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どうしたら賢者になれる?」

今日は、どうすれば賢者になれるかを考えてみました。世界で最初のクリスマスの出来事です。聖書にこう書いてあります。イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。(マタイ2:1-2)もしあなたが賢者になりたければ、あの東から来た三人の博士たちがした事と同じ事をすればいいのです。彼らは真理の探求者でした。彼らは本当に真理を知りたいと願っていました。彼らは神に関する真理を知ることを後回しにしませんでした。彼らは何と尋ねているでしょうか。「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか」と尋ね

聖書が教える真理

聖書が教える真理 聖書の発行部数は、年間約5億8000万冊で、2300以上の言語に翻訳され、その実績から「永遠のベストセラー」と言われてきました。聖書が他の追随を許さない驚くべきベストセラーであり続ける理由は、それが人間の言葉ではなく神の言葉だからです。 テモテ第二の手紙3:16を見ると、「聖書はすべて神の霊感によって書かれた」とあるように、聖書は神が聖書記者たちに霊感を与えて、書かせられた神の言葉です。ですから、聖書の中には「主がこう言われた」「神がこう語られた」という表現が、実に2600回も繰り返されているのです。 アポロ14号が月に行ったとき、16ヶ国語で書かれた4500ページの聖書が月に運ばれました。聖書は、地球から他の天体に運ばれた最初の本です。聖書はあらゆる意味で偉大で、世界中の

高貴なる義務」

今日は、‘高貴なる生き方’ということを考えてみました。フランス語に、ノブレス・オブリージュという言葉があります。これは日本語に訳すと‘高貴なる義務’という意味です。つまり、王侯貴族のような富や権力を人よりも多く持っている者は、それだけ人よりも多くの社会的義務と責任があるという考え方で、これは「多く与えられた者からは多く求められる」という聖書の言葉がその土台になっています。また、この考え方はヨーロッパにおける指導者観の基本で、その源流は‘騎士道’つまり‘ナイトの精神’であり、‘紳士の道’つまり‘ジェントルマンシップ’ということです。優れた勇気と力、自制心、高潔さ、犠牲的精神などを備え、何かあれば真っ先に自分が危険の矢面に立って人々を守る、それが高貴な生き方をめざす者の生き方であろうかと思います

9の黙想

箴言10:9の黙想「まっすぐに歩む人は安らかに歩む。曲がった道を歩む者は自ら知られないようにする。」(箴言10:9) 箴言10章は、義なる者と悪しき者の生き方を対比し、神に従う人生の祝福と、邪悪な道を歩む者の結末を明確に示しています。その中でも箴言10:9は、誠実な生き方がもたらす平安と、悪しき道を歩む者の不安を対照的に描いています。この御言葉を現代社会に適用しながら、私たちがどのように誠実に生きるべきかを考えてみましょう。1.まっすぐに歩む者の平安「まっすぐに歩む人は安らかに歩む」という言葉は、誠実で正しい道を歩む者が、心の平安と安全を得ることを示しています。これは、単に表面的な正しさではなく、神の前での正直な生き方を意味します。私たちは日々の生活の中で、誠実に歩んでいるでしょうか。神の前

創造か進化か(1)

創造か進化か  あなたの先祖はサルですか? その根拠は何ですか? 学校でそう教えられたからですか?  もしあなたが進化論を信じ、すべてのものが偶然によって出来上がったと思っておられるなら、その偶然の産物であるあなたの人生に確かな意味と目的を見出すことは不可能です。なぜなら、偶然性の中には意味も目的も存在し得ないからです。  しかし、聖書が教える創造論に基づくならば、あなたの先祖はサルではなく人間です。人間は初めから人間として、しかも偶然ではなく必然的に、素晴らしい意味と目的をもって、神の創造の産物としてこの世に誕生したのです。  では一体この二つの考えのどちらが正しいのでしょうか? これは、どちらでも構わないと簡単に片付けられる問題ではありません。なぜなら、どちらの世界観を前提に生きるかで

3贖罪の原理

今日は、‘贖罪の原理’ついて考えてみました。 贖罪とは、元来、犯した罪に対して償いをするという意味ですが、キリスト教においては特に重要な意味を持ちます。それは、自分の力では償いをすることができない人間に代わって、神の子キリストの命が犠牲として捧げられ、その代価によって神に対する人間の罪が償われて、両者の間にあった敵対関係に和解がもたらされることを意味します。  もし殺人の罪を犯して終身刑の罰を受けるとしたら、それは一生を棒に振る絶望的なことです。ところが、すべての人間が原罪という罪のために永遠の滅びが定められているという事実は、実は終身刑どころの絶望ではありません。そんな私たち人間が、救い主キリストを信じるだけで罪を赦され、永遠の滅びではなく永遠の命を頂けるとしたら、それはあまりにも分の良い

ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)」

今日は、’ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)’のことを考えてみました。今日は、Good Fridayです。今から約2000年前の今日、人類史上最大の事件がありました。それは神の子キリストが人類の罪を贖うために十字架に架かられた事件です。イエス・キリストはピラトの官邸で行なわれた裁判で死刑判決を受け、十字架を担いで処刑の場となったゴルゴダの丘まで歩いて行かれたわけですが、その曲りくねった道をVia Dolorosa(悲しみの道)と呼びます。そして、その道に沿ってイエス・キリストにまつわる出来事を記念した14のステーションが設けられています。まず、第一ステーションから第九ステーションまでは旧市街の通路の傍らにあります。最初の地点は主イエスが裁判を受けたとされる総督ピラトの官邸の跡地で、現在はエル・

孤独」

今日は、“孤独”ということを考えてみました。人は誰でも“孤独”を感じる時があります。「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の”間”にある」とは哲学者の三木清の言葉ですが、多くの人が行き交う賑やかな都会の雑踏の中で急に、“ひとりぼっちの自分”を感じたり、友達と楽しくお喋りをして、家に帰って一人になったとき、ふっと寂しさを感じたりということは誰にでもある経験ではないでしょうか。また、長年連れ添った伴侶を亡くしたり、家族や親しい友が遠い所に行ってしまったり、人間関係が上手く行かなくて疎外感を感じているときなど、人は孤独感に陥りやすいものです。孤独には、人生の中で誰もが感じる孤独や、帰属していないという孤立状態の孤独、また病的な孤独感など、いろんな孤独があります。もし人が

3クリスマスの教えは失うこと

クリスマスの教えは失うこと クリスマスとは、御子イエス・キリストの降誕を祝う日です。しかし、なぜキリストの降誕がここまで世界を挙げて祝われるのでしょうか。それはキリストの降誕が、絶望の世界に希望をもたらし、暗黒の世界に光をもたらしたからです。つまり、罪のために永遠の滅びが定められているすべての人に、キリストを信じる信仰によって罪が赦され、永遠の命が与えられる道が開かれたからです。 しかし、人間にとっては有難すぎるこの救いが与えられるために、神の子キリストはご自身の命を身代わりとして捧げなければなりませんでした。つまり、言い方を替えれば、イエス・キリストはご自分の命を失うためにこの世に来られたということです。 ですから、クリスマスのメッセージは、失うことがもたらす恵みということです。だからこそ

神の絶対主権」

『神の絶対主権』 世の中には、神と自分とを同等の立場に置いている人がたくさんいます。クリスチャンと呼ばれる人の中にもそういう人が少なくありません。そういう人は、主に聴くことをしないで自分の思いのままに行動する人たちです。それは、神の絶対主権を無視する行為です。  南ユダ王国のウジヤ王は、もとは素晴らしい王でした。1歳で南ユダの王になり、52年間も王位を守った偉大な王です。外国と戦って勝ち、金、銀が豊富で、とても豊かな国を建て上げました。すると彼の心に高ぶりが入ってきました。 そこでウジヤは、王の役割だけでは満足できず、祭司長の役割も手に入れようと、神殿に入って神に捧げ物をしようとしました。本来ならば、神が決められた役割を果たすべきであるのに、神が願われない役割を行ったのです。 神殿に入って香

自分を幸せにできるのは自分だけ」

『自分を幸せにできるのは自分だけ』あなたは幸せですか・・・?自分の生涯を閉じる日が来たとき、「ああ、私の人生は本当に幸いな人生だった。そして、これからは更に素晴らしい、新たな永遠の人生が私を待っている」ということを本気で言うことができるなら、その人は本物の幸せをつかんでいる人だと言えます。また本当の自分を生きている人だと言えます。人は誰でも、生きる上での心の拠り所や、その人なりの人生の目的を持っています。しかし、もし人が普遍的な心の拠り所を持たず、普遍的な人生の目的を持っていないなら、その人は本当の幸いを得ているとは言えないのではないでしょうか。普遍的な心の拠り所も、普遍的な人生の目的も、神を知ることなしには絶対に得られないものです。神を知り、神と共に生きている人は、神の愛という座標軸をもと

究極の自由"

今日は、”究極の自由”ということを考えてみました。1520年に出版された、マルチン・ルターの代表作で、『キリスト者の自由』という小冊子があります。これは、福音の中心を簡潔に表現したもので、その冒頭において、キリスト者の自由の二つの原則が語られています。 ①キリスト者は、すべての者の上に立つ自由な主人であって、何者にも従属しない。(従属する=支配される)②キリスト者は、すべての者の下に立つしもべであって、何者にも従属する。ルターは、キリスト者はすべての者に対して「自由な主人」であり、同時に「下に立つしもべ」であるという、一見矛盾するような二つの定義を掲げながら、この二つの定義は、根底で結ばれ、一致しているのだと主張しています。なぜなら、本当の自由は信仰によって得られるものであり、この自由を得た

人間の基本姿勢(その3&4)

人間の基本姿勢(その3&4) さて、今日も前回の続きですが、今日は、人間が持つ以下の4つの基本姿勢の第3番目と4番目のものを考えてみました。今回は少し長いですが、とても大切な人間理解について書きましたので最後まで読んでください。① 私もOK、あなたもOK(自己肯定、他者肯定)② 私はOKだが、あなたはOKではない(自己肯定、他者否定)③ 私はOKではないが、あなたはOK(自己否定、他者肯定)④ 私もあなたもOKではない(自己否定、他者否定)③ 私はOKではないが、あなたはOK(自己否定、他者肯定) この姿勢で生きている人は、厳しく育てられた、いじめにあった、そういう背景を持った人が多いようです。 小さい頃の親や先生が厳しいということは、「まだまだ、そんなことじゃダメだ。もっと頑張れ」と言われ

ヤマアラシのジレンマ」

『ヤマアラシのジレンマ』 19世紀のドイツの哲学者ショーペンハウアーの寓話に以下のようなものがあります。 寒空の下、一匹のヤマアラシがいました。ヤマアラシはひとりで寂しく思っていました。そこへ、同じように寒がっているヤマアラシに出会いました。寄り添って温め合えば寂しくないし、お互いが温かくなると思った二匹はすり寄りました。 しかし、ヤマアラシたちはある程度近寄ると自分の身を守るためのとげがお互いの身体を刺し合いました。二匹はどうにかして近寄って温め合おうとしましたが背中の自分の身を守るためのとげが近寄らせてくれません。どうやっても近寄ることのできないヤマアラシ。二匹はお互いのとげが刺さらない距離を保ちながら一緒に泣きました。 ヤマアラシたちは泣き合っているうちに気がつきました。近寄りすぎると

自分を変える“

今日は、”自分を変える”ということについて考えてみました。あなたは自分を変えようと試みたことがありますか?その結果はどうでしたか?自分を変えるのは簡単ではないと思いませんか?自分を変える一番良い方法は、自分の古い生活習慣を捨て、イエス・キリストの生き方を新しい習慣として取り入れることです。これがどんな自分の努力よりも効果のある方法です。エペソ書4:22-24にこう書いてあります。

「すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、 心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」

神は、私たちを即座に変えることもお出来になりますが、ゆっくり私たちを開発する方法を選んでおられます。イエス様は、ちょうど神がイ

「心の向き」

“心の向き”あなたは不安や暗い気持ちになったりすることがありませんか? 不安になったり心配な気持ちになったりするのは、自分が悪いことを想像しているからです。また暗い気持ちになるのは、自分が悲観的な考え方をしているからです。ですから、悪いことを想像するのをやめることができれば、不安や心配な気持ちになることはなくなります。また、希望や期待を心に抱くことができれば、明るい気持ちになれます。そして、いつもその時のベストを尽くすように心掛ければ、心を健全に保つことができるものです。 人の考えは、無意識の状態では、習慣に従います。つまり何かを特別に意識していない時には、いつもの思考パターンで考え、いつもの行動パターンを繰り返すのです。しかし、何かを特別に意識すれば、意識している間は、習慣とは違うことを考

喜びの処方箋」

『喜びの処方箋』 「喜べば 喜び事が 喜んで 喜びつれて 喜びに来る」という格言がありますが、いつも喜んでいる人の所には、喜びが他の喜びを連れてやって来るものです。しかし、それとは反対に、いつも愚痴を言う人の所には、不平不満が他の不平不満を連れてやって来ます。皆さんは、そんな法則があることをご存知でしょうか。喜びと愚痴というのは、決して同時にその人の中にとどまることはありません。喜びのある人の心に愚痴がとどまることはできず、愚痴を言う人の心に喜びがとどまることはできません。喜びのある人生はますます喜びに満たされ、愚痴の多い人生は不平不満から開放されることがありません。ですから、幸せな人生には、喜ぶということが不可欠な要素なのです。ところが、『喜び』と一言で言っても、喜びにも色んな喜びがありま

収穫の原則“

今日は、”収穫の原則”について考えてみました。  「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます」(IIコリント9:10) あなたは、自分の必要の供給源として、神だけに頼る決心をすることの大切さを考えたことがありますか。私たちクリスチャンは、自分の必要を満たすために、神だけを頼りにし、他の何ものにも頼らないことを神に申し上げる必要があります。 私たちは、供給のチャンネルを供給の源と勘違いすることがあります。神は、あなたの必要を備えるために、そのチャンネルとして、仕事から得る給料を用いられるかも知れません。しかし、あなたの雇い主は神の備えの単なるチャンネルに過ぎないのです。そして、神が望まれるなら、いつでも別の

あなたの先祖は猿?それとも・・・」

今日は、‘人間の起源’について考えてみました。人間は生まれたくて生まれてきた訳ではなく、自分で選んだわけではない母親から生まれ、自分の意志からではなしにこの世に存在するようになったことは歴然たる事実です。そしてこの事実に対する説明は基本的には二つしかありません。一つ目は「まったく偶然に、自然発生的に存在するようになった」とする進化論的立場です。つまり、地球ができて何十億年もの時間があれば、誰も見た訳ではないけれど、自然発生的に生物が誕生したのだとする立場です。そしてこの理論によれば、あなたの先祖は猿です。二つ目は「あなたは誰かによって造られた」とする創造論的立場です。そして、それは人間を始めとして、生物の構造はあまりにも合目的的にデザインされており、このようなものはたとえ数十億年の時間があっ

牧師室より#423 思い煩いは、百害あって一利なし

思い煩いは、百害あって一利なし 思い煩いは、百害あって一利なしです。それは、タバコを吸うようなもので、害にこそなれ、何の益にもなりません。思い煩っても、状況が良くなるわけではありません。家庭や職場の環境が変わるわけでもありません。貧しい人生が豊かになるわけでもなく、年老いた人が若くなるわけでもなく、病人が癒されるのでもなく、死ぬべき人が生き返るわけでもありません。 イエス・キリストは、山上の説教の中で、「あなたがたのうち、だれが思い煩ったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか」とおっしゃいました。  思い煩いは、全く無用の長物です。それにも拘わらず、多くの人が毎日、様々な思い煩いの中で暮らしています。心配しようが、しまいが、私たち人生の中で起こるべきことはすべて起こるのです

The Cross Pendant

He is a cross pendant.
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He will be sent to your Side.
Emmanuel

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Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......

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