使徒の任務を継ぐ

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「使徒の任務を継ぐ」

秋葉正二
ヨシュア記18,8-10;

 先週10日の昇天日を経て、本日昇天後主日を迎えました。教会暦において、昇天日が復活祭後40日目になっているのは、使徒言行録1章3節の記述によっています。キリストの復活と昇天は一つの連続した出来事として理解されますが、二つの事が一緒になってキリストの高挙を形造っています。それは何も、昇天日に祝う神の右の座への主の高挙が、十字架の死に対する勝利の40日後まで延期されたという意味ではありません。復活の主が多くの人に何度も現れてくださったというのは、天上の永遠なる世界からの訪れであって、主の栄光の体(パウロのいう「霊の体」)はこの永遠の世界に属していたということです。

 さて、天に上げられたイエスさまを見送った弟子たちは、安息日に許されている距離の所にあるオリブ山からエルサレムに帰りました。そんな距離があるのかと思われる方もおられると思いますが、ユダヤ人は「七日目は主の安息日なので、何のわざもしてはならない」という十戒の一つを守るために、安息日に行なってはならない39ヶ条項を作っていました。その一つに、安息日には二千アンマ(約900m)以上歩いてはならないという規則があったのです。もともとは民数記の35章5節などを参考にしたものですが、規則に縛られた人間の姿の特徴を表しています。

 とにかく弟子たちはそんなわけでエルサレムに戻り、泊まっていた家の上の部屋に上がりました。そこは最後の晩餐が行われた部屋であったろうとも推測される場所です。そして13節には、イスカリオテのユダを除いた使徒名簿が載っています。ルカ6章の使徒名簿と同じメンバーです。ところが使徒名簿は意外と厄介で、マルコやマタイの使徒名簿とルカのそれは一部異なるのです。ここでは最後にヤコブの子ユダとありますが、マタイやマルコではタダイが挙げられています。バルトロマイという人物についてもほとんど分かりませんし、熱心党のシモンが本当に熱心党員であったのかどうか、熱心党の成立年代も絡んで、確定できないのです。

 ともあれ、弟子たちは上の部屋でイエスさまの母マリアをはじめとする女性たちと一緒に『心を合わせて熱心に祈っていた』(14節)のでした。弟子たちは、『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける』(8節)と言われたイエスさまの言葉を忘れてはいなかったと思いますが、イエスさまの昇天後、何をしたらよいか分からなかったのでしょう。けれども彼らにも分かっていたことが一つだけありました。「心を合わせて、ひたすら祈ること」です。著者ルカはこのことを一番大事なこととして記述しています。そのように祈ることから具体的な第一歩がスタートするということを、教会はこの時から学んだのです。

 今はだいぶすたれてしまいましたが、ひと昔前までは教会は「祈祷会」を礼拝に続く大切な時として位置付けてきました。早天祈祷会も結構盛んでした。もちろんただ習慣的に守ればよいというものではなく、どのように守るかが大事です。「心を合わせて、ひたすら祈る」、これをおろそかにすると教会は力を失っていきます。心を合わせ、ひたすら祈っていると、次に踏み出すべき一歩が必ず与えられる……これが信仰生活です。どう進めばいいのか分からなくなった時、私たちは祈りに集中すべきです。現代の教会は祈りに対して、一応伝統を踏まえて前を向きながらも、実は後ろに下がりつつあるのではないかという気がします。韓国の牧師が興味深いことを言っておりました。戦後、韓国の教会は右肩上がりに成長してきたけれども、最近はどうも足踏みしていると言うのです。その証拠に早天祈祷会を守る教会が減ってきているとのことでした。ひと昔前ならば、サラリーマンは出勤前に教会に集まり、朝の祈りを捧げ、簡単な朝食を共にして出勤していくことも珍しくなかったけれども、それもほとんどなくなりかけているそうなのです。私の中には韓国キリスト者の熱心な信仰の姿がイメージされてきたので、ちょっとショックでした。

 どうも時代の流れは祈ることに対して後ろ向きのようです。それではいけないということを、弟子たち、女性たちがイエスさまの昇天後一つ所で祈りを合わせたという記事で、私たちが次のみ旨に適った一歩を踏み出すための大切なヒントを提供してくれていると思いました。15節からはペトロの発言が出てきます。イエスさまに従ったのは12弟子ばかりではなく、120名ばかりが一段となって集まっていたことも書かれています。その人たちもまたこれから何をすべきかを考えていたに違いありません。使徒言行録が伝える信徒数は、この120人が、2章41節で3千人、4章4節で5千人と増えていき、なんと21章20節では幾万人ものユダヤ人が信徒になった、とあります。教会が次々と誕生していく時代の勢いを感じます。

 22節まではペトロの力強い厳かな感じのする説教とも呼ぶべき発言が記されます。ペテロの発言は、上の部屋に集まっていた弟子たちに一つの進むべき方向が示されたことを表しています。ペトロが語ったことは、イスカリオテのユダに関することでした。ユダが裏切ったので一名の欠員が生じてしまい、それを補う必要があるという指摘です。このことが自分たちのなすべき第1番のことだという主張です。ペトロの発言を読んでいると、「ああ、ペトロのリーダーとしての第一歩がここにある」と思いました。彼がでしゃばったというのではなく、祈りの後、自然にそう導かれたと見るべきでしょう。ペトロはユダが裏切った後の顛末を語っています。ユダは裏切りによって得たお金である土地を買ったけれども、その場所で地面に真っ逆さまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみなでてしまった、というのです。

 何とも凄惨な光景なのですが、この描写は悪人などの悲惨な死を描く一つの文学的表現だとも言われています。マタイ福音書ではユダは首をくくって自殺していますから、いくつかの伝承があったのかもしれません。ペトロは旧約聖書を引用しながら使徒職の重要性について語っていきます。詩編を引用しながら(69編25節、109編9節)、ユダの死に様に示されるような悲惨な事件が実は預言されていたと語るのです。

 この引用は、マソラ本文(ほんもん)からではなくギリシャ語に訳された「70人訳」からの引用です。この引用から示されることは、人間がいろいろ頭で考えても分からないことでも、神さまには一貫した計画があるということです。ユダが裏切ろうとどうしようと、イエスさまが12弟子を選ばれたのだから、今自分たちのなすべきことはその欠員を補うことであると、ペトロは心に定めたのです。私たちも何かことをなす場合には、聖書のみ言葉に照らして事柄を顧みることが大切だと思います。21,22節には使徒の条件についてが述べられていますが、これを直接パウロが語った使徒の条件と比較しても始まらないと思います。パウロの主張した使徒の条件は「主の復活の証人」ということでしたが、パウロはそもそも12弟子ではありませんし、時代も状況も少しずれています。

 そして23節以下の欠員補充の方法には、なかなか興味を引かれます。くじ引きです。くじ引きなんて随分いい加減だな、と感じられる方もおられるかもしれません。しかしそれは違います。その理由の第一は、ペトロはクジを引く前に、『すべての人の心をご存知である主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください』としっかり祈っていることです。クジを引くことは当時の常識であったにしても、諸条件を勘案し、祈り、決断していくプロセスをしっかり踏むことは私たち現代のキリスト者にとっても大きな参考になります。

 ある事を決定する際、その上に神さまのみ心が現れていくか否かの分かれ目は、やはり祈りであることを教えられます。ペトロがその日、上の部屋でとった行動には、しっかり祈るという信仰の目が備わっていたことがよく理解できます。信仰者が日常の具体的問題を決定していく場合の模範が、このテキストにはよく示されています。ペトロから現代の私たちは信仰生活を送る上での大切なことを、間違いなく教えられています。  祈りましょう。


 
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