I
皆さん、イースターおめでとうございます。
イースターの朝、キリストは弟子たちに自らを示された、と私たちは聞きます。じっさい、そのようなイエスの顕現について物語る記事が、福音書にはいろいろあります。しかし本日のテクストは少し違います。マルコによる福音書は、女性たちがイエスの墓を訪問したことについて物語りますが、イエスの復活顕現については予告ないしその伝言が言及されるだけで、顕現そのものについては物語られず、さらにその伝言を託された女性たちは沈黙して、誰にも何も伝えなかったとあります。
ちなみにマルコ福音書16章9節以下の顕現物語は、古い重要な写本群には含まれず、より後代の写本にのみ現れ、内容的にもその他の福音書の顕現記事の寄せ集めであって、明らかに元来のマルコ福音書には属しません。
復活のイエスは不在であり、なおかつイエスの復活についての伝言が伝わらなかったというストーリーがもつ意味について、ごいっしょに考えてみましょう。
II
いったい、イースターの朝に何があったのでしょうか?
おそらく以下のできごとが生じたのだと思います――イエスの死の三日後、安息日明けの日曜日の朝、ガリラヤからエルサレムに過越祭の巡礼にイエスに同行していた女性たちのうちの数人が、埋葬の儀礼をやり直すために香油を携えて、イエスが埋葬された墓所を訪ねたが、墓は開いておりイエスの遺体はそこになかった。
このできごとの説明として、古典的な理論を二つご紹介します。第一は、女性たちがお墓を間違えたというものです。しかし直前の文脈で、墓を訪ねた三人の女性たちのうち、二人のマリアはイエスの埋葬場所を、つまり議員アリマタヤのヨセフが提供した墓を確認したと言われており(マルコ15,47)、簡単に間違えそうにはありません。
第二の理論は、誰かが事前にイエスの遺体を運び去ったというものです。これにはふた通りのヴァージョンがあります。
一つ目は、イエスの弟子たちがイエスの遺体を盗んだというものです。マタイ福音書には、祭司長たちやファリサイ人たちがユダヤ長官のピラトゥスに、イエスの墓に番兵をつけるよう進言する場面が現れます。「そうでないと、弟子たちが死体を盗み出し、イエスが死者たちから起こされたと民に言うかもしれない」(マタイ27,61)。このエピソードで奇妙なのは、「イエスが死者たちから(神によって)起こされた」という原始キリスト教の復活告白が、祭司長たちの口に入れられていることです。おそらくマルコ福音書が伝える「空の墓」の伝承に反発した周囲のユダヤ人たちが、それは弟子たちが遺体を盗んだにすぎないと批判し、マタイはこれに対する再反論を自分の福音書に書き込んでいるのでしょう。つまり、弟子たちがイエスの死体を移動させた、というのは後から生まれた理解です。
もうひとつは、弟子以外の誰かが遺体を移動させたという理解です。ヨハネ福音書のマグダラのマリアは、園丁に向かって「人々が私の主をとりあげた。彼らがどこに彼を置いたか私は知らない」(ヨハネ20,3)と訴えます。しかし、いったい誰が何のために、墓をあばいて屍体を移すというタブーをあえて犯すのでしょうか。
いずれにしても、空の墓のエピソードが、男性でなく女性による目撃証言として伝えられていること、遺体の移動ないし盗難という疑いを免れえないこと、つまり肉体を伴う復活の証明になりえないことの二点より見て、女性たちが空の墓を発見したという伝承は、古いものであると思われます。つまりこのエピソードは復活信仰の成立後に創作されたものではなく、、イエスの墓はじっさいに空でした。なぜそうだったのかは不明です。
III
墓を訪ねた女性たちにとって、このできごとは何を意味したでしょうか?
まず、墓の入り口を塞いでいた大きな石を自力で転がすことはできないと、彼女たちは思っていました。じっさいには、行ってみると石はすでに転がされていました(4節)。彼女たちは、そこに神の力の関与を感じたかもしれません。
つぎに墓の中には、白い外套を纏ったひとりの若者がいました。この地域に見られる岩をくり抜いて作った墓所は、入り口は小さいですが中の空間はそれなりに広いです。墓の中に座っていた若者は、「君たちはイエスを、つまり十字架刑に処されたナザレ人を探しているが、彼はここにはいない」と告げます(5-6節)。
こうして女性たちは、大きな力によって墓が開かれ、イエスの死体がそこにないことを発見しました。遺体がない場合、その人の死を悼み、埋葬の儀礼を行うことができません。飛行機事故や津波の行方不明者、またかつての外地で戦死した兵士たちのことを思い浮かべてください。このことは、女性たちに大きな当惑をもたらしたと思います。
もしかするとイエスの敵対者たちが、イエスの死体を損壊することで彼にさらなる侮辱を加えるために遺体を動かした、と彼女たちは考えたかもしれません。通常の十字架刑では、遺体は野犬や野鳥の餌食にされ、遺体は公共ゴミ捨て場に廃棄されたからです。しかしその場合、女性たちは仲間の弟子たちのところに急いで事情を伝えそうな気がします。要するに、女性たちの恐れの理由の詳細は不明です。
IV
墓を訪ねた女性たちについて物語るマルコ福音書は、いったい何を証言しているのでしょうか?
墓の中の若者は、「彼は(神によって、死者たちの中から)起こされた」と宣言します(6節)。イースターの朝に、この復活告白はまだ成立していませんでしたので、マルコが、後に確立された復活信仰に向けて、空の墓のエピソードを解釈していることが分かります。
復活信仰の基本は「死せるイエス」と「生けるイエス」が同一人物であることです。つまり復活のイエスが天使その他でなく、死んだナザレのイエスその人であることです。「空の墓」はそれがイエスの墓である限り、そこに彼の身体がないとき、死せるイエスが同時に復活者でもあることを示唆することができます。
若者は女性たちに次のように言います、「君たちは行け、彼(イエス)の弟子たちとペトロに言え、『彼は君たちに先立ってガリラヤに行く。彼が君たちに告げた通り、そこで君たちは彼を見るであろう』と」(7節)。
女性たちに託されたペトロその他の弟子たちへの伝言は、イエスの復活と弟子たちの顕現の中間に、女性たちによる伝言が不可欠の媒介項目として存在していることを示しているようです。つまり女性たちによる伝言がなければ、弟子たちはガリラヤに戻ることはなく、したがってイエスとの再会もありません。
そのさい、「先立ってガリラヤに行く」という告知には、「彼が君たちに告げた通り」という但し書きが示すように、死に先立って生前のイエスが弟子たちに告げた言葉の反復です。すなわちペトロの裏切りを予告する場面で(マルコ14,26-28)、イエスは「私は羊飼いを打つ。羊たちは散らされる」(ゼカリア13,7)を引用しつつ弟子たちの裏切りを予告し、それでも「私は起こされた後、君たちに先立ってガリラヤに行く」(14,28)と予告しました。ガリラヤでの再会は、この予言の成就となることでしょう。
ところで「先立って」には二通りの解釈が可能です。ひとつは、君たちよりも時間的に先にガリラヤに戻るという意味です。ヨハネ福音書には、復活のイエスがガリラヤ湖の岸辺でお魚を焼いて、弟子たちに朝ごはんを食べさせたというエピソードがあります(ヨハネ21章)。もうひとつは、かつてのようにガリラヤで君たちの先に立って歩むことで指導する、という理解です。いずれにせよイエスの活動は、過越祭へのエルサレム巡礼と十字架刑によっていったん中断されていたが、これからも「継続する」という意味合いです。
V
マルコ福音書は、女性たちの驚愕と逃亡そして沈黙を、たいへん強調します(8節)。イエスは「起こされた」という宣言が、女性たちの恐れの原因であるかもしれません。つまり今や生と死の境目は崩れ、世の終わりに神が行うと信じられていた死者の復活が生じ、それによって新しい世界が始まったことへの驚愕および恐怖です。
「誰にも何も言わなかった」とある以上、イエス復活の伝言は弟子たちに伝わらなかったと予想されます。つまりマルコ福音書は、原始キリスト教はスタートしなかったと告げる原始キリスト教文書である、というユニークな性格を備えています。
この問題の解決には、以下の三つが考えられます。
第一の解決は、女性たちがしばらく後に沈黙を破り、イエスの復活を弟子たちに伝えたというものです。――別の福音書に「女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」(マタイ28,8)、あるいは女性たちは「墓から帰って、十一人と他の人たち皆に一部始終を知らせた」(ルカ24,9)とあるように。
第二は、イエスが弟子たち(と女性たち)にエルサレムやガリラヤで顕現したというものです。――別の福音書に、「十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示された山に登った」(マタ28,16)とあり、あるいはエマオの途上での顕現(ルカ24,13以下)、マグダラのマリアへの顕現(ヨハネ20,11以下)などが知られています。
じつはもっと単純な第三の解決法があります。それは、今日ここで私たちにイエスが現れることです。それさえあれば、女性たちが沈黙したままでも問題はありません。
VI
マルコ福音書の結びは、多くの謎を含むストーリーです。イエスの墓には彼の遺体がありません。それゆえ「私は主を見ました」(ヨハネ20,18)と言うことができず、むしろ主はいませんでしたとしか言えません。また復活したイエスの顕現について語る代わりに、「先立ってガリラヤに行く」という予告のみが現れます。そして伝言を託された女性たちは激しく恐れ、沈黙します。イエス復活の知らせはいったいどのようにして弟子たち、そして私たちのもとに届くのでしょうか?
復活のキリストは、お墓の中に止まりません。昔の人々に現れたという伝説の中に止まりません。復活のキリストはむしろ現在に属し、私たちに現臨します。――他の福音書に「見よ、この私が君たちと共にいる、すべての日々に、世界の完成に至るまで」(マタイ28,20)、あるいは「いま君たちは悲嘆をもつが、私は君たちを再び見る。そして君たちの心は喜ぶだろう。そして君たちの喜びを君たちからとりあげる者はいない」(ヨハネ16,22)とあるように。
復活のイエスは霊的に私たちに現臨し、彼に出会う者に信仰を生み出し、福音を告げ知らせる者たちを集めます。「彼は君たちに先立ってガリラヤに行く」とあるガリラヤとは、イエスや弟子たち、また女性たちの故郷です。そこで彼らはイエスに出会い、彼に従ったのでした。いま彼らは、復活のイエスに従って生きるために、故郷に帰るよう求められています。それに倣って、私たちは日常生活の只中でイエスに出会うことが期待されていると考えてよいかと思います。
マルコによる福音書は、そこで私たちがイエスについての物語を聞き、思いを巡らせることができる文学空間であるという意味で、教会の礼拝共同体に似ています。教会で私たちは共に祈り、神を賛美し、互いの信仰の証言を聞きとり合うことで、復活のイエスに出会います。しかし歴史上のイエスも復活のイエスも、「福音書」という言語空間に閉じ込められた存在ではありません。教会も信仰の同胞たちを介してイエスに出会う場所ですが、イエスは「礼拝堂」の中に閉じ込められた存在ではありません。
復活のイエスに出会うことのできる「ガリラヤ」とは、信仰共同体であると同時に、そこから私たちがイエスの命を証言するために派遣される日常生活です。女性たちの激しい驚愕と恐怖そして沈黙は、キリストの復活というメッセージがこの世界に与える衝撃の大きさと、この世界の只中でキリストを告白することへの恐怖でありましょう。
でも、行きましょう。「そこで君たちは彼を見るであろう」。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
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