「あなたの僕の裁きにかかわらないでください。あなたのみ前にあって,生きている者はだれも義にかなう者とはなりえないからです。・・・朝にあなたの愛ある親切を聞かせてください。わたしはあなたに信頼を置いたからです。」(詩編143:2,8)
エホバはご自分の忠実な僕をお見捨てになることはありません。忠実な神の僕は、たとえ災いを経験したとしても、早計にエホバがその災いをもたらしたと、考えるべきではありません。しかし、問題となるのは、忠実な神の僕が、実際に神の律法に違反してしまった時でしょう。あるいは、以前、神について知らなかった時に、悪行に陥っていたことがある場合でしょう。
私たちは今は常日頃、神の律法に従おうと努めていても、不完全さと弱さのゆえに神の律法に違反して、性の不道徳や嘘や欺き、盗み、暴力などの悪行を行なってしまったことがあったかもしれません。そうした場合、エホバの不興を買う理由があります。私たちは自分の陥った失敗に苦しみ、深刻なうつ病で苦しむこともあるかもしれません。そのような状況にどのように対処できますか。
ダビデは、エホバ神に信仰を抱いて、常日頃、神の律法に従おうと努めていました。しかし、ダビデは、神の律法に大きく違反してしまいました。ダビデは、人妻のバテシバと姦淫を犯して、その夫ウリヤを死に追いやりました。
詩編38編は、ダビデが自分の罪とがのゆえに苦しんでいることを言い表している祈りです。ダビデは、自分の罪のために「平安はありません。」と述べました。ダビデの罪とがは、彼にとって「重い荷のように」「わたしにとって重すぎる」とダビデは述べました。ダビデは、自分の罪を悪臭をはなってうみを持った傷のように感じました。ダビデは、そのために「一日中悲しみを抱いて歩き回り」ました。ダビデは、「極度に打ちひしがれ」、「心のうめきのために、大声を上げました。」ダビデは「自分のとがを」エホバの前に「言い表わし」ました。ダビデは、「自分の罪について思い煩うようになった」のです。 (詩編38:3~8,18)
詩編143編にも、ダビデが罪を犯した後にささげた祈りがのせられているようです。ダビデは,「わたしの霊はわたしの内で衰え果て、わたしの心はわたしのうちで無感覚になります。」と述べました。ダビデは、そのように感じる理由がありました。(詩編 143:4)ダビデは、冒頭の聖句にあるように、「あなたの僕の裁きにかかわらないでください」と述べて、ダビデは、自分がエホバから裁かれる危険に直面していることを言い表しています。(詩編 143:2)
ダビデは,罪を犯したことゆえに大いに苦しみました。それは、大変つらいことだったでしょう。しかし、ダビデが自分の罪のために大いに苦しんだこと、また、ダビデが祈ることをやめなかったことは、ダビデが取り返しのつかないところまでは行っていないこと、彼が神への愛と正しい良心を持っていることを示していたでしょう。そして、それは、許されない罪を犯してはいないことを示す証拠だったでしょう。
それで、犯してしまった罪のために苦しむのは、ある程度正しいことだと言えます。罪を悔いて、深刻な憂うつに陥るとしても、それは正しい心の反応の表われだと言えるでしょう。それは、かえって許されない罪を犯してはいない証拠だとも言えるでしょう。
ダビデは、人妻のバテシバと姦淫を犯して夫のウリヤを死に追いやったために、預言者ナタンを通して、ダビデの家には災いが起こり、剣は定めのない時までもダビデの家を離れないと予告されました。(サムエル第二12:10,11)そして、その予告どおり、ダビデの息子アブサロムがダビデに反逆し自ら王になり、ダビデは命からがらエルサレムから逃げなければなりませんでした。多くのイスラエル人がアブサロムを支持しました。ダビデの親しい部下の中には、アブサロムの側に立った者たちもいたことでしょう。そのことも、ダビデの苦しみを増し加えたことでしょう。
しかし、詩編38編の中で、ダビデはエホバに対する信頼を失ってはいないことを示しています。ダビデは大きな罪を犯して、エホバから罰を受け、災いを経験しましたが、ダビデは、「エホバよ、憤りのうちにわたしを戒めないでください。また、激しい怒りのうちにわたしを正さないでください。・・・エホバよ、わたしを捨てないでください。わたしの神よ、わたしから遠く離れないでください。急いでわたしを助けに来てください。わたしの救いであるエホバよ。」と祈っています。(詩編38:1,21,22)ダビデはひたすらエホバの是認を求めました。
詩編51編にも、ダビデがバテシバと姦淫を犯した後に、「あなたのみ顔の前からわたしを捨て去らないでください。あなたの聖霊を、どうかわたしから取り去らないでください。」と祈ったことが記録されています。(詩編51:11)エホバから注がれる聖霊はエホバの是認と祝福の証拠でした。ダビデは、その聖霊が、自分から取り去られないようにエホバに祈り求めています。
ダビデはエホバから裁かれる理由を持っていました。ダビデにとって、それは苦しいことでした。それでもなお、ダビデは神の是認と、助けを願い求めました。そして、ダビデは、冒頭の聖句にあるように、「朝にあなたの愛ある親切を聞かせてください。わたしはあなたに信頼を置いたからです。」と祈っています。(詩編143:8)それで、ダビデは、エホバが愛ある親切に基づいて自分を扱ってくださるという信頼を言い表しています。それで、ダビデは、罪を犯しても祈ることをやめようとはしませんでした。それは、ダビデがエホバ神が愛ある親切の神であることを信じていたからです。
それで、ダビデは、罪のために罰を受け災いを経験しましたが、その中にあってエホバの恵みを哀願しました。そして、ダビデの祈りは聞かれました。ダビデの息子アブサロムの反逆のために、ダビデはエルサレムから逃げなければなりませんでしたが、最後にダビデは王としてエルサレムに帰ることができました。ダビデは、エホバの憐れみと助けを経験しました。
ダビデの祈りが聞かれたのはどうしてでしょうか。ダビデは神の律法に違反しましたが、ダビデは繰り返し罪を犯す人ではありませんでした。ダビデは常日頃、故意に神の律法に違反しようとするのではなく、かえって神の律法に従うように注意深くある人でした。
そして、ダビデの祈りが聞かれたのは、何よりもエホバが憐れみのある愛ある親切の神であられるからです。ダビデは常にエホバに祈り、エホバの恵みを祈り求めました。それで、ダビデは確かにエホバの愛ある親切と罪の許しを経験しました。
ダビデは、老年になって他の人々から大いに敬われて尊ばれている中で亡くなりました。ダビデは罪を犯しましたが、エホバの不興を買っているのではなく、エホバの愛ある親切と憐れみと許しを経験しているとの確信のもとに、平安を取り戻していました。
詩編51編では、ダビデは、「神への犠牲は砕かれた霊なのです。砕かれ、打ちひしがれた心を、神よ、あなたはさげすまれません。」と祈っています。(詩編51:17)それで、罪を犯してしまって、その後本心に立ち返るときには、私たちの精神の意向である霊は砕かれたように感じ、打ちひしがれてしまうかもしれません。しかし、悔い改めの証拠であるそうした苦しい憂うつな感情をエホバはさげすまれることなく、憐れみを持って見てくださる事が分かります。(ヨハネ第一 3:20)
私たちの側がエホバから離れないなら、エホバ神の側から私たちを見捨てられることはありません。神は必ず援助を与えることを約束し、「わたしは決してあなたを離れず、決してあなたを見捨てない」と述べておられます。(ヘブライ13:5)
エホバは,わたしたちの罪や失敗だけをご覧になるのではありません。情状酌量の余地がある状況や、わたしたちの生き方全体、動機や意図を考慮してくださいます。神は多くのことを考慮してくださるので、ダビデの祈りをお聞きになったように、わたしたちの真剣な祈りを思いやり深く聞き援助を差し伸べることがおできになります。
では、私たちは神の前に罪を犯してしまったら、エホバに罪を言い表しましょう。「悲しんで悔い改め」ましょう。(コリント第二 7:9~11)間違いを正すための措置を講じ、神の許しを祈り求めましょう。豊かに許してくださるエホバの憐れみに信仰を置き、罪を繰り返さないように決意して努力していきましょう。(イザヤ 55:7)そのようにして、自分に当然の理由のある深刻な憂うつにも対処していくことができます。
※神の律法に従っていても憂うつに陥ってしまった場合については、「詩編55編・憂うつを克服する」の記事をお読みください。
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Emmanuel
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