クリスチャンの中で、たまに「明日は絶対晴れます!」と言う人がいますが、それは正しい姿勢なのでしょうか?
大学時代、クリスチャンのサークルの新入生歓迎イベントに参加した。典型的な新歓バーベキューだった。駅で先輩たちと待ち合わせたのだが、当日はあいにくの雨。しかも、結構ザーザー降っていた。しかし、バーベキューは中止にはならず、決行された。
バーベキュー場につくと、先輩たちが寒そうに傘をさして待っていた。すると、実行委員のとある先輩が、空に向かって何やら叫び出した。「神様! あんなに晴れるように祈ったのに、なんで雨なんだよ!! なんでだよ!!! ふざけんなよ!!!!」全身全霊で神に向かって怒りを表現している先輩に、私は唖然とした。まわりの新入生もドン引きだった。ご利益的な信仰と、その祈り通りにならならず神に対して怒っている姿に全力でツッコミたかった。結局、それがキッカケで、そのサークルに対して悪い印象しかなくなった。
このように、「神様明日晴れにしてください」とか「神様に祈ったら絶対晴れるよ」といった言葉は、クリスチャン同士の会話でよく耳にする。一般的には、天気予報などを加味して、雨天時の予定を組んだりするのだが、クリスチャンの中には、「晴れるように祈ったから、絶対晴れるよ!」と楽観的な意見を述べる人がいる。そこまで強行的でなくとも、「晴れるように祈ろう」という人は多い。
果たして、これは「信仰」と呼べるものなのだろうか。今回はその点を議論したい。
聖書は、「晴れるように」など、天気を左右する祈りについて、どう書いているのだろうか。実は、晴れや雨など天気について祈る行為の是非について、聖書には全く記述がない。禁止も推奨もされていないのである。
当然、神が天気をつかさどっているという記述はある。神がこの世界のすべてを造ったのだから、当たり前なのだが、いくつかその例を挙げてみよう。
<エジプトでの雹>
「私(神)は明日の今頃、エジプト始まって以来、今までになかったような恐ろしく激しい雹を降らせる。それゆえ、人を遣わして、あなたの家畜と、野にいるあなたのものすべてを避難させなさい。野にいるあなたのものすべてを避難させなさい。野にいて家に連れ戻さないものは、人も家畜もすべて、雹に打たれて死ぬであろう」ファラオの家臣のうち、主の言葉を畏れた者は、自分の僕や家畜を家に避難させた。しかし、主の言葉に心を止めなかった者は、その僕や家畜を野に放置した。(中略)そこで、モーセは杖を天に向って差し伸ばした。こうして主は、エジプトの地の上に雹を降らせた。雹が降り、雹の間を炎が駆け巡った。その激しさは、エジプト全土で国が始まって以来ないほどのものであった。雹は、エジプト全土で野にあるすべてのものを、人から家畜に至るまで打った。雹はまた、野のすべての草を打ち、野のすべての木を砕いた。ただし、イスラエルの人々がいるゴシェンの地には、雹は降らなかった。
(出エジプト記 9:18~26 聖書協会共同訳)
これは、有名な「エジプトでの10の奇跡(災い)」の一部である。神がエジプトに猛烈な雹を降らせたという記述だ。ただし、イスラエル人が居住するエリアには雹が降らなかった。神が天気をコントロールしているのが分かる。
<イスラエルの戦いでの雹>
主はイスラエルの前で彼らを混乱に陥れられたので、イスラエルはギブオンで彼らに大打撃を与え、さらにベト・ホロンの坂道を追い上げて、アゼカとマケダまで彼らを追撃した。彼らがイスラエルの前から逃れ、ベト・ホロンの下り坂にさしかかったとき、主<しゅ>は天から大きな石(雹)を降らせた。それはアゼカに至るまで降り続いたので、多くの者が死んだ。石のような雹に打たれて死んだ者は、イスラエルの人々が剣で殺した者よりも多かった。
(ヨシュア記 10:10~11 聖書協会共同訳)
イスラエルの民が、アモリ人と戦争した時、神が雹を降らせた。イスラエル人が戦争で殺した人より、神による雹に打たれて死んだ人の方が多かった。戦争に勝利するのは、人の力ではなく、神の力によるものだとハッキリ分かる出来事である。
<太陽が一日の間留まる>
こうして、主がアモリ人をイスラエルの人々の前に渡された日、ヨシュアはイスラエルの見ている前で主に語った。「『太陽よ、ギブオンの上にとどまれ。月よ、アヤロンの谷にとどまれ』すると、太陽はとどまり、月は動きをやめた。民がその敵に報復するまで」これは『ヤシャルの書』に記されているとおりである。太陽は丸一日、中天にとどまり、急いで沈もうとはしなかった。この日のように、主が人の声を聞き入れられたことは、後にも先にもなかった。主がイスラエルのために戦われたからである。
(ヨシュア記 10:12~14 聖書協会共同訳)
何とビックリ。太陽が一日中とどまり、沈まなかったとの記述である。神は、太陽の動きをコントロールする力を持っている。もっとも、近年の研究では、この記述は日食ではないかとの指摘もあるようだ。
<太陽が十度戻る>
ヒゼキヤ(王)がイザヤ(預言者)に、「主が私を癒やされ、私が三日目に主の神殿に上ることができるというしるしは何でしょうか」と問うと、イザヤは、「これが主からのあなたへのしるしです。主は約束されたことを必ず実行されます。日影が十度進むか、十度戻るかです」と答えた。するとヒゼキヤは、「日影が十度伸びるのはたやすいことです。むしろ日影を十度後戻りさせてください」と頼んだ。そこで預言者イザヤが主に叫ぶと、主は、日時計、すなわちアハズの日時計に落ちた日影を十度後戻りさせられた。
(列王記下 20:8~11 聖書協会共同訳)
ヒゼキヤ王は病気になった。ヒゼキヤは、神に熱心に祈って、癒やされることになった。ヒゼキヤは、預言者イザヤにその証拠を求めると、イザヤは「太陽が十度進むか、戻るか、どちらかを選べ」と提案する。ヒゼキヤは、太陽を十度戻すよう願うと、神は実際に太陽を十度戻したのであった。神は、太陽を止めるだけでなく、戻すこともできるのである。
<預言の中に見られる神の力>
春の雨の季節には、主に雨を求めよ。主は雷雲をもたらし、人々に豊かな雨を与え、すべての人に野の草を与えられる。
(ゼカリヤ書 10:1 聖書協会共同訳)
預言書の中には、神が自然をコントロールしている様が、よく描かれる。神は、雨も風も雷も支配している。季節も天気も、神が差配しているのが分かる。特にここは、雨が非常に貴重な中東ならではの、神が雨を与えるという約束である。
<預言者エリヤの時の大雨>
ギルアドの住民であるティシュベ人エリヤ(預言者)はアハブ(王)に言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が言葉を発しないかぎり、この数年間の間、露も降りず、雨も降らないであろう」(中略)それから多くの日を重ねて三年目のことである。主の言葉がエリヤに臨んだ。「さあ行って、アハブの前に姿を現しなさい。私はこの地に雨を降らせる」
(列王記上 17:1~18:1 聖書協会共同訳)
イスラエル王国のアハブ王の時代、長い期間の干ばつがあった。実は、信仰を捨てていたイスラエル王国を戒めるために、神が干ばつを起こしたのであった。そして、3年語には大雨を降らせた。雨を降らせるのも、降らせないのも、神のさじ加減なのである。よくこの箇所を引用して、「預言者エリヤのように天気を祈るべきだ」という人がいるが、それは間違いである。天気を支配するのは、私たちの祈りではなく、神ご自身の主権と力である。
このような例を見ると、神がいかに偉大な力を持っているか分かるだろう。神は天気を司っている。この点には、聖書の神を信じる人にとっては、全く異論のないところであろう。問題は、どんな理由で天気を祈るかという、そのモチベーションである。
なぜ、天気について祈るのか。例えば、「明日、屋外で教会のイベントがあるから、天気になるように祈りましょう」というケースで考えてみたい。当然、その理由は、イベントが問題なく開催される為である。ということは、「自分たちが企画したものがうまくいくように、神様どうか天気を晴れにしてください」と祈っていることになる。
この動機は、ハッキリ言って自己中心以外の何物でもない。例えば、「晴れになってほしい」と祈る際に、同じ地域で「雨が降るように」と祈っている人がいたら、どうなるのか。例えば、あなたが企画したイベントの裏で、「どうしてもマラソン大会に出たくない、神様どうか雨を降らせてください」と願っている、いたいけな少女がいるかもしれない。命をかけて練習してきた陸上選手が、たまたまその日体調が万全でなく、雨天順延を願っているかもしれない。
クリスチャンだけが特別なのだろうか。「明日は絶対晴れます」とか断言してしまうクリスチャンは、他の人を慮る想像力がまるでない。ハッキリ言って、自己中心である。
ましてや、同時に同じエリアで、2のクリスチャンのうち1人が「晴れにしてください」と祈り、もう1人が「雨にしてください」と祈っていたらどうなるのか。神はどちらの祈りを聞かれるのだろうか。より神に信頼している人の祈りを聞くのだろうか。そうではないだろう。
結局、神が晴れにすれば晴れるし、雨にすれば雨が降るだけなのである。大事なのは、晴れになっても雨になっても神に感謝して生きる態度である。
よく、雨天時の対応を考えると「不信仰だ」などと、わけのわからない指摘をしてくるクリスチャンがいるが、意味不明だ。屋外でイベントをやるなら、晴天時と雨天時の対応を考えるのは、当たり前である。不信仰などではない。
こう言うと、聖書にこう書いてあるではないかと言う人もいるだろう。
(預言者)エリヤは、私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ると、3年6ヶ月にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈ると、天は雨を降らせ、大地は実りをもたらしました。
(ヤコブの手紙 5:17〜18 聖書協会共同訳)
これは、先に挙げた、神がイスラエル王国を戒めるために、預言者エリヤを通じて3年間の干ばつを起こした出来事の引用である。エリヤは、雨が降らないように祈ったではないか。だから我々も天気のために祈っていいのではないか。そう指摘する人は、前後の文脈を読んだ方が良い。
あなたがたの中に苦しんでいる人があれば、賛美の歌を歌いなさい。あなたがたの中に病気の人があれば、教会の長老たちを招き、主(神)の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、弱っている人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯しているのであれば、主は赦してくださいます。それゆえ、癒やされるように、互いに罪を告白し、互いのために祈りなさい。正しい人の執り成しは、大いに力があり、効果があります。エリヤは、私たちと同じ人間でしたが・・・
(ヤコブの手紙 5:13~16 聖書協会共同訳)
この部分で書いているのは、「イエスを信じるコミュニティの中で、お互いに祈り合いなさい」という勧めである。弱っている人を、祈りをもって互いに助け合いなさいという記述である。決して、雨が降るよう祈れとか、晴れになるよう祈れという意味ではない。天気が自分の思い通りになるという「信仰」は、果たして「信仰」なのか、アヤシイと私は思う。
そもそも、エリヤが雨が降らないように祈ったのは、当時のイスラエルという国家への預言のためである。神が雹を降らせたり、大雨を降らせたり、太陽を戻したりしたのは、いずれも王や預言者など、イスラエルの民の国家的リーダーたちに対して示した「しるし」であった。決して、教会なイベントとか、新歓バーベーキューのような、チンケなものではない。スケールが全く違う。
また、旧約聖書の時代の人々にとって、天気は暮らし、いのちをも左右する重要なものであった。しかし、現代の日本に生きる私たちは、たとえ天気がどうあろうと衣食住には困らないのだから、いちいち天気について心配したりする必要はない。ただ、例えば大地震とか、台風とか洪水のような、人のいのちにかかわるような災害が起こらないように祈るのは、私は全く問題ないと思う。むしろ、神を知る前に、そのような災害で多くの命が失われないよう、祈った方が良い。
これは決して、神の主権を認めない話などではない。当然、神は天気をコントロールする力も主権も持っている。それを、自分の都合のために願うというのは、越権行為であり、自己中心ではないかという指摘だ。イエスもこう祈っているではないか。
(イエスは)少し先に進んでうつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この盃(十字架)を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに」
(マタイによる福音書 26:39 聖書協会共同訳)
イエスは、十字架という使命についてさえも、「どうか去らせてください」と祈った。興味深い。しかし、最後には「私の望むようにではなく、御心(神の計画)の通りになるように」と祈ったのである。
私たちは、このイエスの姿勢に学ぶべきではないか。ましてや、私たちが祈る天気のことなど、十字架に比べたら100億倍も小さなこと。「天気がよくなるように」と祈ってもいいかもしれない。だけれども、結果はどうあろうと、神に感謝して生きることが大切なのだ。決して、「神様、なんで雨なんだよ!」とキレてはいけない。そもそも、バーベキューをやる前に天気予報が出ていたのだから、新入生の気持ちを考えたら、屋内に切り替えたほうが賢かった。例の先輩は、自分のプランに拘るあまり、皆をドン引きさせる結果となってしまったのだ。
結局のところ、「心の動機」が全てである。あなたが天気について祈るのは、どのようなモチベーションなのだろうか。「自分の信仰を宣言したまで」と言う人もいるが、本当にそう思っているのだとしたら、ちょっとその信仰は自己中心的かもしれない。聖書がいっているのは、私たちがどのような状況でも、神に従い、愛し合い、赦し合い、支え合い、神を自慢し、喜び、感謝する「生き方」なのである。晴れなら感謝しよう。雨でも感謝しよう。聖書にこう書いてある。
きょうだいたち(※イエスを信じる仲間たち※)、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主<しゅ>にあってあなたがたを導き、戒めている人々を重んじ、彼らの働きを思って、心から愛し敬いなさい。互いに平和に過ごしなさい。きょうだいたち、あなたがたに勧めます。秩序を乱す者を戒めなさい。気落ちしている者を励ましなさい。弱い者を助けなさい。すべての人に対して寛大でありなさい。誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです。霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味し、良いものを大切にしなさい。あらゆる悪から遠ざかりなさい。
(テサロニケの信徒への手紙 5:12~22 聖書協会共同訳)
(了)
◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。
◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!
※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
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Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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