”可能性”
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、‘可能性’ということについて考えてみました。イタリアの美しい都市、ヴェニスが見渡せる高い丘の上に、天才的な老人が住んでいました。彼は尋ねられたことには何でも答えられると言われていました。ある日、この老人をだまそうと考えた少年たちが、小鳥を捕まえて彼の家に向かいました。少年の一人が小鳥を手にして、それが生きているか死んでいるかを老人に尋ねました。すると老人は、「私が、もし生きていると答えれば、君は指に力を入れて殺してしまうだろう。反対に、死んでいると言えば、君は手を広げ、鳥は飛んでいってしまうだろう。君の手の中には、生と死の力が備わっているのだ」と少年に答えました。この老人の言うように、少年の手の中の小鳥が生きるも死ぬも、それは少年次第でした。少年はスペードのエースは自分の手の中にあると思い、この天才老人をだませるという確信を持ってやって来たのですが、見事にその魂胆を見抜かれてしまいました。それどころか、この天才老人は、この愚かな少年の将来を左右する大切なメッセージを少年に伝えるのです。それは、「君の手の中には、生と死の力が備わっているのだ」というものでした。つまり、小鳥を殺すのも生かすのも少年次第であるように、少年の手の中には、小鳥という‘与えられたもの’を殺すことも生かすこともできる力があるということ。さすがに天才老人ですね。失敗の可能性も、成功の可能性も、すべて自分の手の中にある。これは、すべての人にとって真理ではないでしょうか。多くの人が、成功や幸せの条件を、与えられた能力、機会、環境、人などによると考えています。果たしてそうでしょうか。もし、そうであれば、なぜ多くの優秀な人が努力もせず、不幸な人生を送るのでしょうか。なぜ多くの人が与えられた機会を物にできず、素晴らしい人との出会いを壊してしまうのでしょうか。それは、与えられているものを使っていないか、使っても正しく使っていないからです。与えられている能力、機会、環境、人などは、いわば‘手の中の小鳥’です。この‘小鳥’が生きるか死ぬかは小鳥にかかっているのではなく、それを手にしているあなた自身にかかっています。それは、人生においても同様で、与えられているものを活かすか、殺すかは、あなた次第であって、決して与えられているもの次第ではないのです。そこで、この与えられているものの使い方がなぜ人によってこんなにも違い、その人生の明暗を分けるのでしょうか。その答えは自分自身の中にあります。‘人は誰でも自分の中に人生の脚本を持っており、誰もがその脚本を演じながら生きている’とは、アメリカの心理学者エリック・バーンの言葉です。この人生脚本とは、自分自身のセルフイメージ、つまり潜在意識の自分が見ている自分のイメージで、人は無意識のうちに、このイメージ通りの自分を演じながら生きています。またこのイメージはその人の思考・言動・行動に圧倒的な支配力を持ち、人は潜在意識の自分が見ている自分のようにしか行動できないのです。たとえば、床の上に置かれた30センチ幅の板の上を渡るのは簡単ですが、同じ板を20階建てのビルの間に渡して歩くとしたらどうでしょう。床の上の板なら、簡単に渡る自分が見えるので、平気でその行動を取りますが、ビルの間に渡された板からは落ちる自分が見えるので、その行動を取ろうとしません。しかし、とび職人なら、ビルの間に渡された板でも簡単に渡る自分が見えるので、平気でその板の上を歩いていくのです。このように、人は自分が見ている自分のようにしか行動しないものなので、自分を価値ある人間と見ていれば、価値ある人間のように、すべてを肯定的に考え、与えられているものを有効に用いて行動を起こし、それにふさわしい結果を手に入れます。ところが、自分を価値のない人間と見ていれば、価値のない人間のように、すべてを否定的に考え、与えられているものを失敗規制に基づいて用いてしまい、惨めな結果を手に入れるのです。あなたは、神が造られた無限の価値と可能性に満ちた人であることをご存知ですか?もしかしたら、この世の間違った価値基準の量りで量られ、価値も可能性もない嘘の自分を見ながら生きてはいませんか? 本当のあなたは、価値ある、可能性に満ち溢れた人なのです。今日の一言: 失敗の可能性も、成功の可能性も、すべて自分の手の中にある平安鶴田健次