神と立方体についての断想

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

このブログでは時々シモーヌ・ヴェイユを取り上げていますが、最近読んで特に印象に残った箇所を紹介します。

ある物体の周りを巡るとき、わたしたちはその物体が実在していると確信する。それは、間断なく変化するあらわれをつくり出すが、それを決定するのは、あらわれとは別な、あらわれの外にある、あらわれから超越した固定化された形式である。この働きによって、対象が幻ではなくひとつのモノであり、身体を有していることを認識する。(中略)立方体の箱はどこから見ても、立方体の形をしていない。だが、立方体の周りを巡る人にとって、立方体の形式こそが目に見える形の変化を決定する。その決定が客体の身体をわたしたちに授けてくれる。それゆえ箱をじっと見つめていると、それが立方体ではないにもかかわらず、ほかならぬ立方体であると確信する。
(『前キリスト教的直観』)

ここでヴェイユは19世紀フランスの哲学者ジュール・ラニョーの立方体に関する考察について述べています。ラニョーはヴェイユの哲学の師であったアランのそのまた師にあたる人でした。

この投稿の目的はヴェイユのこの記述を哲学的に議論することではなく(私にはそのような能力はありません)、それが私たちの神観について与える示唆について考えて見ることです。もちろん、神は立方体のような、この世界に存在するさまざまなモノ(対象)の一つではありませんが、一つのアナロジーとして、神を立方体にたとえてみると、どういうことが考えられるでしょうか。

神に関する私たちの認識や体験は人それぞれであり、そこで出会う「神」のイメージは異なっています。ちょうど立方体を取り囲んで眺めている人々には、角度によってさまざまな色や形の組み合わせが見えるようなものです。そして、人々が立方体をどんな角度から眺めても、「立方体そのもの」を見ることは誰にもできないのと同じように、各人が受け取る神のイメージはさまざまですが、誰一人として神の全体像を直接的に認識できる人はいません。けれども私たちは個人としてのさまざまな神体験から、そしてキリスト教会という共同体としての神体験の伝統に基づいて、神がおられることを認識するのです。神の存在は種々の具体的な神体験という「あらわれ」をもっていますが、どの一つの体験も神そのものを直接的に表しているわけではありません。神ご自身はそのような具体的な体験を超越したお方です。

このことが信仰者の神理解にどういう影響を及ぼすかを考えます。まず、私たちの神理解は人によって異なることがありますが、そのことは神の実在を否定するものではありません。また、異なる神理解のあり方に対して、どれが正しいのかを議論することよりも、それらを総合してより深い神との関係を追い求めていくことの方が往々にして建設的で実り多いものになると思います。言うなれば、人によって神の異なる面が違う形で見えているだけであって、どれも当人にとっての真正な神理解である、という可能性もあるのです。

第二に、このように神が異なる姿で見えてくるというのは、複数の人間の間だけで起こることではなく、一人の人間においても起こります。つまり、信仰の旅路の中でその人にとっての神の「見え方」が変わってくるのです。ある時は神の愛と臨在を強く感じながら喜びをもって歩めるかと思えば、絶望のどん底のような状況の中で、神が遠く離れて自分を見捨ててしまったかのように感じることもあるかもしれません。祈ってもそっぽを向かれているかのように感じることもあるかもしれません。ちょうど立方体の周りを巡って行く時に、ある瞬間に見えている面は光に照らされて輝いているのに、しだいにその隣の暗く歪んでいるように見える面が視界の大部分を占めていくようなものです。立方体が変化したわけではありません。ただその見え方が変わっているだけです。

このように、信仰者にとっての神の「あらわれ」はいつも同じとは限りませんし、いつもポジティヴな(と思われる)ものであるとも限りません。しかしキリスト者は、イエス・キリストはいつまでも変わることがなく(ヘブル13:8)、神は常に愛なるお方である(1ヨハネ4:8)ことに信頼を置いていきます。聖書の神は、善悪を超越した存在ではなく、あくまで善であり愛なるお方です。けれどもこのような神観は、ネガティヴと思えるような神の「あらわれ」を無視してポジティヴな側面のみに目を向けていくことによって得られるものではありません。むしろそれは、すべての「あらわれ」を総合した彼方に立ち現れるまことの神は、常に変わることなく愛なる方であると信じることです。

このことについて、ヴェイユは次のようにも語っています:

神は神を愛する人びととのあいだに協定による言語をもうける。生の事象のひとつひとつがこの言語の一単語である。これらの語はすべて同義であるが、美しい言語におけると同じく、それぞれにまったく独自のニュアンスがあり、他の語に翻訳することができない。これらの語すべてに共通する語義は「われ、なんじを愛す」である。
 一杯の水を飲む。水は神の「われ愛す」である。飲み水をみつけられず砂漠を二日もさまよう。喉の渇きは神の「われ愛す」である。[・・・・・・]
 この言語の初学者はこれらの語の一部だけが「われ愛す」を意味すると思いこんでいる。
 この言語に習熟した者はただひとつの語義しかないことを知っている。
(冨原眞弓編訳『ヴェイユの言葉』より)

このようなヴェイユの言葉を、現実の苦しみから遊離した理想主義的な言葉として一笑に付す人もいるかも知れません。しかし、彼女は第二次世界大戦においてナチスドイツに侵略されたフランスでユダヤ人女性としての辛酸をなめ、34歳の若さでロンドンで客死したことを忘れてはなりません。彼女は人生の苦難を知っていました。けれどもその中に神の「われ愛す」というささやきを聴き取っていたのです。ただそのためには神の愛の言語に習熟し、種々の事象における「それぞれにまったく独自のニュアンス」を聴き分ける能力を身につけなければなりませんでした。

私たちの宗教的体験や聖書の理解は不完全でつねに移ろいゆくものです。けれども、その彼方に私たちは常に変わることなく私たちを愛してくださる善なる神を「見て」いく必要があるのだと思います。そのためには、同じく神を見ている他の人々との対話や意見交換がしばしば必要になってくるでしょう。異なる目で神を見ている人々との交流は、私たちの神観をさらに奥行きのある、立体的なものにしてくれます。じっさい、ヴェイユのプラトン主義的哲学は本来私個人の神学的立場(たとえばオープン神論)とは相容れないはずであるにもかかわらず、彼女の思想に不思議な魅力を感じるのは、自分の神理解の足りない所を補完して、さらなる深みを与えてくれる可能性を感じているからかも知れません。

*     *     *

さて、「立方体」のイメージからさらに連想を進めてみました。聖書の中に登場する立方体は、終末の新天新地における永遠の神の臨在と関わっています。黙示録の中でヨハネが幻視した新しいエルサレムは立方体の形をしているのです

1  わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。 2  また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。(中略) 16 都は方形であって、その長さと幅とは同じである。彼がその測りざおで都を測ると、一万二千丁であった。長さと幅と高さとは、いずれも同じである。」(黙示録22:1-2、16)

ヨハネは新しいエルサレムを、一辺が「一万二千丁」の巨大な立方体として描いています。この長さは現代の単位で言うと約2,200キロメートルになります。これはローマ帝国の西端から東端をカバーする長さであり、当時の人々にとって事実上全世界を覆うものでした。ただし、この描写を文字通りに受け取る必要はありません。1,200という数はイスラエルを表す12に完全数の1,000をかけたもので、「神の民の全体」を象徴しています。しかし、なぜ立方体なのでしょうか?

実は聖書の中にはもう一つの立方体が登場します。それはエルサレム神殿の至聖所です(1列王6:20、2歴代3:8-9参照)。ヨハネの幻は、この記述を背景にしているように思われます。つまり新しいエルサレムは都全体が至聖所、つまり神の臨在がいつもとどまる場所として描かれているのです。

このように考えてくると、神を立方体としてイメージするというのは、あながち聖書と無関係でもないと言えるかもしれません。ただ繰り返しますが、これはあくまで神の多様な表れを理解するためのアナロジーであり、すべてのアナロジーと同様に限界のあるものだということを忘れないでいただきたいと思います(たとえば立方体のイメージでは、神の人格的性質はうまくとらえきれていません)。これもまた、神理解の一側面にすぎないのです。

 

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