奴隷ではなく神の子

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「奴隷ではなく神の子」

秋葉正二
ホセア14,5-8;

 きょうのテキストの冒頭3章26節には、『あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです』とあります。 もちろんパウロはこの言葉を私たちキリスト者に向けて語っているのですが、「あなた方は父なる神様との直接の交わりに入れられた神の子なのですよ」と、キリスト者の信仰者としての身分を明らかにしてくれています。

 もちろん私たちが自動的に神の子とされたのではありません。 キリストがその道を備えてくださったので、私たちはこの導きを感謝と喜びをもって受けとめるべきだという勧めでしょう。 そして、具体的にそれは洗礼においてなされることが27節に示されます。 洗礼を受けてキリストに結ばれることが〈キリストを着る〉と表現されています。 「着る」というのはもちろん喩えですが、洗礼を受けることは、キリストを着ることなのだという説明です。

 パウロが洗礼について語るのはここだけではありません。コンコルダンスを引きますと、ロマ書にもコリント前書にもエフェソ書にもコロサイ書にも引用されています。 とりわけロマ書の6章3節以下は有名な箇所です。 そこにはこうあります。 『それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです』。

 私たちが洗礼を受けるということは、「キリストの死にあずかる」ことだとパウロは言うのです。 キリストの死にあずかると言えば「十字架」です。 つまり、キリストが私たち人間の身代わりとなって死んでくださったことをあなたはしっかり受けとめていますか? とパウロは私たちに問うているのです。 こうした信仰的内容をパウロは「キリストを着る」と表現しました。

 イエス・キリストは、神様との交わりを洗礼を通して与えてくださいました。 イエス様はご自身が伝えられた福音全体を、洗礼によって示されたとも言えます。 私たちキリスト者はこの真理を、信仰において見出すことができるのです。 私たちはいろいろなことを通して自分の弱さや欠点に気づきますが、そうした不完全さにも拘らず、キリストを着ることによって、イエス・キリストの証人となることができることをパウロは教えてくれています。

 しかし、「キリストを着る」ことはただキリストに倣うとか、キリストのように行動するとかということではなく、キリストにあって新たに生まれ変わることを意味します。 ですからこれまた喩えて言えば、キリストを着るというときに着るキリストの衣とは、特別な時にだけ身に着ける礼服のような衣ではなくて、普段からいつも身に着けている普段着と考えた方がいいように思います。 キリストを着たまま私たちキリスト者は日常の生活をするわけです。

 イエス・キリストの教会という視点から捉えれば、キリストに合う洗礼を受けて、同じキリストを着る」ことによって教会は一つになるということでしょう。 しかもパウロは、その際には、『もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません』と、28節で述べます。 キリストを着た者においては、人種や民族といった違いや、奴隷や自由人といった社会的身分や地位の差別はすでに乗り越えられている、というのが彼の主張です。

 私たちは旧約聖書において、十戒に見られるように妻が夫の所有物であったり、異邦人がイスラエルでは宗教的・社会的差別に晒されていたりといった世界が描かれていることを知っていますが、パウロはイエスさまに出会って、すっかり人生観を変えられてしまったのです。 『もはや……男も女もありません』という言葉は、性による差別を止揚するかのような宣言ですが、基本的に洗礼を受けた者の集まりである教会にあっては、創世記の1章にあるような創造の秩序として設けられた男女の区別をも超えて、男と女がキリスト・イエスにおいて完全に自由だと述べているのです。

 これは女が男のようになる「平等」ではなくて、男女間の区別の目印となる「男らしさ」「女らしさ」が共に廃棄されるという主張でもありますから、この宣言は当時の世界を考えれば驚くべきことです。 もっとも1世紀の教会には、女性の活動を制限するような記事もありますし、12使徒のように男性限定の傾向もあったわけですから、教会世界の中ではまだまだいろいろな考え方がせめぎあっていたことも確かでしょう。

 現代の私たちにしても、紀元1世紀にパウロが主張した「キリストを着て生きる世界」を実現しているかと言えば、決してそうではないことが分かります。 例えば、私たちの日本基督教団の教会世界を眺め回しただけでも、差別が克服されていないことはすぐ分かります。 教団総会に出れば圧倒的に男性議員が多く、教師たるやほとんどが男性で占められています。 そこでなされる議論や決議は男性たちによって決められていきます。 教会員の7割が女性だなどとも言われますが、そこで選ばれる役員や、支区や教区の議員は圧倒的に男性です。

 つまりパウロの時代の教会が抱えていた問題を、現代の私たちはまだ解決し切れていないということです。 だからこそ私たちは聖書を読み続ける必要があります。 ご存知のように、パウロにとって最も大きな問題は「律法による義か信仰による義か」ということでした。 このことから考えれば、パウロの第一の関心事は「ユダヤ人もギリシャ人もなく」という点だったでしょう。 なぜなら、初期のキリスト教においては、まだまだ律法遵守の有無によってユダヤ人とギリシャ人に代表される異邦人との差別化が進められていたからです。 それと並んで「男と女」あるいは「奴隷と自由人」の差別があったわけです。ですから、当時の古代オリエント世界でそうした差別を否定したということは、私はある種の社会革命、宗教改革であったと思っています。

 このことは2世紀3世紀と時代が進み、思想が展開していく過程におい実に大きな役割を果たしたのではないでしょうか。 とにかくパウロにおいて「義とされる」「救われる」というような神様と人間との関わり合いに関する一切のことは、イエス・キリストに集束していきますから、そこからも彼が「キリストを着る」と表現した意味合いが分かる気がします。

 29節には、『あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です』とあるのですが、これは「キリストのもの」つまり「キリストの所属」に関係する言い方です。 「約束による」というのは「律法による」ということの反対概念で、割礼を受けなければ相続人にはなり得ないと主張したユダヤ化主義者に対するパウロの反論姿勢が現れています。 そしてこの言い方を受けて、4章初めの部分に、パウロはヘレニズム世界の法習慣を喩えとして持ち出します。 1節2節の喩えでは、キリスト者の置かれていた状況にあてはめて、『未成年である間は』といった表現が用いられています。

 直接の比喩は財産の相続に関しての事柄で、注意して読み進むといろいろな矛盾も見えてきます。 しかしその点はそんなに神経質になる必要はないと思います。 喩えですから。 パウロの喩えによる説明は、私たちがイエス・キリストのお陰で信仰を得たことによって、「律法」という「後見人・管理人」の支配から解放され「神の子」とされたという生き方の転換を、定められた時期になって初めて一人前の相続人として認められるという相続人の環境変化になぞらえていることです。 ですから相続を得る時期というのは、私たちがある時、相続という信仰を与えられるという意味です。

 3節の終わりにある『世を支配する諸霊』という言葉が気になったのですが、この世を支配する悪魔的勢力の総称でしょう。 人間の運命を左右すると信じられていた霊的存在です。 人間はこうした霊力を怖れて、儀式を行い、タブーを定め、特別な日を守ったりして悪霊をなだめようと奴隷のようにその支配に服しやすい存在です。 現代の私たちにしても、科学的知識の進歩によってこうした悪霊に関わる呪術から解放されて合理的に生きていると思っていますけれども、実は今なお七曜などの大安とか友引に左右されて結婚式や葬式の日取りを左右されたりしていますし、今なお新宿でも下北沢でも占い者が小さな机と椅子を出せば、客足は絶えません。

 つまり現代人は呪術から解放されていないのです。 パウロがこうした風景を見たらさぞや嘆くにちがいありません。 パウロの時代に、自分たちは神の選民として律法を与えられたと誇っていたユダヤ主義者と、今現在七曜のような風習を宗教の初歩的段階だとか、原始的なものだとか馬鹿にしつつも抜け出せないでいる現代人は左程違わないのかもしれません。 こうした状況の対極にあるものとして私たちに示されているのが、『アッバ、父よ』と叫ぶイエス・キリストの霊を私たちが心に送られているという信仰の事実です。 イエスさまによってどんなにか私たちは主なる神様に近くことができたか、と今更ながらに思いました。 十字架の主、復活の主から目を逸らさずにしっかり生きていきたいと心から思います。 祈りましょう。


 
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