭い次元の問題を越えて、人類と世界の平和に目を向けておられた様子が良く分かります。ですから戦争が終わるや否や、1945年8月には東久邇宮政権で内閣参与を引き受けられ、平和の構想を発表し人類相愛による世界連邦の建設を提唱しておられます。

 先生の働きに、一貫して流れているのは、この人類相愛の精神でした。その根底には福音宣教者の使命があり、更にその思想と働きは、先生が最も力を頂いていたマタイ福音書の「山上の説教(山上の垂訓)」があったからです。宣教者、牧師、社会事業家、平和運動家など様々な呼ばれ方をする中で、全てを支えている命の根源は「山上の垂訓」にあったことをご自身も述べておられます。「山上の垂訓は人間至高(最高)の行動基準であり、人間にとって最高の手本である」と書いておられます。獄中にあった時、祈りが支えになっていた事も書き残しておられますが、その祈りこそ「山上の垂訓」の中にある、祈りの中の祈り、イエス・キリストが祈りの模範として教えられた「主の祈り」であった筈です。賀川先生が提唱された「神の国運動」も、その原点を辿れば「主の祈り」に帰着します。

 主の祈りには7つの祈りが掲げられています。「天にいます私達の父よ(祈りを捧げる相手への呼び掛け)に続いて

  1. 第一祈願:あなたの御名が聖なるものと崇められますように(穢れを廃して祈ります)
  2. 第二祈願:あなたの御国(神の国)が来ますように(神の国運動に向かう祈り)
  3. 第三祈願:あなたの御心が天において既に成就しているように、地上でも成就しますように
    (賀川先生にとってこの第三の祈りこそ、神の国運動の出発点になっています。それを、言葉で祈るばかりでなく、神の御心、神の国を地上に実現させる働きの参加することを意味しているからです。)
  4. 第四祈願:「生きるために必要な食べ物を今日もお与え下さい。
    (神の国運動は飢えている人たちへの救貧活動であるばかりでなく、一歩進めて防貧活動にまで及びます。生活協同組合も主の祈りのこの言葉から生まれているのです。)
  5. 第五祈願:日々の糧への祈りに続いて罪の赦しへの祈願

が置かれています。

 これは山上の垂訓の5章23節以下で既にイエスが教えておられた内容と関連しています:イエスは何時でも赦すことが出来なければ、父なる神に赦しを乞うことはできないことを明言しておられます。「もし兄弟が自分に対して何か恨みを抱いていることを思い出した場合、神の赦しを乞う供え物を捧げるのを、祭壇に捧げるよりも前に、先ず、兄弟と仲直りを図りなさい。」主の祈りでは「私達に負い目のある者を私達から先に赦しましたから、私達の負い目をもあなたがお赦しください。」賀川先生は戦時下に犯した軍部への迎合を、人に対して謝るよりも、先ず、神に対して赦しを乞い求めておられたに違いありません。そして人に向かっては謝罪の言葉を越えて、償いの働きをもって証を立てておられます。

  1. 第六祈願:最後の祈願は「私達を試みの手に委ねず、悪より救い出して下さい」と云う祈りです。一見、これは試みから免れることを願っているように聞こえますが、ゲッセマネの祈りで主が模範を示しておられるように、試みに打ち勝つことが出来るよう、神が助けて下さることを祈っているのです。「主よ、私達が信仰から脱落しないよう、お守りください」これが主の祈りの結びとなっています。
  2. 付則として初代教会は頌栄として第七祈願を付け加えておりますが、これはルカ福音書の主の祈りにはありませんし、マタイ福音書でもある写本には載っておりません。

 賀川先生が終生、お働きになった神の国を地上に(もたら)す運動は、正に主の祈りに叶い、それに沿って導き出されていることが良く分かります。先生が説いた「神の国」運動は神の国・到来を祈るばかりでなく、神の国を地上に齎す働きを実践することでもあったのです。「日曜の糧を与え給え」と祈ることは、食べ物が手に入らない貧困を撲滅する運動へと発展し、それが生活協同組合運動になり、今日に受け継がれています。救貧では不十分であり、神の国運動は防貧にまで及ばなければならない、と云うのが先生の主張であり、実践であったのです。

 賀川先生の宣教活動は、ほぼ同時代に生きたアルバート・シュヴァイツァー(1875~1965)の思想に大変良く似ている所が見受けられます。シュヴァイツァーは牧師として福音を語るばかりでなく、実際に世界の中に神の国を齎す働きをしなければならない、と説いておりました。教会は礼拝を捧げ、神とキリストを崇めているばかりでなく、イエスが十字架につけられたのは、神の国を建設する途上にあって、云わば、未完のまま世を去られたことを説いております。既に救いはイエスの生涯と十字架によって始まっているのですが、まだ、完成途上である。シュヴァイツアーは教会の講壇から降りて、主に倣い、医療の届かないアフリカへ赴き、医師となることを決意し、30歳になってから医学部に入り、38歳になってアフリカへ働くようになったのも、神の国を地上に齎すためであったことが分かります。ヨーロッパを去る別れの挨拶でシュヴァイツァーはこう述べています。

 「私達が苦難の中で、『御心が天におけるように地上でもなるように』(マタイ6:10)と祈る時、私達は神の意思を求め、・・・私達の生活の中で成就しなければなりません。それは私達が希望や心配の中で、出来る限り互いに助け合うためであり、神の意志が私達のために成就するためです。私達は皆で神の国の仕事をし、それによって満たされ、日々の仕事を喜んで続けます。なぜなら私達は、どんな状況にあろうと、神の国の働を持って行けるし、神に仕えることが出来る仕事を見つけられるからです。」(説教集より)

 私達の教会は多少、誇りにしても良い所があるかも知れません。赤岩榮先生は福音は教会から社会に向かって私達の手で働きかけて行くべきことを、常々語り、実践して下さいました。教会と労働組合が結びつき、メーデーへの参加はやがて、安保反対運動のデモへの参加に繋がり、キリスト者平和の会がべ兵連へと繋がった中で、私も育てれれました。感謝の他ありません。代々木上原教会でも平和憲法を擁護する九条の会は教会と社会を繋ぐ働きとなっておりました。

 「御国が来ますように」と祈る私達は、「主の祈り」を教えて下さった主に倣い、その働き人へと招かれています。これより散らされてそれぞれの持ち場、働きの場に向かう私達ですが、喜びの福音を携えて、地の塩、世の光となって神の国の継承者としての勤めを果たして参りましょう。


 
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