ピーター・エンズ著『確実性の罪』 を読む(4)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

(その1 その2 その3)

今回は、『確実性の罪(The Sin of Certainty)』の第2章”How We Got Into This Mess”(私たちがどのようにしてこの混乱状態に陥ったか)を取り上げます。

前回見たように、エンズは現代キリスト教の抱える大きな問題点の一つは、「神への正しい信仰」と「神についての正しい思想」を同一視する考え方にあると主張します。繰り返しますが、エンズは神についての正しい理解を知的に追求していく営みを否定しているわけではありません。問題はそれをキリスト教信仰の中心に据えようとする態度です。

けれども、どうしてこのような信仰的態度が生じてきたのでしょうか?エンズはアメリカの歴史において、聖書はキリスト教信仰の知的基盤(たとえば正確な科学的・歴史的知識)を提供するということに関しては長い間共通の理解がありましたが、19世紀になってそのようなコンセンサスを揺るがすようなできごとが起こってきたといいます。

第一は自然科学からの挑戦です。チャールズ・ダーウィンの進化論の提唱にはじまり、遺伝学や地質学、宇宙物理学などの発展により、聖書の天地創造の記述の文字通りの理解(宇宙は数千年前に6日間で創造され、人類は神によって直接創造された最初の一組の男女から始まった、等)に疑問を投げかけるようになりました。これは今日に至るまで、リチャード・ドーキンス等の無神論者によるキリスト教批判の大きな根拠となっています。

ビッグバン宇宙論の概念図

 

第二は考古学からの挑戦です。古代中近東世界の解明が進むに連れ、イスラエルの周辺民族にも、創世記の天地創造ナラティヴによく似た――しかも年代的により古いと思われる――創世神話があることが分かりました。このことも聖書の記述の信頼性に対する脅威となりました。

バビロニアの創世神話:怪物ティアマトと戦うマルドゥク

第三は聖書批評学からの挑戦です。伝統的に、「律法(トーラー)」とよばれる旧約聖書の最初の5つの書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)はモーセによって書かれたと考えられてきました。しかしドイツで興ってきた近代聖書批評学によって、トーラーが成立したのはモーセの時代よりもはるかに後の時代であると考えられるようになってきました。このこともまた、聖書の記述の歴史的正確性について疑問を投げかけるようになりました。

モーセ五書の文書仮説を提唱したヴェルハウゼン

エンズが挙げる第四の挑戦は、アメリカにおける奴隷制度の是非についての論争です。今日では考えられないことですが、当時は奴隷制を支持する側も批判する側も、それぞれ聖書に基づいて自説を展開し、どちらの側も支持者に対して一定の説得力を持っていました。このことは、これまでの3つの挑戦とは異なる種類の問題を引き起こしました。科学や考古学や批評学からの挑戦は、聖書の歴史記述という、過去についてのものでしたが、この場合は聖書を人生の指針とするクリスチャンが現在をどう生きるかという、倫理に関するものだったからです。一見して正反対の道徳的・政治的立場に対して、聖書がどちらも支持を与えるということはありうるのでしょうか?いったい、聖書が「ほんとうに教えていること」を「正しく理解している」のはどちらなのか、ということが問題となったのです。

アメリカにおける、黒人奴隷売買の様子

このような歴史的状況の中で、アメリカの保守的キリスト教会は、これらの「脅威」から信仰を守る必要性を覚えるようになり、いつしか聖書が与える(と考えられていた)知的確信を擁護することがキリスト教信仰の中心を占めるようになっていった、とエンズは言います。聖書講解を基調とする長い説教が礼拝の中心を占め、日曜学校その他の活動でも、正しい教理を教え、擁護し、「誤り」を論駁することが教会のアイデンティティのようになっていったといいます。そしてその状況は、今日まで続いているのです。

それだけではありません。エンズはこのような知的偏重の信仰理解は、アメリカ福音派だけの問題ではないと言います。その問題はプロテスタント宗教改革にまでさかのぼるというのです。

宗教改革の大原則の一つは、「聖書のみ(sola scriptura)」でした。クリスチャンの信仰と実戦の最終的権威はただ、神のことばなる聖書のみにある、ということです。聖書のみに最終的な権威を求めることによって、プロテスタントのクリスチャンたちは(誤りを犯しうる)ローマ・カトリック教会の伝統から自由に歩めるようになりました。そこで、聖書をいかに正しく理解するかということが、プロテスタント教会の中心的課題となり、その知的伝統が今日まで受け継がれてきているのです。

ところがここで新たな問題が生じました。新たに生まれたプロテスタント教会は、「聖書のみに権威がある」という点では一致したものの、その最終的権威である聖書がいったい何を言っているのかについて、意見の一致を見ることができなかったのです。つまり、ここで生じてきたのは、聖書解釈の多様性という問題です。その結果、プロテスタントは無数の教団教派に枝分かれし、そのいずれもが、自分たちの聖書解釈こそが正しいと主張するようになりました。エンズはこの状況に大きな歴史的アイロニーを見ています:

聖書を正しく理解しようという、プロテスタントの長い探求の結果、聖書の意味がますます確実に分かってきたというわけではない。その正反対である。結果として生まれたのは、聖書の重要な箇所をどのように理解すべきかについて鋭く意見を対立させる、驚くほど多くの教派や教団であった。もし聖書が神についての確実な知識の源泉であるならば、これらすべての多様性はどうやって説明したらよいのだろうか?聖書は私たちを分裂させるのではなく、一致させるはずではないのか?(52ページ)

そしてエンズは、上述したような近代における聖書への「攻撃」と、それに対する保守的キリスト教会の「反撃」はどちらも、聖書についての同じ前提から出発しているといいます。それは「聖書が神のことばであるなら、それは過去に関する正確な知識を提供しているはずだ」というものです。一方で近代主義者は考古学や自然科学の成果に基づいて、そのような種類の正しい知識を提供していないので聖書は神のことばではないと言い、他方で根本主義者は、神のことばとしての聖書を擁護するために、現代の学問的成果をまったく無視してでも、聖書はこれらのことがらに関して正確な知識を提供していると強弁するようになりました。

この袋小路から抜け出す道はあるのでしょうか?エンズは、このようなことがらに関する正確な知識を提供することは、そもそも聖書の目的ではなかったのではないか、と考えます。つまり、私たちは聖書に対して見当外れの問いを立てていたのではないか、というのです。エンズは自らの聖書観を次のように説明します:

私は、聖書は確実性に依拠するような信仰のモデルではないと考える。それは、聖書はそのような種類の確実性を提供していないという単純な理由による。聖書はむしろその厄介な多様性において、私たちが自分の信じることがらについて明確な確信を持っているかどうかによらず、神を信頼すべきことのモデルとなっているのである。(53ページ)

*     *     *

ここに述べられているエンズの聖書観は、多くの福音派キリスト者にとってはかなりラディカルなものかもしれません。けれども、彼の結論に同意するかどうかは別として、彼が提起している問題はすべてのプロテスタントのクリスチャンが真剣に取り組むべき、重要なものであると思います。それは聖書解釈の多様性という問題です。「聖書のみ」の原則に立つプロテスタント教会はみな、神のことばである聖書のみがクリスチャンの信仰と実践の唯一絶対的な権威であるという点では一致しています。これはスローガンとしては単純明快な分かりやすいものです。しかし、では聖書が実際に語っている内容は何か?という問題になると、かなり重要な主題についてさえ様々な立場があり、意見を一致させるのは至難の業です。これはプロテスタント教会の抱える重大なジレンマといえます。(ちなみに、これはエンズだけが言っていることではありません。たとえばクリスチャン・スミスもThe Bible Made Impossibleという本で聖書解釈の多様性の問題を論じています。)

 

これは、聖書の記述があらゆる点において真理であるかどうかという、いわゆる無誤性の問題とはことなることに注意しなければなりません。たとえ無誤性を支持する人であったとしても、この問題を避けて通ることはできません。なぜなら、たとえ聖書が唯一の真理なる命題の体系を啓示しているものであったとしても、その真理が実際何であるのかについて、キリスト教会は統一した解釈を提示できないでいるからです。

そして、もし聖書が神によって啓示された真なる知識の集積であり、それを正しく理解して適用することによって聖書の権威が教会において行使されるのだとしたら、聖書解釈に重大な多様性があるということは、全体としてみるならば、現実の教会において聖書は神が意図された機能を充分に果たしていない、ということになってしまいます。自分(たち)の解釈のみが聖書の唯一絶対に正しい解釈であり、他はすべて間違っているという極端な立場を取るのでない限り、このジレンマから逃れることは困難です。ではどうしたらよいのでしょうか?

ある人々は、たゆまぬ努力を重ねて聖書を研究し続けていけば、やがて唯一の正しい解釈に到着する――すなわち、すべてとは言わなくても十分に多くの人々の間でのコンセンサスを得ることができる――と考えるかもしれません。しかし、はたしてそうでしょうか?ルターの宗教改革から500年目を迎える今日、その見通しは暗いように私には思えます。

つまり、これは「さらなる努力を重ねさえすれば、いつかは解決が訪れる」という問題ではないように思えるのです。もしかしたら、私たちは見当違いの問いを発し、それに聖書がいつか答えを与えてくれるのをむなしく期待しているのかもしれません。もしかしたら、私たちは見当違いの方向に走っているのかもしれません。もしそうだとしたら、なすべきことは、今までと同じ方向にさらに一生懸命走ることではなく、向きを変えることかもしれません。

つまり、私たちは聖書の権威(聖書が神のことばであるとはどういうことか)という問題を、「真なる命題的知識の啓示とその正しい解釈」というものとは異なる視点から考える必要があるのではないか、ということです。(これについては、こちらの過去記事も参照してください。)

私は聖書のより正しい解釈を求めてたゆまぬ努力を重ねていく営み自体は、意味のある尊いことだと思います。しかし、唯一の「正しい解釈」を得ることがキリスト教信仰の中心的な目的ではないと思います。もしこの点を見誤って、聖書を正しく解釈し、正しい教理体系を作り上げることがクリスチャンの至上目的であると考えてしまうなら、大きな問題を引き起こすことになると思います。それがいつまでも完結することのない未完のプロジェクトに終わるからだけでなく、その過程でキリストのからだなる教会にさらなる分裂を引き起こすことが予想されるからです。

これに関連して、私は日本の福音派クリスチャンが多用する「聖書信仰」という表現に、ある種の危うさを感じています。私はこの用語を使用すること自体に必ずしも反対ではありませんが、もしこれがある特定の聖書観に基づいて聖書を理解することをキリスト教信仰の中心に置く態度を意味するなら、それは信仰のあり方として偏った態度と言わざるを得ません。私たちの信仰の中心は、あくまでもイエス・キリストを通してご自身を啓示された神との人格的な信頼関係にあるべきだと思うからです。そして、そのような「聖書信仰」という概念が特定のグループの正統性を定義するために用いられ、それとは異なる聖書観を持つ人々があたかも聖書の権威を認めていないかのように主張されるなら、それはキリストのからだにとって不幸なことではないかと思えるのです。

(続く)

 

 

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