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これまでの回では、パレスチナ人クリスチャンの一人として、ヨハンナ・カタナチョー師を紹介してきました。今回はもう一人のパレスチナ人クリスチャン、グレース・アル・ズグビー(Grace Al-Zoughbi Arteen)博士を紹介します。アル・ズグビー博士はベツレヘム出身で、現在もその街に住みながら、レバノンにあるアラブ・バプテスト神学校でも教えておられます。彼女はローザンヌ運動の神学作業部会における私の同僚でもあります。今回は彼女の証詞文をご本人の了解のもとに翻訳して共有します。
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キリストにある愛する兄弟姉妹たち、
私たちの主イエスキリストの御名によってご挨拶します。
私の名はグレース・アル・ズグビーです。私はアラブ系キリスト教徒の女性で、エジプト系アメリカ人の牧師と結婚したパレスチナ人です。私はベツレヘムで生まれ育ちましたが、祖国で正義が行き渡っていた時代をほとんど覚えていません。西洋で神学の博士課程を修了した私にとって、そこで味わっている行動の自由はとても魅力的です。幼い頃、パレスチナに住んでいた私たちが直面した不正について、私は多くの疑問を持っていました。正義と平和と愛の象徴であるイエスが2000年以上前に受肉されたベツレヘムの茶色の丘に見とれながら、私はこれらのことについて考えを巡らしたものでした。
イエスの受肉を通じて平和のメッセージを体現した地域が、現在ではさまざまな抑圧に支配され、平和を維持するために苦闘しているというのは皮肉なことです。しかし、イエスが生まれた当時のパレスチナもまた、ローマ帝国が残酷な鉄拳で支配し、キリストを十字架につけた場所でもあったのです。神を信じ、その知恵に信頼を置いているおかげで、日々の生活で直面する不正は、私の希望を打ち砕くことはありませんでした。イエスを信じるこの希望があるからこそ、私は 「諸国民に正義を宣べ伝える」選ばれたしもべとしてのイエスについて学び、教え、書くことができるのです。
アラブ人クリスチャンの声はあまりにも長い間、歴史の背景に押しやられてきましたが、私たちは自分たちを犠牲者だと考えることをやめ、神の愛によって大小さまざまな攻撃と闘う方法を学ばなければなりません。愛、赦し、謙虚な犠牲的奉仕の物語は、不正に反対し、神の愛を語るアラブ・クリスチャンの声を増幅させるはずです。これは決して「街頭で叫ぶ」ことによってではなく、「互いの足を洗い合う」ことによって達成されるのです。ある人たちの考えとは反対に、正義は、私たちの地域で最初からそうであったような言い争いによって達成されることはありません。それどころか、神に愛されたしもべであるイエスは、互いに足を洗い合うという、私たちが従うべきチャレンジとなる模範を与えてくださったのです(ヨハネ13:14-15)。ですから、和解と正義が最終的に勝利するのは、どんなに痛みを伴っても、相手の話に耳を傾け、謙虚に、犠牲的に、一貫して、そして愛をもって相手に奉仕しながら、それぞれの民族の罪に対して心からの悲しみと悔い改めを表明するという、隠れた、しかし非常に困難で持続的な作業を通してなのかもしれません。
私たちの非常に困難な状況の中で、このことをどのように実践したらよいかを考えてみると、互いに会話を始めたり、必要なときに助けの手を差し伸べたりすることが考えられます。私自身はアラブ系パレスチナ人クリスチャンですが、メシアニック・ジューの兄弟姉妹の愛を、苦難の時に彼らが示してくれた行いによって体験してきました。心と家を開き、相手の重荷や喜びに耳を傾け合うことは、私たちが互いの足を洗い合う実例となります。エペソ人への手紙5章2節には、そのための鍵が示されています:「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」
私たちが意図的に周囲の人々の声に耳を傾け、壁ではなく橋を作ることにつながる小さな一歩を踏み出そうとするとき、主は私たちのうちに、そして私たちを通して栄光をお受けになります。そして私たちの働きは小さく見えても、必然的に広範囲に影響を及ぼすことになるのです。
パレスチナ人であれイスラエル人であれ、私たちの人間としての経験は、おそらく多くの人が思っている以上に共通しています。私たちはみな、不正の異なる側面と闘っているのです。それでも私たちは協力関係を築き、連帯の新たな可能性を模索し、種々の物語を通して自他について学ぶことができます。新たな戦略、新たなビジョン、新たな視点を模索するとき、私たちは、社会や教会、そしてアカデミーの中で、互いの声をどのように代表させることができるかを問うべきです。特に勝者なき激しい対立と絶え間ない戦争の中で、いま私たちはどのようにして、共に現実について考えることができるのでしょうか。
このような過酷な状況の中で生きる時に愛を表現するのがいかに難しいかということを、私はこれまで見てきましたし、個人的にも痛みを持って経験してきました。その反対に、憎しみの種を根付かせるのはとても簡単です。しかし正義は、現在敵意が支配している場所で愛を育むという非常に困難な作業を必要とし、また要求さえするのです。神の愛が私たちの中に根付くとき、それは私が生まれた国に築かれた物理的な壁を越えて、私たちに愛を行うように迫ります。傍からも物理的な壁は容易に見ることができますが、目に見えない霊的な壁も存在します。それらは憎悪、怨念、悪感情の壁です。多くの人々はこれらの壁を認識できないか、故意に無視します。これらの壁は、私たち両国民に広範囲にわたって悪影響を及ぼしているのです。
実のところ、物理的な境界線や壁の中で暮らすのは、かなり恐ろしく、息苦しいものです。これは、私たちがずっと耐えてきた現実です。人間として、プレッシャーや制限に対処することは簡単ではありません。私たちの精神は自由を切望し、祈りの中で絶えず自由を求めて叫びます。しかし、私はこの複雑な状況に対する怒りで罪を犯さないよう、常に主の力を求めてきました。むしろ、私たちが教えられているように「祝福」することを学んできたのです。このすべてにおいて、「ののしり返さ」なかったイエスが私の模範です(1ペテロ2:23)。ヨハネ・クリュソストモスは断言します: 「主の願いは、ご自身の敵の間にいやしをもたらすことであった。けれども彼らが主を追い払った時にも、主は彼らと争わなかった。」このイメージとは対照的に、私は、この不当な状況に対処するために、路上で「口論」したり、他人と戦ったりするような様々な方法でしか対処できない多くの人に出会ってきました。しかし、このような「傷ついた葦」であっても、イエスは「折る」ことはなさらないし、私たちもそうであってはならないのです。
(続く)
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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