わたしも赦します

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「わたしも赦します」

秋葉正二
イザヤ書53,5-6;

 罪と罰といえば、それは法の原則です。 教会の中にもその考え方は適用されるようになり、今ではどの教団にも様々な懲戒規定があります。 きょうのテキストでも、6節の記述から、コリント教会にはパウロを苦しませた人がいたことが窺えます。 「その人」と書かれているだけですが、一体どこで何をしたのでしょうか? コリント教会にはいろいろな厄介事が起こっていますから、そのような人物が出たとしてもそんなに驚かないのですが、パウロは「その人」のことを、この手紙で今またあらためて糾弾しようとしているわけではなさそうです。

 

 すぐ前の5節の記述から判断すると、パウロは自分が悲しんだだけではなく、「その人」はコリント教会の人々をも「ある程度悲しませた」と考えています。 その上で、『多数の者から受けたあの罰で十分です』 と述べていますから、「その人」は何らかの制裁を既に受けたのでしょう。 たとえ一人であっても、罪を犯す人がいれば、場合によっては大きな影響が教会全体に及びます。 パウロはコリント教会に対して指導的な立場にあるので、自分自身でも責任を感じていたのだと思います。

 

 まだ牧師とか長老とか監督とか、そうした制度のない時代ですが、きょうのテキストを読んでいると「パウロは牧師の先駆けだなあ」という印象を受けました。 私たちはこのテキストを、コリント教会に起こった事件を第三者の目から眺める、というつもりで読んではならないでしょう。 どの教会でも、どんな時代でも、いつでも突発的に事件は起こり得ます。

 

 問題は事が起こった際の事後処理にあります。 どんな教会でも、誰かが罪を犯す可能性は常にあり、そうした時にはある種の裁きを実行しなければなりません。 牧師や役員会がそれを行い、会衆派の教会ならば教会員全体がそれを行わなくてはならなくなる場合も生じます。 とにかく、きちんと事後処理をやっておかないと、事態は悪化する場合が少なくありません。

 

 パウロの考えは、テキストのすぐ後の11節で 『サタンにつけ込まれないためです』 と述べている通りでしょう。 このことに彼は全力を傾注しなければなりませんでした。 サタンが入り込む前に、7節にあるように、『赦して、力づける』 ことが必要です。 「力づける」と訳されている語は、本来は「慰める」という意味で、「赦す」という語とワンセットでよく使われます。 この「赦す」ですが、皆さまもよく使われるカリスマと同根のカリス(恵み)からきている語で、パウロは10節でもこの言葉を連発して使っています。 「恵み」は神さまから頂くものですから、パウロがこの語を使うのは、いわば神さまから頂いた使徒権を持って赦しを行使していることを意味していると考えられます。

 

 そうして、この赦しにはアガペーの愛をもって対応するようにと、8節で勧めます。 第1の手紙の13章にある有名な「愛の讃歌」を思い出してみてください。

『愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない……』

と、よく結婚式で朗読される箇所です。 あえて言うと、きょうのテキストでパウロは、あの愛を実践へ適用していると見てもよいでしょう。 悲しみに打ちのめされて立ち上がることができなくなってしまうような仕打ちよりも、愛することによって立ち直れるようにする方をパウロは勧めるのです。

 

 批判したり、裁いたりすることは割合簡単ですが、もしそうしなければならなかったとしても、アフター・ケアとして赦し、慰め、愛することが必要になることを、パウロはよく心得ていました。 法律とは決定的に異なり、信仰に求められるのがこの点なのです。 アガペーという愛については皆さまもいろいろな箇所で学ばれてこられたと思います。

 

 フィリアともエロースとも違うこの愛の特徴は、先ほど触れた第1の手紙13章の「愛の讃歌」に謳われています。 情け深く、高ぶらず、自分の利益を求めず、不義を喜ばない愛です。 コリント教会の人たちが「その人」を赦すならば、『わたしも赦します』 とハッキリとパウロは言い切っています。

 

 考えてみれば、神さまは古い時代から赦しの神さまでした。 もちろん旧約聖書においては裁かれる厳しい神さまも顔を覗かせますが、基本的には赦しの神さまだと私は捉えています。 そうでなければ、あれほど長い時代にわたって神さまの御心を裏切り続けたイスラエルを忍耐強く導かれたはずはありません。 その神さまの一番の赦しの証拠を、私たちはイエスさまを通して示されています。

 

 ヨハネ福音書8章には有名な「姦通の女」の話が載っていますが、あの記事では姦通の女性に対して律法学者やファリサイ人たちが律法に則って「石打ちの刑」で臨もうとしたのに対して、イエスさまは 『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい』 と言われています。 このイエスさまの言葉ほど、なぜ私たち人間が罪を犯した人を許さなければならないかをハッキリ説明してくれる言葉はないと思います。 私たちが神さまから赦されているのです。 その自分の与えられた恵みを抜きに、私たちは罪人に向き合うことはできません。 きっとパウロは、イエスさまを頭として生まれた教会が、赦しの場になることを望んでいたに違いありません。

 

 そうしてそれは、サタンにつけ込まれないためにも重要なことです。 皆さまはサタンをどういう風に信じておられるでしょうか? 私は若い頃からサタンとは象徴的なものだと理解してきました。 しかしパウロはサタンの実在をどうも信じていたように思うのです。 サタンはディアボロス・悪魔と同義語ですが、どちらも新約聖書に何十回も出てきます。 神に敵対するこの存在を信じていることは、信仰上非常に大切なことではないか、と近頃は考えるようになりました。 裁くことに厳格なり過ぎて赦すことを知らないと、サタンの好餌となることをパウロはそれまでの体験から、直感的に理解していたのではないかと思うのです。

 

 楽園でアダムとエバを誘惑した狡猾な蛇のイメージに始まり、人間の心に巧妙につけいる存在として、また人間を撹乱し続ける実体として、パウロはサタンを感じていたと思います。 これはイエスさまもきっと同じです。 荒野の誘惑の中で、『退け、サタン』 とハッキリ命じられたイエスさまの声を、パウロは実感をもって心の耳で聴いていたのではないかと思います。

 

 私たちの社会には法律がありますので、私たちは普段その環境下で罪と罰を考えますが、法律の世界とは異なり、信仰の世界では罪にどのように向き合ったらよいかを、きょうのテキストは考えさせてくれます。 私は35年ほど前に初めて牧会の現場にでた頃のある出来事を思い出しました。 ある時電話がかかってきまして、「一度教会に伺ったことがある者ですが、これから逮捕されて刑務所に入ることになりそうなので、もしそうなったら刑務所に訪ねてきて一緒に聖書の勉強をして欲しい」という内容でした。 その兄弟は当時有名な代議士の秘書をされており、中央大学の法学部を出た優秀な方でした。

 

 政治家の活動にはお金がいろいろな場面でついて回るそうで、そうした活動の一つに関して彼は詐欺罪で訴えられ、おそらく有罪になるだろうと言うのです。 その時はそれで終わりましたが、半年程すると東京拘置所から一通の手紙がきました。 前に電話で話した兄弟からでした。 まだ処罰が確定していない未決囚として収監されていたのです。 生まれて初めて拘置所を訪ねました。 また来ることを約束して別れたのですが、その後間も無く彼は名古屋の刑務所に服役してしまい、訪ねる機会はなくなったと思っていたのですが、一年ほどすると八王子の医療刑務所から便りがありました。 模範囚として医療刑務所で介護などの仕事を与えられていたのです。

 

 当時教団で宗教教誨師の責任を負っておられた先生の推薦を頂き、教誨師として刑務所を訪ねることができるようになりました。 刑務所では、面会室で一緒に聖書を学び、お祈りをしましたが、その部屋に行くまでには何度も鉄格子で仕切られた出入り口を通らなければなりません。 係官がその度に、何度も鍵をかけたり閉めたりを繰り返します。 出入り口を閉めるときには「ガッチャーン」という音が響き渡り、何とも嫌なものです。 私はその兄弟を赦していましたが、裁判で下された罪状は詐欺罪でしたから、法はその罪に対して禁錮と言う罰、実刑を与えたわけです。

 

 九州の教会に赴任してからも彼からは何度か手紙が来て、出所後会社を起こして活動しているとの内容でしたので一安心しましたが、東京に戻ってから連絡を取ると、どうも仕事はうまくいっていないようで、そのうち連絡が取れなくなりました。 刑務官から聞いたことですが、詐欺犯が最も再犯率が高いということでした。 私は聖書で罪と罰の話が出てくるといつもその一件を思い出します。 人間とは弱いものだということを思わざるを得ないのです。 代議士の筆頭秘書を務めるくらい優秀な人物でも、ほんの些細なことから転落していくという事実を目の当たりにしたせいでしょうか。

 

 人間とは複雑な存在で、罪と罰という図式だけで、「その人」の問題は解決しないのです。 パウロはそれがよく分かっていて、赦しによる悔い改めに導くことこそが愛の業であることを心得ていました。 でも人間に出来ることはそこまでです。 最終的に「その人」の問題を解決するには、神さまの力が必要なのです。 だからこそパウロも祈り、涙をもって手紙をしたためたのです。 イエスさまはそのことをあの有名なルカ福音書の「放蕩息子」の話で、分かりやすく説明してくださっています。 あの父親がいなければ、放蕩息子が救われることはありませんでした。 「赦す」と訳されたギリシャ語が「カリス・神の恵み」に由来することがよく分かります。 私たちには教会を赦しの場にする責任があります。 神さまが赦してくださるお方だからです。 祈ります。


 
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