神の国での価値の逆転

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「神の国での価値の逆転」

秋葉正二
申命記14,22-29;

 ユダヤ人が選民意識をもっていたことはよく知られています。とりわけ指導層であり、律法の教師であるファリサイ派の人々は「選ばれた者」という意識が強かったと見られています。彼らは律法を守るという宗教的規範に従うことに熱心でした。現代から見れば、いわゆるマジメ人間で、どう見ても劇場や演技場に出かけるというようなタイプではなかったでしょう。もし演劇大好きなどという人がいれば、彼らはその人を軽蔑したにちがいありません。とにかくそのようなタイプのファリサイ派の人が神殿に詣でると、どんなお祈りをするかを、イエスさまは徴税人という対照的なタイプを並べて再現してみせました。彼らの姿がよりくっきりと浮かび上がるようにということでしょう。もっとも、日々の生活維持に奔走しなければならなかった忙しい庶民にすれば、ファリサイ派のように、律法を厳格に守ることはかなり困難だったはずですし、神殿詣でも熱心ではなかったと思われます。

 さて、9節には 『自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々』 という表現がありますが、これはファリサイ派の人たちに限らないでしょう。ファリサイ派でなくてもそういう人はたくさん存在するわけですから、イエスさまはあえてファリサイ派と最初から名指しして、いろいろな人たちを十把一絡げにするのを避けられたのかも知れません。「自分を正しい」と認識するのは無意識でそう思い込んでいるということでしょうから、私たちだってその一人かもしれません。

 「他人を見下す」ことにしても、いつの間にか見下す結果になっている、というのがほとんどで、この人を見下そうと最初から意気込んでいるわけではないはずです。人間というのは、いつの間にか無意識のうちにそのように思い込んでしまっている、という厄介な存在でもあります。ただ、弟子たちに大切なことを教え悟らせようとしているイエスさまにすれば、ファリサイ人を反面教師として持ち出せば、教えたいことは具体的になり、より分かりやすくなります。そこでイエスさまはファリサイ人と徴税人を対照的な一例として持ち出されました。

 まず、この両者が神殿に上って祈る様子が語られます。神殿で立ちながら祈ることは普通ですが、まずファリサイ人の立って祈る様子が最初に語られます。その描写は一見堂々と祈る姿として捉えられており、祈りの内容も当時としては当たり前のものであったのかもしれません。ファリサイ派の祈りについては、『心の中でこのように祈った』 と11節に前書きがあります。「心の中で祈る」とは、自分自身に向かって祈っていることをほのめかしています。それを裏付けるように、続く祈りでは一人称単数の動詞が使われています。『神様、わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、またこの徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』。これがファリサイ派の祈りですが、何かこう傲岸不遜さを著者ルカが意図的に強調しているようにも思えます。

 まァ、それはともかく、祈りの中に〈不正な者〉という言い方が出てきます。これは特に人をだます者という意味で、徴税人は一般的にそう見られていました。ちょっとごまかして、多めに徴収するような行為をしていたからです。徴税人という他者を意識して祈っているわけで、これは神様の方を向いて神様への信頼に立って祈っているというよりは、立っているのは自分自身の信仰生活への信頼ということになるでしょう。神様との一対一の真剣な向かい合いではないのです。

 さらにファリサイ派は、ただ単に律法を守っているだけではなく、自分たちは積極的に善行も積んでいる、と強調しています。それが、「週に二度断食」し、「全収入の十分の一」を献げるという行為です。レビ記や申命記を見ると、断食も献げ物も律法に規定されていることは確かですが、週二回とか全収入の十分の一というのはいささか大げさです。レビ記の断食規定は年一回ですし(レビ記16,29)、申命記の十分の一税(申命記14,22-23)も収入のすべてに対してではありません。 ファリサイ派のように、律法を厳格に守ろうという方向性を打ち出していくと、だんだんと自分で自分の首を絞めるような結果に追いやられるものです。年一回の規定が週二回になり、十分の一規定が全収入に対して課せられたり、といった具合になるわけです。

 過度に厳しく規定された規則を完全に守りきることのできる人など一人もいません。パウロはイエスさまの大きな愛の中で律法主義のもつそうした点に気づいたわけですし、イエスご自身も、事あるごとにそのことを指摘されました。もちろん私たちは、このファリサイ人の祈りが、十戒に基づいていることはよく理解できます。十戒でも、「姦淫するな」「盗むな」「偽証するな」という3項目は、もっとも印象的で中心的なものです。ファリサイ派の祈りの中に、彼らの平生の品行方正な生活振りを垣間見ることができることも確かです。

 ファリサイ派の祈りを現代流に言い直せば、こんな風になるのではないでしょうか。「神様、わたしを世の人の中から選んでくださったことを感謝します。人よりも多く礼拝に出席し、人よりも多く献金し、その上多くの奉仕まですることができ感謝です……」。しかし何かの事情でこうした生活が一度崩壊すると、たちまち「教会の敷居は高くなり」、「牧師や教会の人たちに会わす顔がない」と言って信仰生活から脱落していきます。牧師を長年しておりますと、こうした人たちを沢山見ることになります。一度教会生活から脱落した人を教会に戻すことは、新しい人を迎えるよりも困難かもしれません。もともと信仰生活に熱心であり、親しく交わり、良い行いもたくさんしてきた人たちですから、牧師としては本当に悲しく辛いことです。

 さて、13節以下に記されているもう一方の人、徴税人の姿を見てみましょう。徴税人は 『遠くに立って、目を天に上げようともせず……』、祈りの手を上げることはおろか、自分の喪の印のように、『胸を打ちながら』 祈ることもできていません。彼が口にしたのは、『神様、罪人のわたしを憐れんでください』 という一言だけです。徴税人には自分以外の何者も目に入っていないようです。彼にとってどのように祈るかはまったく問題ではないようです。神様の前に一人立たされて孤立している自分に絶望しています。常識的に考えても徴税人の前途は絶望的です。もう徴税人なんて嫌だ、と言っても簡単に転職などできないでしょうし、徴税額をごまかしていたのなら弁償はどうするのだ、となります。

 実はこの後の19章で、CSの説教などでもお馴染みの「徴税人ザアカイ」の話が出て来ます。ザアカイはイエスさまと出会って新しい生き方を示され、「財産の半分を貧しい人に施し」、「だれかから何かだまし取っていたなら、それを四倍にして返します」と立ち直っていくのですが、きょうのテキストの徴税人はそう簡単には行きそうもありません。でも彼は 『神様、罪人のわたしを憐れんでください』 と必死です。ファリサイ派の祈りはモノローグのような印象ですが、徴税人はあえて言えば、神様と一対一の終末的対面をしています。イエスさまはそこに祈りの本質があることを弟子たちに教えようとされたのではないでしょうか。

 私はこのテキストを読んでいて、「金持ちとラザロの譬え話」(16,19-31)を思い出しました。それは、私たちのこの世での結論が神様の国では逆転してしますからです。きょうのテキストの直前の記事17章20節以下には〈神の国が来る〉という記事があります。これは終末論的に切迫している審判の話です。イエスさまは14節で、わざわざ 『言っておくが(レゴー ヒューミン = I tell you)……』 と、メシアだけが口にすることができるのだよ、と匂わすような言い方で、結論を下されています。

 18章8節の言い方もそうです。結論は、『義とされて家に帰ったのは、この人(徴税人)であって、あのファリサイ派の人ではない』 です。この世では立派だと評価されている人と蔑まれている人の位置が逆転して、神様の判断ではどんでん返しされています。イエス・キリストだけが口にできる神様の判断がはっきり示されています。14節の終わりにある 『だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる』 という言葉は、表面的に理解すれば、高慢という悪徳と謙遜という美徳、すなわち道徳的な価値の逆転ということになりますが、決してそうではないと思います。ここで言われているのは神様の秘儀に属することなのです。人間は誰でも自分が中心ですから、神様を意識するときも神様は当然自分のように判断してくれる、と思いがちなのですが、それは違うということです。

 この世とあの世ではどんでん返しが起こります。なぜどんでん返しが起こるのかと言えば、その理由は人間には分からないのです。神様の秘儀だからです。人間は神様の判断に異議を唱えて、神様の世界に土足で踏み込んではなりません。イエスさまが 『言っておくが……』 と言われた時、私たちは四の五の言わずに受けとめなくてはならないのです。イエスさまは愛情をもってこのことを弟子たちに伝えようとされました。そしてその言葉は、私たちにも向けられています。『言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる』。祈ります。


 
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