確かさという名の偶像(19)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回も前回に引き続き、第9章「聖書の中心」を取り上げます。

暴力的な神の描写

前回見たように、ボイドは聖書の中心はイエス・キリストであり、十字架上のイエスを通して啓示された神観は、それに先行するすべての啓示に優先し、それらは十字架のイエスというレンズを通して解釈されるべきだ、と主張します。このことが具体的に問題となるのは、旧約聖書に描かれている暴力的な神の姿をどのように解釈したらよいのか、という難問を考える時です。たとえば神がモーセを通してイスラエルに、カナンの先住民の「聖絶」を命じているような箇所です(申命記7章1-2節)。これらの描写は、イエスにおいて啓示された愛の神とは矛盾するように思えます。

ボイドは旧約聖書も霊感された神のことばであると信じていますので、これらの箇所をただ排除することはしません。また、しばしば弁証論的な文脈で論じられるように、これらの箇所で描写されているできごとは本当はそれほどひどいものではなかったという解釈も取りません。また、巧妙な釈義によって「旧約記者たちが意図したのはそのような暴力的な意味ではなかったのだ」と論じることもしません。そうではなく、ボイドはこれらの暴力的な記述を十字架のレンズを通して解釈する時に、旧約記者たちが意図したオリジナルの意味を超えて、さらに深い意味を読み取っていかなければならないと主張します。そしてボイドは、これらの暴力的な記述が十字架のキリストとただ両立可能だということを示すだけでは不十分だといいます。旧約聖書が霊感された神のことばであり、(前回見たように)聖書霊感の目的がキリストを指し示すことにあるとすれば、これらの暴力的な神の描写がどのようにしてキリストを指し示すことができるのか、を考えなければならないというのです。

ボイドのアプローチは基本的に次のようなものです。彼はこの問題は、キリストが私たちのために罪となり(2コリント5章21節)、のろいとなられた(ガラテヤ3章13節)ことによって、実際には罪のないお方であったにもかかわらず、罪人の姿を取られたことと同様であるといいます:

十字架によって神が本当はどのようなお方であるかが示されたという意識をもって聖書の暴力的描写を読むとき、私たちは神が暴力的に描かれている際その舞台裏で何が起こっているかを認識し始める、と私は主張する。要するに、神は身をかがめて、ある意味で、ご自身が働きかけておられる心のかたくなな民の罪とのろいになられたということだ。それによって神は、実際にはそのようなお方ではないにもかかわらず、暴力を行い、命じる者の姿を取られたのである。(p. 190)

つまり、神が旧約聖書に暴力的に描かれているのは、神の本質が暴力的であることを示しているのではなく、あえて身を低くして民の暴力的な罪深い性質を反映するような(神ご自身の本質とは相容れない)姿で彼らに現れたのだ、というのです。そしてこのようなイスラエルの神の姿は、やがてカルバリーの丘で罪人として処刑されるイエスの姿をはるかに指し示しているのです。

ボイドは、旧約聖書における暴力的な神の描写を私たちがどのように解釈するにせよ、最も大切なことは、十字架上のキリストに表されている、非暴力的な愛の神の姿が神の本当の姿であることに信頼を置くことだ、といいます。さもないと、イエスが表しているのは本当の神の一部に過ぎず、十字架の背後には無慈悲で暴力的な神のもう一つの顔が隠されているということになってしまうからです。

旧約聖書における暴力的な神の描写を、十字架でいのちを捨てた愛の神イエスを信じる者としてどのように扱ったらよいのか?というのは古来クリスチャンを悩ませてきた問題です。そしてこれはリチャード・ドーキンスなどの無神論者がキリスト教を批判する際にとりあげる定番の主題でもあります。この問題については、大きく分けて二つの対応があるように思います。

一つは、旧約聖書に描かれている神はキリスト教の神とは相容れないものだとして排除する立場です。これは2世紀のマルキオン以来現代にいたるまで根強くある考え方で、この立場の人々は旧約聖書自体をキリスト教には不要なものとして排除することもあります。「旧約聖書の神は怒りと裁きの神であるが、新約聖書の神は愛とゆるしの神である」などと言われることもあります。けれども、このような立場は、新約聖書が旧約聖書との連続性をはっきりと強調している点、イエスや使徒たちが旧約聖書に啓示されているイスラエルの神を唯一のまことの神としていたという点からして説得力を持ちません。

おそらく今日のキリスト教会で広く受け入れられているのは、「神は確かに愛の神であるけれども、同時に聖い神、義なる神、罪を裁かれる神でもある。そしてそのような神の姿は旧約聖書の一見暴力的な描写に表されている。聖書にはどちらの側面も書かれているので、私たちはこの両面を受け入れなければならない。」という立場です。これは確かに、聖書に含まれているさまざまな神の描写をすべて同じ重要性を持つものとして受け入れるなら、必然的に導かれる結論です。しかし、このような立場は前回見たような問題を含んでいます。それは聖書のすべての部分が同じ重要性を持つという、平板で機械的な聖書観に基づいているだけでなく、このような立場から導かれる神観は互いに対立するイメージの混合体となり、実際に人がこの神といのちにあふれる人格的関係を持つことを困難にします。

さらにこの立場にはもう一つの大きな難点があります。もし聖書に描かれた神の本質が愛の神であると同時に暴力的な裁きの神でもあるなら、現在でも神はその両面を持っているはずです。だとすると、今日でも神は「聖絶」を命じられる可能性はあるのでしょうか?これは世界各地で宗教テロが多発する今日、非常に切実な問題であると思います。どのような宗教であれ、その聖典に記された神の描写が暴力的なものであるなら、それが神の本質にかかわるものかどうかによって、その神を信じる者の生き方は大きく左右されてくるはずだからです。

今回ご紹介したボイドのアプローチにすべての人が同意するわけではないと思いますが、上で述べた二つの立場の中間を行く「第三の道」の一つとして興味深い提案ではないかと思います。この問題は非常に難しく、私も個人的に結論が出ているわけではありませんが、ボイドの議論からはいろいろなことを学び、考えさせられています。ちなみに、今回取り上げた問題について、ボイドは近く刊行予定の大著The Crucifixion of the Warrior God(『十字架につけられた闘いの神』)でさらに詳しく論じているとのことです。

ところで、聖書における暴力的な神描写は旧約聖書だけの問題ではありません。新約聖書でも、ヨハネの黙示録などでは、再臨のイエスが一見非常に暴力的な裁きの神として描かれています。このことは、これまで見てきたボイドの議論を無にしてしまうのでしょうか?そうではありません。この点については稿を改めて論じたいと思います。

(続く)

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