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- 奴隷ではなく神の子
⇒音声を聞く(MP3, 32kbps)「奴隷ではなく神の子」秋葉正二ホセア14,5-8; きょうのテキストの冒頭3章26節には、『あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです』とあります。 もちろんパウロはこの言葉を私たちキリスト者に向けて語っているのですが、「あなた方は父なる神様との直接の交わりに入れられた神の子なのですよ」と、キリスト者の信仰者としての身分を明らかにしてくれています。 もちろん私たちが自動的に神の子とされたのではありません。 キリストがその道を備えてくださったので、私たちはこの導きを感謝と喜びをもって受けとめるべきだという勧めでしょう。 そして、具体的にそれは洗礼においてなされることが27節に示されます。 洗礼を受けてキリストに結ばれることが〈キリ
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- 悲しみは喜びに変わる
⇒「悲しみは喜びに変わる」秋葉正二イザヤ38,16-20; ヨハネ福音書は14章からイエスさまの弟子たちに対する決別説教、別れの説教を記します。 決定的な受難が迫り来る中で、イエスさまは弟子たちに牧会的配慮をもって何を語っておくべきか、愛の限りを尽くされます。 福音書記者ヨハネはそれを二段構えで記しましたが、きょうのテキストはその最後の部分です。 16章はまず聖霊の働きについて語られています。 すぐ前の15章では迫害の予告が告げられていますので、弟子たちは不安に襲われていました。 そうした中で、イエスさまは聖霊について語られたのです。 この福音書は又福音書記者ヨハネが属していた教会の状況にも深く関わっています。 教会にとって迫害は、草創期だけでなく、紀元1世紀の終わり頃になってもまだ現実のも
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- 使徒の任務を継ぐ
⇒「使徒の任務を継ぐ」秋葉正二ヨシュア記18,8-10; 先週10日の昇天日を経て、本日昇天後主日を迎えました。教会暦において、昇天日が復活祭後40日目になっているのは、使徒言行録1章3節の記述によっています。キリストの復活と昇天は一つの連続した出来事として理解されますが、二つの事が一緒になってキリストの高挙を形造っています。それは何も、昇天日に祝う神の右の座への主の高挙が、十字架の死に対する勝利の40日後まで延期されたという意味ではありません。復活の主が多くの人に何度も現れてくださったというのは、天上の永遠なる世界からの訪れであって、主の栄光の体(パウロのいう「霊の体」)はこの永遠の世界に属していたということです。 さて、天に上げられたイエスさまを見送った弟子たちは、安息日に許されている距
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- 神の霊の降臨
⇒(MP3, 32kbps)「神の霊の降臨」秋葉正二;ヨハネ福音書14,15-20 私の母教会の牧師は神学校で旧約を専攻した牧師でした。毎週「いのちのいずみ」という数ページにわたる週報を最後まで編集・発行され、私をはじめとして多くの信徒の皆さんがそこからいろいろなことを学びました。ある時、小預言書について数ヶ月間、一文書ずつその構成や内容について要領よくまとめたものを掲載してくれました。私がヨエル書について「興味しろい文書だなあ」と思った最初の出会いです。なかでも1章のいなごの飛来についての記述はとりわけ印象的でした。 1章の記事は飛来というよりは文字通りバッタの大群の来襲です。日本でもいなごの被害は昔からありますが、大陸のそれは規模が違います。エジプトやパレスチナでは一面黒雲のように空を覆
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- わたしを遣わしてください
⇒(MP3, 32kbps)「わたしを遣わしてください」秋葉正二;エフェソの信徒への手紙 1,11-14 以前にも少し触れましたが、評論家の加藤周一さんの「日本文学史序説」という著作を私は時々読み返します。 文学史という書名があるので、詩歌・小説などの歴史かと思うのですが、読むたびに私は「日本宗教史」をひもどいているという印象を持ちます。 日本という国名が登場するのは7世紀のことですから、当然それ以降の歴史を扱っているわけですが、日本という国を、またそこに住む人を「大化の改新」以後の長い歴史を通じて導いてきた歴史として眺めると、文化を含めたより大きな世界から俯瞰すれば、それはやっぱり仏教を中心とする宗教ではなかったか、と思うのです。自然神を崇拝していた古代神道にしましても、外来宗教に出会って
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- アレオパゴスの真ん中で
⇒「アレオパゴスの真ん中で」秋葉正二詩編135,15-18; 私たち信徒同士の間では「神様が共にいてくださる」というような言い方をよく使います。 そうした言い方をする時には、その人のうちにきっと「神様が私の近くにおられる」という実感があるに違いありません。 そうだとすると、そのような実感がない時もあるわけで、そういう時は多分「神様のことは忘れているか、少し遠くにおられる」という感じなのでしょう。 遠い近いというのは私たちの感覚の話で、問題は「自分が神様とどういう関係を保っているか」ということでしょう。 感覚というのは、人間にとって物事を感じ捉える心的現象ですから、神様を「近い」とか「遠い」とか表現した方がピンと来ます。 事実、聖書には人間のそうした感覚が赤裸々に記録されています。 代表は「詩
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- こどもの祝福
⇒「こどもの祝福」Y.須藤【お話の概要】イエスさまとお弟子さんたちの旅の途中、イエスさまに祝福していただくためにお母さんたちが小さな子どもを連れてきました。乳飲み子って書いてあるけれど、これはお母さんのお乳を飲んでいる子どもってことだから、あかちゃんのことです。イエスさまのお弟子さんたちは、これを見ていいました。「ちょっとちょっと、イエスさまも疲れているんだから、だめですよ。だいたい子どもなんて連れてきたってイエス様のお話もまだ分からないんだから、後ろに下がってください。」でも、それを聞いていたイエス様は、赤ちゃんを抱いたお母さんたちを「こっちにおいで」と近くに呼び寄せてから、集まった皆にお話されました。「子どもをわたしのところにつれてきなさい。ダメなんて言ってはいけないよ。だって、神様の国
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- 神は異邦人をも受け入れた
⇒(MP3, 32kbps)「神は異邦人をも受け入れた」秋葉正二イザヤ45,18-24; 使徒言行録は大きく二つに分けられます。前半12章までがペテロを中心とした伝道記録で、後半13章以下はパウロ主体の活動です。その前半ですが、9章の途中からユダヤ人への伝道活動が、異邦人への伝道活動へと切り替わっていきます。それはエルサレム教会から開始された福音が、少しずつ他の世界へと広がっていく最初の兆候でした。ペテロの伝えたキリスト教がすでに異邦人を含めた伝道へと質的な切り替えの準備に入っていたと言えます。ユダヤ人にとって異邦人と言えば、当初は宣教活動の対象になるなどとは到底考えられなかった存在です。その異邦人がいよいよ教会の伝道活動の中心になるべくスポットライトを浴びていくわけですから、使徒言行録は実
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- 救いの絆で結ばれた共同体
⇒(MP3, 32kbps)「救いの絆で結ばれた共同体」陶山義雄詩編84,2-13; 教会暦で本日は「三位一体後第3主日」です。これは聖霊降臨日(今年は5月20日)の翌週(同5月27日)が三位一体祭であり、それに続いて6月3日、6月10日と日曜ごとに数を重ねて、今日が「第3の聖日」であることを意味しています。聖日の番号付けは、11月4日の「三位一体後」は「第23主日」まで続きます。三位一体を数える聖日が24週あり、一年のうち半数近くが三位一体主日に数えられています。これ程長く続くので、他の祝祭行事に比べて期待感や緊張感も希薄になっているかもしれません。しかし、教会が三位一体の教説を軽視していた訳ではありません。 私たちは祈りの度ごとに「主イエス・キリストの父なる神」への呼びかけと、祈りが受け
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- ファリサイ派とヘロデのパン種
⇒(MP3, 32kbps)「ファリサイ派とヘロデのパン種」秋葉正二ホセア 7,3-7; マルコ福音書にはイエスさまが群衆にパンを与えたという記事が二度出てきます。第一回目は、6章の五つのパンで5千人を養われたという出来事。第二回目は8章で、4千人に食を与えられました。このパンの奇跡の記事については、聖書いわゆるに歴史的批評的研究が取り入れられて以来、いろいろな見解が出されてきました。たとえば、著者マルコが不注意でパンの奇跡伝承を入れてしまったとか、記事は重複していて本来は一つの出来事だった、とかなどです。歴史的批評的研究は私たちが盲信に陥らないためにはぜひとも必要な研究方法ですが、歴史的事実を正確に捉えようとするあまり、記事そのものを解体・分析し過ぎて、結果的に過去の出来事の真相がつかめな
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- 復讐を拒むダビデ
⇒(MP3, 32kbps)「復讐を拒むダビデ」秋葉正二; 宗教部族連合という表現をお聞きになったことがあると思います。王国になる前のイスラエルはカナンの地に入植して後、それぞれの部族が独立しつつ、血縁意識や共通の歴史認識、共通の神ヤハウェへの信仰などによって、連帯していました。とりわけ信仰的共同体意識は強かったと見られています。 民数記を読むとイスラエルの部族の成り立ちがよく分かります。それぞれの部族名は、族長ヤコブの12人の子たちの名前に由来しています。つまり12部族で連携を取りながらカナンの地でまとまっていったのがイスラエル民族でした。政治的には彼らが王制を導入した紀元前千年に、大きな転機を迎えています。後にパレスチナ(ペリシテに由来する名称)と呼ばれるようになるカナンの地には、すでに
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- あなたがたは地の塩である
⇒音声を聞く(MP3, 32kbps)「あなたがたは地の塩である」秋葉正二レビ記2,13; きょうは 『あなたがたは地の塩である』 という有名なひとくさりをとりあげました。 そこに出てくるのは塩です。 塩が人間や動物たちの身体にとって重要なものであることは言うまでもありません。 そのことは紀元前の古代の人たちもよく理解しておりました。 旧約聖書にも塩に関する様々な記事が残されています。 旧約の世界で目立つ塩の記事は、神様への供え物の添加物として出てきていることです。 供え物のみならず、料理全般の添加物として腐敗防止に不可欠でした。 それほど価値ある物質ですから、当然商品としても流通しています。 また旧約には、「塩の契約」とか「ある人の塩を食べる」というような表現も出てきまして、そういう言い方
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- 寄留者、孤児、寡婦の権利
⇒「寄留者、孤児、寡婦の権利」秋葉正二; 私たちが生きる現代社会は複数の価値観や宗教を奉じる人たちが共存しています。日本で暮らす外国人は256万人、出身国数は195カ国に上り、これは国連加盟国数とほぼ同じです。自分のすぐ隣りに外国人を見ないとしても、実際にはいろいろな民族的・文化的背景を持った人たちが日常的に入り混じって生活をしているということです。価値観、宗教、生活習慣において間違いなく「多元化」は進んでいます。 20世紀末からグローバル化という言葉が社会のキーワードになりました。経済システムは世界規模で拡大してしまいましたし、インターネットは情報レベルで世界を一つにしています。その結果、民族や国家を超えて考えなくてはならない課題がたくさん出てきました。今米国と中国の間に貿易戦争が始まるの
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- 目標を目指して
⇒「目標を目指して」秋葉正二 「フィリピの信徒への手紙」から学びます。フィリピはマケドニアにあるローマ帝国の植民都市です。かつてパウロはアジア州で幻を見た際、一人のマケドニア人が 「私たちを助けてください」 と懇願したことを受けて、初めてエーゲ海を渡ってヨーロッパに上陸し、最初に訪れたのがフィリピでした。そこでリディアという信仰深い女性の洗礼をきっかけにフィリピの教会が誕生しました。占いの霊に取り憑かれた女性から悪霊を追い出したり、挙句の果てには投獄されたりと、ハプニングも起こりましたが、ここからフィリピ教会の歴史が始まります。 使徒言行録16章9節以下にその辺りの顛末が書かれています。フィリピの教会は、以後、パウロと親密な関係を維持し、折にふれてパウロの宣教活動を支援しましたが、パウロも信
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- 神の国での価値の逆転
⇒(MP3, 32kbps)「神の国での価値の逆転」秋葉正二申命記14,22-29; ユダヤ人が選民意識をもっていたことはよく知られています。とりわけ指導層であり、律法の教師であるファリサイ派の人々は「選ばれた者」という意識が強かったと見られています。彼らは律法を守るという宗教的規範に従うことに熱心でした。現代から見れば、いわゆるマジメ人間で、どう見ても劇場や演技場に出かけるというようなタイプではなかったでしょう。もし演劇大好きなどという人がいれば、彼らはその人を軽蔑したにちがいありません。とにかくそのようなタイプのファリサイ派の人が神殿に詣でると、どんなお祈りをするかを、イエスさまは徴税人という対照的なタイプを並べて再現してみせました。彼らの姿がよりくっきりと浮かび上がるようにということで
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- 軍事力によらない平和
⇒(MP3, 32kbps)「軍事力によらない平和」秋葉正二;ルカ6,27-29 古代イスラエルの預言者たちの目指した平和は、基本的にはイスラエルを中心とした平和秩序です。それゆえ、その基にあるのは排他的民族主義と言えます。ところが興味深いことに、彼らの中にその排他性をひっくり返すような預言をする者が現われました。それがイザヤであり、エレミヤであり、アモスやホセアといった人たちです。 彼らは必要があれば、容赦なく自分の国を批判しました。民族的な感情から、敵対する近隣諸国を批判するのならその理由ははっきりしていますが、彼らは自分の国を厳しい言葉で批判したのです。それも災いがくだされるといった激しい表現でなされました。近隣諸国に対する神の審判を告げるだけならば、イスラエルの民衆は心地よくその言葉
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- ぶどう畑の歌
⇒(MP3, 32kbps)「ぶどう畑の歌」秋葉正二;使徒言行録13,44-52 「ぶどう畑の歌」という題からは、文学作品を連想しがちです。確かにほとんどは詩の形ですし、預言者は『わたしは歌おう』と初めにありますから、この詩に触れた会衆は一緒に愛唱したことも考えられます。しかしこの歌の背景にあるのは、紀元前8世紀後半のイスラエル分立王国をめぐる政治的な状況です。それゆえ、「ぶどう畑の歌」を理解するためには、おおよそでいいのですが、どうしても時代背景を理解しておくことが必要です。 まず聖書巻末の地図1を見て、大雑把な地理を頭に入れてください。8世紀(B.C.)中頃、チグリス川上流地域を支配していたアッシリアに、ティグラト・ピレセル三世と名乗る王位簒奪者が登場します。王位を奪い取った人物ですから
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- 復活の神秘
⇒(MP3, 32kbps)「復活の神秘」秋葉正二列王紀上3,4-15; きょうのテキストは、ローズンゲンのテキストが毎年重複していますので、教団の主日聖書日課から選びました。「究極の希望」というテーマの中の一つのペリコーペです。もう一つの選択理由は、昨年来私たちの群れは次々と四人の兄弟姉妹を天に送ったことです。親しい主にある兄弟姉妹方の死を前に、もう一度しっかり死を乗り越える信仰を学びたいと思いました。「コリントの信徒への手紙一」15章はパウロが復活について論じた箇所で、一種の神学論文のような印象を受けます。しかし手紙ですから、コリント教会の人たちに想いを馳せながら、復活について伝えたいことを気概を込めて彼は書き送ったのでした。 パウロは「キリストの復活」から説き起こして「死者の復活」につ
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- サマリアとガリラヤの間で
⇒(MP3, 32kbps)「サマリアとガリラヤの間で」秋葉正二列王記下5,9-12; 初めに、きょうのテキストの小見出しを含め、12節,14節にある「重い皮膚病」という表記について確認をしておきます。共観福音書中の20カ所近いこの表記が、1996年の「らい予防法」が廃止されるまで、「らい病」となっていました。聖書の該当箇所の変更要請がいくつかの教会や教区総会で決議され、それを受けて共同訳聖書委員会は変更を決定しました。私はハンセン病国立療養所の教会で毎月の金曜集会の説教を担当していましたので、そのことを鮮明に覚えています。私の聖書は1989年版でしたので、当該箇所に赤線を引いて、すべて訂正しました。国立療養所沖縄愛楽園々長であられた犀川一夫先生は、聖書の「らい病」について、好著を出されてい
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- わたしを遣わしたのは神です
⇒(MP3, 32kbps)「わたしを遣わしたのは神です」秋葉正二;マタイ福音書18,21-35 ヨセフ物語から学びます。ヨセフはエジプトを舞台に活躍しますが、そのことはイスラエル民族に決定的な意味を与えた「出エジプト」という出来事の前提になっています。つまりヨセフ物語に出てくるいろいろな場面が、聖書の信仰の基本問題に触れているのです。 伝記的要素が詳細を究めていて、劇的な環境の変化とか、少年時代の欠点を乗り越えていく様子とか、話題に事欠きません。背景としてもエジプトの文化生活とイスラエルの遊牧生活の対比とかがサラッと描かれていて、興味が尽きません。アブラハム・イサク・ヤコブ物語が祭儀や聖所にまつわる伝承の組み合わせであるのに対して、ヨセフに関しては彼一人を中心とした壮大な文学作品です。 彼

- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
