神様は畏れるべき、また愛するべきお方です。

「フィリポよ、あなたは私を知らないのですか。私はあなたがたとこれほど長い間一緒にいたというのに。私を見た者は、お父様を見たのです。」
(ヨハネによる福音書 14章9節)

神様は畏れるべき、また愛するべきお方です

フィンランド語原版執筆者: ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、牧師)日本語版翻訳および編集責任者: 高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

これから神様について考えてみることにしましょう。神様はどのようなお方なのでしょうか。「神様を知る」とはどういうことでしょうか。神様がどのようなお方であるか、一体どこから知ることができるのでしょうか。

「神が存在するのはたしかかもしれない。しかし、神については(少なくとも確実なことを)知ることはできない。だから、こういうことは深く考えないほうがよい。」 人が信仰にかかわることがらに接するときに示すごく一般的な反応はこのようなものではないでしょうか。そして、この考え方には真実をついている面もあります。神様を知るようになるための特別な能力が私たち人間のうちに備わっていないのはたしかです。

私は10代半ばに 堅信キャンプ(堅信礼に先立って行われキリスト教の基礎を学ぶキャンプ)に参加しました。そこで学んだいくつかのことを今でも覚えています。そのひとつは「神様は隠されている」という教えです。これは、神様が私たちの思いもしないところにおられることを意味しています。また、私たちが氷点下の冬の夜に満天の星空を見上げて、「神様はたしかに存在する。だけど、神様に直接会うことも見ることもできないし、私の思いの中で把握することもできない」、と実感することでもあります。

人間というものは、神様についてあれこれ想像をめぐらすものです。こういうことが人間は得意なのです。この世界は多種多様な宗教や宗教的思想で充満しています。しかし、神様についての話は、「私はこう考えている」とか「ある偉大な思想家はこう言った」とかいう類のものであるかぎり、たんなる推測の域を出るものではありません。実際に見たこともなく知ってもいないことについて話しているに過ぎないからです。そうした推測の中には正しい考え方に近いものが部分的に含まれている可能性もあるでしょう。しかし大部分の点では、神様について見当違いな見解が示されているものです。たとえば、本屋から「偉大な思想家たち」といった啓蒙書を買い込んで、そこから神様について意味のある思索を探す人は、実は徒労なことをしています。そうする人は多いのですが、このようなやり方によっては神様を知るようにはなりません。

神様は隠されている、というのは真実ですが、それと同様に真実なのは、神様を知ることができるということです。「神様は私を愛しておられるのか?」、「神様は私を裁かれるのか?」、「神様は私について関心がおありなのか?」、こうした質問の答えを本当に知ることができるほどに、私たちは神様のことをよく知ることができるのです。また、人と神様との間には、「私は神様を知っており、私は神様のものである」、と言えるような親密な関係があります。どうしてそのようなことがありうるのでしょうか。その答えは神様の御言葉にあります。神様は私たちの視線や考えが及ばないところから、御言葉を送ってくださっているのです。神様は御言葉を通して話し始め、御自分について語り、隠された真のお姿を私たちに明らかに示してくださいます。

このようになさる神様は御言葉を私たち人間には見えないところから送られました。これには次のふたつの意味があります。

第一に、神様は聖書という書物を賜わりました。聖書は神様の御言葉です。キリスト教信徒はいつの時代もそう信じてきましたし、私たち現代のキリスト教信徒もまた同じように信じています。周りの人から「幼稚だ」とか「時代遅れだ」と言われても私たちは意に介しません。世界のすべての人間に対して御自身について伝えたいことを書き取らせるために、神様はある人々をお選びになりました。「神様はさまざまな状況において何をなさったか」、「神様は何をお命じになったか」、「どのように神様は愛を示されたのか」、「何を神様は裁かれたか」、「神様の選ばれた男たちや女たちは神様についてどのようなことを教えたか」、といったことについて聖書は語っています。これらは、私たちが神様のことを知るようになるために神様は御自分を私たちにあきらかになさっている、ということを意味しています。神様を知る能力がない私たち人間に対して聖書を通して語りかけておられるのは、神様御自身なのです。もちろん神様は御自分のことをよくご存知です。

第二に、神様が御言葉を送られたということは、神様御自身が御言葉を通してこの世に来られたことを意味しています。そしてそれは、イエス様がこの世に来られた時に実現したのです。新約聖書の「ヨハネによる福音書」によれば、イエス様は神様の御言葉であり、神様御自身です(1章)。それは、目に見えない隠された神様がどこか遠くから御子の中で見える形になられて人々の只中に来てくださった、ということを意味しています。あるとき十二弟子のひとりフィリポは、彼ら弟子たちが父なる神様を見ることができるよう、イエス様にお願いしました。それに対して、イエス様は何とお答えになったでしょうか。

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