【疑問】クリスチャン同士でないと付き合ってはいけないのか?!

▼クリスチャンは恋愛に奥手?
▼聖書は何と言っているか
▼クリスチャンではない人との恋愛はOK?
1:一般的な交際の目的はセックス/結婚である
2:信仰の一致なしの交際は「つり合わないくびき」である
3:クリスチャンではない人との関わりは積極的になるべき
▼いたずらに信者をしめつける教会の問題
▼あなたの心の動機は何なのか 〜境界線の問題〜

クリスチャンはクリスチャン同士で付き合うべきなのでしょうか。恋愛的な交際に関して、どのように考えたらいいのでしょうか。

 

  • ▼クリスチャンは恋愛に奥手?
  • ▼聖書は何と言っているか
  • ▼クリスチャンではない人との恋愛はOK?
  • 1:一般的な交際の目的はセックス/結婚である
  • 2:信仰の一致なしの交際は「つり合わないくびき」である
  • 3:クリスチャンではない人との関わりは積極的になるべき
  • ▼いたずらに信者をしめつける教会の問題
  • ▼あなたの心の動機は何なのか 〜境界線の問題〜

 

▼クリスチャンは恋愛に奥手?

 「私はクリスチャンです」と自己紹介すると、決まってされる質問がある。「クリスチャンじゃない人と付き合っちゃいけないの?」というものだ。クリスチャンではない人にも、一定程度そのような認識があるのは驚く。私は、「禁止されてはいないけど、自分はクリスチャンと付き合いたい」と答える。

 教会によっては、恋愛にとても慎重なところもある。若い男女が2人きりでお茶を飲んだり、外出するのを禁じているところもあれば、牧師の許可がなければ付き合ってもいけないと教える教会もある。じゃあどうやって結婚するんや! とツッコミたくなるが、実際そういう教会は多い。総じて、「クリスチャンは恋愛に奥手」「クリスチャンは考えが固い」「クリスチャンは恋愛に慎重」というイメージがあるのではないだろうか。

 一方で、あるクリスチャンたちは、そんな声や風潮を気にせず、自由に恋愛している。クリスチャン同士で付き合う人もいれば、クリスチャンでない人と付き合う人も結構多い。そのまま結婚に至るケースもある。中には「性」についての考え方もおおらかで、フリーセックスの考え方のクリスチャンもいる。

 実際、クリスチャンは「恋愛」に対してどう考えるべきなのだろうか。聖書には何と書いてあるのか。教会はどう教えたらいいのか。クリスチャンは、クリスチャン同士でないと付き合ってはいけないのだろうか。クリスチャンではない人と、交際してはいけないのか。「付き合う」とは何なのか。今回は、それらの疑問を、聖書の記述をもとに考え、私なりの意見を述べたいと思う。

 断っておくが、私は独身である。(※筆者は2020年1月に結婚しました)それに、クリスチャンでない人も、このブログの読者として想定している。だから、このような記事を書くのは僭越ではないかと、若干迷った。しかし、各方面からの希望もあり、今回筆を執った次第である。記事をお読みになる際は、あくまでも私の個人的な意見として受け止めていただきたいと思う。

 

 また、「みこころの相手」「クリスチャンの離婚・再婚」に関しては、以前記事を書いているので、それもふまえて読んでいただけると幸いである。

 

 

 

▼聖書は何と言っているか

 まず、聖書は「恋愛」に対して何と言っているのだろうか。答えを先に書いてしまうと、ほとんど書いていない。そりゃそうだ。自由恋愛して、そこから結婚するのが当たり前、というのは近現代の常識である。私の祖父は今年89歳になったが、祖母と結婚する前に一度しか会っていないという。親戚が勝手に決めた結婚だった。祖母は、牛舎に引かれて嫁ぎにやってきたというから驚きである。

 このように、つい最近まで、少なくとも日本の歴史の中では、親が決めた相手と結婚するのが庶民にとっては当たり前だったのだ。聖書が書かれた何千年も前の時代では「自由恋愛」が基本的に想定されていなかったのは、当たり前の話である。

 とはいえ、実は聖書の中に恋愛をめぐるストーリーは、けっこう存在する。それに関する教えや教訓も種々書かれている。今回は、それらを「ヒント」にしながら、聖書の基本的メッセージを汲み取っていきたい。(長いので、聖書の基本的知識がある人は、<まとめ>の所まで読み飛ばしてほしい)

 

<アダムとエバの例>

神である主は、人から取ったあばら骨を1人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから」それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

(創世記 1:22~24)

 最初の人間、アダムは、妻エバを得た。ここで一番のポイントは、「男は妻と結ばれ、二人は一体となる」という点である。2人のものがひとつとなる。これが聖書の示す結婚の奥義である。男と女。キリストと教会。イスラエルと外国人(異邦人)。聖書には、2つのものがひとつとなるという理念が、たびたび示されている。男女が結びつき一体となるというのが、聖書の基本的な「男女観」であり、あえていえば「恋愛観」である。

 

<エサウと妻たちの例>

エサウは40歳になって、ヒッタイト人ベエリの娘ユディトと、ヒッタイト人エロンの娘バセマテを妻に迎えた。彼女たちは、イサクとリベカにとって悩みの種となった。

(創世記 26:34〜35) 

 アブラハムの孫、エサウは、2人の外国人の妻を迎えた。これは神に対する不遜な行為であった。エサウの祖父アブラハムは、神との契約を重視して「外国人と結婚せずに、親戚の中から息子イサクの妻を見つけよ」と家来に命じ、ようやくイサクとリベカが結婚できたのであった。そのイサクとリベカの子がエサウである。

 しかし、エサウくんはこの「契約」を完全に無視。勝手に外国人の妻を2人迎えてしまったのである。これは神との契約を無下にするだけでなく、両親の悩みのタネともなったのであった。

 クリスチャンはここからどう学ぶべきか。神を信じている人同士がひとつになるのが絶対的基準――というのが私の見解だ。これには異論があるだろうし、エサウのエピソードは直接その教訓を語ったものではないという指摘も、一定理解はできる。この議論は後述する。

 余談だが、知人が以前、クリスチャンではない人と結婚するクリスチャンを「エサウくん」と呼んでいた。なかなか皮肉なあだ名だなと思ったが、クリスチャンでない人との付き合い・結婚の是非について的を得た指摘だと思う。

 

<ヤコブと妻たちの例>

ラバンには2人の娘がいた。姉の名はレア、妹の名はラケルであった。レアは目が弱々しかったが、ラケルは姿も美しく、顔だちも美しかった。ヤコブはラケルを愛していた。それで、「私はあなたの下の娘ラケルのために7年間あなたにお仕えします」と言った。

(創世記 29:16〜18)

 ヤコブは恐らく、聖書で初めて恋愛結婚をした人物であろう。無論、イサクもそうだっただろうが、イサクとリベカの結婚はアブラハムの命令に従った家来が決めてきたもので、自由恋愛とはちょっと毛色が違う。

 ヤコブの恋愛結婚は、簡単なものではなかった。彼は、親戚のラケルを気に入り、ラケルの家族にラケルとの結婚を申し入れる。7年間のタダ働きを条件に、結婚が許される。しかし、7年後にやっと結婚できたと思いきや、ヤった後に相手は実は姉のレアだったとわかる(そんなことある?!)。

 結果的に、ヤコブはレアとラケルの両方と結婚するが、ヤコブは元々ラケルが好きだったので、ラケルを特別扱いした。その結果、2人の妻の間で嫉妬に燃えた争いが繰り広げられることになった。この嫁の間の争いは結果的に12人の子供をもたらすのだが、決して重婚を肯定しているわけではない。

 この非常に人間的なエピソードからわかる教訓は、どちらかの妻を特別扱いしてはいけない、という単純なものではない。ヤコブは「神のみこころ」を求めて結婚したのではなく「自分の好きな相手」と結婚したのであった。このことから、聖書の時代から、ある意味の「自由恋愛」が存在していたと分かる。

 

<サムソンの例>

サムソンは、ティムナに下って行ったとき、ペリシテ人の娘で、ティムナにいる1人の女を見た。彼は上って行って、父と母に告げた。「私はティムなで1人の女を見ました。ペリシテ人の娘です。今、彼女を私の妻に迎えてください。(中略)彼女が気に入ったのです彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主は、ペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたのである。

(士師記 14:1〜4) 

そのあと、サムソンは、ソレクの谷にいる女を愛した。彼女の名はデリラといった。

(士師記 16:4) 

 聖書で恋愛と言えば、サムソンを取り上げざるを得ない。サムソンは屈強なイスラエルのリーダーだったが、外国人女性に恋をした。サムソンに関しては、ティムナの女とデリラの、2人の女性との恋の物語があるが、いずれもサムソンは女性への思いによって失敗している。

 ここから分かるのは、主に2つ。どんなに強い指導者であっても、女性への恋愛感情によって失敗する可能性があるという点。そして、神はその失敗さえもご自身の計画のために用いる、という点である。

 

<ダビデとソロモンの例>

ソロモン王は、ファラオの娘のほかに多くの異国人の女、すなわちモアブ人の女、アンモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヒッタイト人の女を愛した。この女たちは、主がかつてイスラエル人に、「あなたがたは彼らの中に入ってはならない。彼らをあなたがたの中に入れてもいけない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる」と言われた、その国々の者であった。しかし、ソロモンは彼女たちを愛して離れなかった。彼には、700人の王妃としての妻と、300人の側女がいた。その妻たちが彼の心を転じた。

(列王記第一 11:1〜3)

  ダビデとソロモンは、イスラエルで最も偉大な王であった。同時に、2人は女性関係で失敗した代表例でもある。

 ダビデの失敗は有名である。ダビデには数多くの妻がいた。ミカル、アヒノアム、アビガイル、マアカ、ハギテ、アビタル、エグラ、そしてバテシェバ、他の妻たち。ダビデは王なので、多くの妻がいたことは「罪」ではないと考えられるが、この結果、息子たちによる様々ないさかい、争い、殺し合いが絶えなかった。

 バテシェバに関しては、ダビデは明確な罪を犯した。バテシェバは、ダビデの前に既に他の男性と結婚していた。しかし、ダビデは不倫をして、バテシェバを妊娠させてしまう。ダビデは妊娠を誤魔化すために、また彼女を手に入れるために、夫ウリヤをわざと戦死させたのである。これはダビデにとって大きな罪となった。このバテシェバとの間に生まれたのがソロモン王である。

 ソロモン王は、偉大な王となった。しかし、彼は外国人の女を愛した。700人の妻と、300人の側女がいたというから驚きである。以前、教会にいた20代の独身女性が、「1000人もいたら、毎晩1人と夜をともにしたとしても、順番が回ってくるのは3年に1回か・・・」と感慨深げにつぶやいていたのを、よく覚えている。ソロモンにとって、女性への弱さは、後に偶像礼拝に転じてしまうという失敗を生むキッカケとなってしまった。

 しかし、不思議なことに、このバテシェバから生まれたソロモンの系譜が、後にイエスへとつながっていくのである。サムソンよろしく、女性への恋愛感情は、偉大な指導者をつまずかせるが、神はその失敗さえも用いるのである。

 

<ペテロとパウロの例>

私たち(パウロたち)には、ほかの使徒たち、主の兄弟たちや、ケファ(ペテロ)のように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。

(コリント人への手紙第一 9:5)

 今まで、旧約聖書の物語を見てきたが、今度は新約聖書を見てみよう。 これはパウロの書いた手紙の一部だが、ここからペテロは信者である女性と結婚していたと分かる。一方パウロは、他の様々な箇所から明らかだが、独身であった(※しかし、結婚経験はあり、死別または離婚して独身の状態になっていたとする説もある。私は死別ではないかと考えている)。

 これらの記述から、一般的にはイエスの信者たちには「信者である妻」がいたと分かる。一方パウロは、できるなら独身であるように勧めている。しかし、パウロは同時に「結婚は良いことである」とも書いている。

 

 

 ・・・いかがだろうか。他にも、アブラハムには実は後妻のケトラがいるだとか、その子孫がミデヤン人となっているだとか、そのミデヤン人の子孫とモーセが結婚してるだとか、イサクはただの棚ぼた野郎だとか、イエスの系図に入ったタマル・ラハブ・ルツ・バテシェバの4人の女性のほとんどが外国人だとか、罪の結果がイエスにつながっているだとか、ダビデの息子アムノンが妹に恋をしてしまっただとか、ルツのロマンティックなエピソードだとか、エステルの物語だとか、書きたい例は数え切れないほどあるが、ここまでにしておきたい。まとめよう。

<まとめ>

・聖書の恋愛、結婚、男女観の原則は「2人がひとつになる」という価値観

・聖書の時代から恋愛感情による結婚は存在していた

神を信じ、神に信頼している人同士の恋愛、結婚が大原則

・大原則を破った場合、どんな偉大な人物も必ず失敗している

・しかし、神はその失敗さえもご自身の計画のために用いる

・イエス以降の時代の信者たちには「信者である妻」がいた

・パウロ自信は独身を保ち、他の人にも独身であるようオススメした

・しかし、パウロは「結婚は良いこと」との認識を示していた

 

 まとめると、以上のようになる。加えて言えば、聖書では恋愛のエピソードは数多くあるものの、基本的に「結婚」が大前提としてある。婚姻関係以外の関係は、基本的に想定されていないのである。遊女はどうなんだとか、神殿娼婦はどうなんだとかいう意見もあるだろう。また、イスラエルの民と外国人の関係を、そっくりそのままクリスチャンとそうでない人との関係に適応するのは乱暴だという指摘もあるだろう。確かにそれは一理ある。しかし、そこまで語るとまとめきれないので、別の機会にする。

 繰り返すが、上に挙げたように、聖書は基本的に「結婚」を前提とした価値観で、男女の恋を描いている。とすると、現代的な「付き合う」とか「交際」であっても、その目的として「結婚」があると考えた方がよかろう。この記事で扱うのは一般論であって、個別のケースについてとやかく言うつもりはない。一般論として、クリスチャンであってもなくとも、「交際」の先には「結婚」という目的があるというのは、異論の余地はないだろう。これら点から、クリスチャンの「恋愛・交際」はどうあるべきなのか、考えてみたい。

 

 

▼クリスチャンではない人との恋愛はOK?

 さて、ここからが本題だ。クリスチャンにとって、クリスチャンではない人と付き合うのはOKなのか、NGなのか? という根本的問題である。クリスチャンではない人と交際していいのかどうか。これは、特にクリスチャン人口が少ない日本においては、男女ともに、とても悩ましい問題のひとつである。選択肢が全くないからだ。教会に魅力的な男性や女性がいない! どうすればいいの?! という思いは至極ごもっともである。

 これについては、様々な意見があり、また様々な対応をしている人がいるのは承知している。その上で、私自身の考えを勇気を持って大胆に述べさせていただこう。

 

クリスチャンにとって、クリスチャンではない人との交際は、ありえない。 

 

 これが私の考えである。異論、反論、オブジェクション、必ずあると思う。どうぞコメント欄に書いていただければと思う。

 このテーマについては、私もかなり悩みに悩んだ。実際、私の身の回りでも様々なケースがあり、一概には語れない。同時に、このテーマは「あの人はこうだった」「こういうケースを聞いた」「私はこうだった」などの経験論で語るのはふさわしくないと思う。あくまでも先に挙げた聖書の価値観に基づいた「一般的原則」として語りたい。

 

 

1:一般的な交際の目的はセックス/結婚である

 誰かと付き合う時、必ず目的がある。私はクリスチャンではない人に「なぜ付き合うのか」と聞いて回ったことがある。「なぜその人と付き合うのか」「なぜ彼氏や彼女になるのか」と聞き、その結果、以下のような回答があった。

<なぜ交際するのか>

セックスするため/セックスしていい相手と認定するため(圧倒的多数の意見)

・なんとなく、好きだから

・時間やスケジュールを優先する相手と認定するため

・他人には言えない物事を共有する相手と認定するため

・魅力的な男性/女性と交際するとステータスになるから

いずれ、その人と結婚したいから(多数の意見)

 

 クリスチャンではない人に交際の目的を聞いた所、赤裸々に話してくれる人が多かった。ほとんどの人が、交際の目的として「セックス」を挙げた。確かに、誰彼構わずセックスする人は男性、女性に関わらず一般的にはよろしくないとされるだろう。それは、現代であってもそうだ。

 しかし、不思議なことに交際相手とはいくらセックスしても、誰も文句は言わない。むしろ安心できる。「交際」が始まった瞬間「合法的に」セックスができるのである。これはある意味、現代社会の謎だが、そういう仕組みになっている。

 以前、クリスチャンではない女性に「付き合うってことは、あなたとはセックスしてもいいですよっていう意思表示でしょ」とも言われたことがある。もちろん、例外は様々あると思うが、かなり乱暴に一般論をまるめると、「交際の中間的ゴールはセックスである」とも言えるだろう。

 もちろん、その先には「結婚」がある。一般的にはある期間の交際を経て、男女が結婚する。これが一般的、社会的、普遍的な価値である(異論反論オブ・・・略)。まとめれば、交際の目的はセックスであり、その先にあるのは結婚である。

 ともすれば、クリスチャンは誰かと交際する場合、「結婚前にセックスしていいのか」という点を考えなければならない。長々論じるのは避けるが、クリスチャンは結婚前のセックスはするべきではない、というのが私の立場である。また、「結婚が大前提の交際をした方が良い」とも考えている。それらに加え、「クリスチャン同士で結婚した方が良い」とも考えている。

 それらの点を踏まえれば、クリスチャンである人とクリスチャンではない人との「交際の価値観」「恋愛観」「結婚観」は、多少なりともズレが生じてくる。「セックス」も「結婚」も考えられないとなると、クリスチャンにとって、クリスチャンではない人との交際をする意味が全く無くなる。何のために付き合うのか? という根本的な部分で一致しないのである。これでは交際の意味がない。

 

 

2:信仰の一致なしの交際は「つり合わないくびき」である

 また、先に挙げた価値観に加え、聖書には以下のような記述がある。

不信者(クリスチャンではない人)と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。

(コリント人への手紙第二 6:14〜16) 

 

 「不信者」という言葉は、個人的に好きではないが、「クリスチャンではない人」という意味である。「くびき」とは、上の写真のように牛の首にかけ、牛のペアの歩調を揃えるための器具を指す。

 先に挙げたように、セックスに対する考え方、結婚に対する考え方が、クリスチャンとそうではない人とでは全く違う。

 しかし、そんなのはオマケだ。もっと大事な価値観の違いがある。「神が世界や人を造った」「人には罪がある」「イエスが罪を背負って十字架で死んだ」「3日目に蘇った」「イエスは天に昇り、また地上に帰ってくる」「イエスを信じれば救われる」「死後には必ずさばきがある」といった、根本的な世界観や、人生の価値観、目的、優先順位がクリスチャンとそうではない人では、全く異なる。どちらが良い悪いではなく、単純に、しかし完全に違うのである。

 全く違う世界観、価値観、目的で生きる2人が、果たして交際してうまくいくだろうか。果たして2人がひとつとなって、夫婦として歩めるだろうか。できないとは言わない。しかし、方向性はバラバラになるだろう。これがまさに「つり合わないくびき」である。バラバラの方向のまま、一緒には歩めない。

 たまに「違う価値観の人と一緒になる方が良い」という意見も聞く。一理ある。しかし、クリスチャンとそうではない人の違いは、単なる価値観の違いではない。次元が全く違う。これはうまく説明できていないと思うが、本当に単なる「価値観の違い」なんていうものじゃないのだ。たいていクリスチャンは頭がおかしいから(じゃなきゃイエスが復活したなんて信じない!)聖霊なしには理解できない行動も、多々あるだろう。

 もちろん、上記の聖書箇所が一義的に示しているのは、「間違った教えと距離をおけ」というものであって、クリスチャンとそうではない人の交際を書いたものではない。しかし、根本的価値観が全く違う2人が一緒になるのは難しいという原則は、ここから理解できるだろう。

 

 

3:クリスチャンではない人との関わりは積極的になるべき

 では、クリスチャンではない人と一切関わってはいけないのか。それは極論すぎる。聖書にもこう書いてある。

私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、いっさい付き合わないようにという意味ではありません。そうだとしたら、この世から出ていかなければならないでしょう。

(コリント人への手紙 5:10)

 

 「淫ら行いをする者」だなんて、クリスチャンはずいぶん偉そうだと思うかもしれない。この部分を書いた使徒パウロは、多少なりともそういう書き方をする人なので、お許し願いたい。ポイントは、クリスチャンではない人と一切付き合わないというのは的外れ、という部分である。むしろ、クリスチャンは、内輪のクリスチャンだけの交友関係に留まらず、交友の幅を広げた方がいいと思う。教会やクリスチャンは、クリスチャンではない人との関わりを、もっと増やすべきである。

 ただ、クリスチャンが、クリスチャンではない人との「恋愛的な交際」まで踏込むのは行き過ぎではないか、というのが私が強調したいポイントだ。先に挙げたように、一般的な交際の目的はセックスであり、結婚である。もしあなたがクリスチャンとして「結婚前のセックスは正しくない」「セックスは、結婚相手とのみ楽しむべき特別な関係である」「クリスチャンと結婚したい」という価値観を持っているなら、なぜクリスチャンではない人と恋愛的な意味で付き合うのか。

 さらにもっと根本的なことを言えば、なぜ最高のイエスに出会ったのに、その喜びを共有できない人と一緒に歩む人生を選ぶのか。申し訳ないが、私には全く理解ができない。

 クリスチャンではない読者の方は、「クリスチャンってなんて度量が狭いんだろう」と思うかもしれない。声を大にして言いたいが、差別をしているわけではない。ただ、もっと幸せな生き方と出会ってしまっただけなのだ。イエスという最高のソウルメイトと出会ってしまっただけなのだ。そして、あなたにもこの素晴らしいイエスを知ってほしいと願っているだけなのだ。

 

 

▼いたずらに信者をしめつける教会の問題

 さて、ここまで述べると「このブログは保守的だ」とか思うかもしれない。そのとおり。 聖書を読めば読むほど、クリスチャンの人に、クリスチャンではない人との交際はオススメできない。

 しかし、恋愛に消極的すぎるのも問題だと、私は考えている。記事の冒頭でも述べた通り、教会によってはあまりにも決まりが厳しすぎて、信者をがんじがらめにしてしまっているところもある。ある教会は、若い男女が2人で会うのを禁じている。ある教会は、牧師の許可なしに男女が交際するのを禁じている。お茶に行くのもダメなんだとか。

 声を大にして言いたい。アホちゃうか!!! 

 そんなんでどうやって結婚するん?! アーミッシュかよ!!! 今日びアーミッシュだって夜道で馬車デートするわ!!!(実話)

 

 ハッキリ言うが、この時代、そんなアホみたいな決まりで「恋愛禁止!」とかやっても全くの無意味!!! どうせみんな陰でコソコソやるに決まっている。

 それに、往々にしてそういうルールを率先して破るのは牧師とか伝道師とかいうリーダーたちなのである。坊主が肉を食ってる時代から、人間は何も進歩していない。一体、何回恋愛禁止のキャンプのスタッフが実はそこで出会って〜ウフフ、みたいな感じで結婚したケースを見てきたことか。片腹痛いわ! 私が通っていた教会の牧師は、かつて恋愛禁止の教会で、礼拝の会が終わると、こっそり付き合ってた彼女と違う出口から出て、教会から離れた場所で待ち合わせしていたとか。ふざけんなよ。牧師だけコソコソ得してんじゃねぇよ。真面目にルールを守ってた人の純朴な思いどうしてくれんねん。

 そういうアホみたいな教会の、意味のないルールに縛られて、苦しんでいるクリスチャンのみなさん、もう大丈夫。聖書にはクリスチャン同士の恋愛を禁じる記述は、一切ない。そのような決まりは、単純に信者をコントロールするために設けられた、人間による人間的なルールに過ぎない。あいつらは勝手に自分だけ例外にして、他の人を支配して喜んでいるだけの哀れな人間だ。気にしなくていい。勝手にデートしたら噂話されるのが怖い? そんなことで、ありもしない噂話を立てるような人たちや教会からは、足のちりをはらって自分から出ていけばいい。

 私は、クリスチャンはどんどん積極的に恋愛をして、クリスチャン同士の、イエスを中心にした結婚を目指すべきだと思う。そのために、教会がもっと積極的に信者たちを教育し、交際をサポートすべきだと思う。また、クリスチャン同士が交際関係になったら、関係をオープンにし、同じコミュニティの中で互いの関係のために祈り合った方が良いと思う。

 日本の教会は、これまで男女関係の教育やサポートをほとんどしてこなかった。その上、「恋愛禁止!」などという意味の分からないルールだけを作り、信者をコントロールしてきた。その結果何が生まれたか。クリスチャンの晩婚化。少子化。増える高齢の独身者たち。それならまだしも、クリスチャンとの結婚に見切りをつけてクリスチャンではない人と交際し、結婚する人が後を絶たない。そういう人は往々にして教会のコミュニティからも足が遠ざかり、しまいにはイエスを信じるのをやめてしまう。子供もイエスを信じない。結果は散々である。

 もうこんな幼稚な教えからは、卒業しなければいけない。もしあなたがクリスチャンで気になっている人がいたら、彼や彼女をお茶にでも誘ってみよう。話してみよう。関わってみよう。LINEしてみよう。デートに誘ってみよう。

 「みこころ」とかいう幻想を求めて祈り続けている人もいるだろう。祈りは大事だ。しかし、ただ一方的に祈っているだけでは(ほとんどの場合)何も始まらない。結局、行動をしなければ何も始まらないそして、早いうちに行動しないと、魅力的な人はどんどん先に結婚してしまうという悲しい現実が待っている。クリスチャンたちよ、恋愛に積極的になれ!

もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。

(コロサイ人への手紙 2:20〜23)

  

 

▼あなたの心の動機は何なのか 〜境界線の問題〜

 クリスチャン同士の交際をこれだけ勧めておいて申し訳ないが、クリスチャンではない人との交際を禁じる記述は、聖書のどこにもない。そらそうだ。「付き合う」とかいう概念がなかったのだから。しかし、これまで述べてきたように、クリスチャンがクリスチャンではない人と恋愛的な交際をするのは、意味がないし、意義がないし、良くない影響の方が圧倒的に多いのは確かだろう。

 それでもなお、あなたがクリスチャンではない人と交際したいというのなら、あなたを止める権利は、私にはない。しかし、以下の点を警告しておきたい。

<クリスチャンではない人との恋愛的な交際を

 しようとしているクリスチャンへ>

あなたの愛する人は、あなたの愛するイエスを信じない可能性が大いにあります。

・あなたの力では、あなたの愛する人はイエスを信じることは不可能です。

・信じるとしても、いつ信じるか、タイミングは神のみぞ知るセカイ。信じない可能性も大いにあります。

あなたは、あなたの愛する人と、父なる神の素晴らしさ、イエスを知る喜び、聖霊に満たされる感動を一緒に味わうことができません。

・あなたの愛する人は、永遠の滅びに行く可能性があります。

・あなたは、あなたの愛する相手と、神との永遠を共有できないかもしれません。

・あなたは、あなたの愛する相手と一緒に祈ることができません。

・あなたの教会生活に支障が必ず出ます。

・今はOKでも、将来的に教会に行くこと自体を相手に快く思われない可能性があります。

・あなたの子供が、イエスに出会う確率が圧倒的に下がります。

・あなたの子供が、永遠の滅びに向かう可能性が、圧倒的に高まります。

・あなたが相手と別れたあと、その経験がクリスチャンの人との交際に悪影響をもたらす可能性が大いにあります。

・あなたが、どう思っているかどうかに関わらず、結婚前のセックスをする可能性が格段に高まります。

・あなたが聖書を読む時間を、相手が快く思わない可能性が大いにあります。

・あなたの祈りの生活は、おそらく以前よりおろそかになるでしょう。

・あなたが献金をする行為は、おそらく相手には理解されないでしょう。

・あなたが神からの示しを受け取り、転職、引っ越し、生き方の変更、その他諸々の方向転換をする際、おそらく相手には理解されないでしょう。

・その他、諸々の価値観の違いで、必ずやぶつかるでしょう。

・それでもいいなら、どうぞクリスチャンではない方と交際して、結婚していただいて構いません。

 

 クリスチャンでないけれど、「大切な存在で、この人と付き合いたい」とか「この人と結婚したい」と思う人はいるだろう。その場合、私のオススメは「相手と友情は保つが、相手がイエスを信じるまで交際はしない」という境界線の保ち方である。実際、男性、または女性側がそのように堅実に境界線を保った結果、もう一方がイエスを信じ、クリスチャンとなったケースを、私は複数知っている。彼らはいずれも今結婚して、幸せな家庭を築いている。一方で、境界線を保てなかった人の多くは、片方が信じないばかりか、自分自身もイエスを信じるのを辞めてしまっている。

 もちろん、クリスチャン同士の交際だからといって、全てが良いわけではない。クリスチャン同士であっても「境界線」を保つのは非常に大切である。細かなルールは聖書にあるわけではないから、2人で話し合って、適切な「距離感」を決めたら良いと思う。大切なのは、聖書に記述のある通り、「結婚が尊ばれること」である。

 結局は、心の動機が大切なのだ。あなたが、クリスチャンではない人と付き合いたいと思っている理由は何か。その理由は本音だろうか、言い訳だろうか。クリスチャンではない人と交際している人がよく言うセリフに「最近、聖書一緒に読んでるんだよね」とか「キリスト教に興味は持ってくれている」とか「教会に何度か来てくれた」みたいなものがあるが、ハッキリ言って全部言い訳だ。

 私のオススメは、イエスを伝えまくることと、相手が信じるまで付き合わないこと。しかし、今付き合っているなら、別れろというのも変な話なので、適切な境界線を引くようオススメしたいと思う。

 キリスト教の真髄は、「これをしてはダメ、これはしてOK」というような、宗教的なものではない。究極的には、「全てゆるされている」のである。しかし、その感動を一度味わったのであれば、もう元には戻れないはずだ。同じ喜びを共有できる人を、交際相手・結婚相手に選ぶはずだ。そうあってほしいと願う。あなたが「エサウくん」にならないことを、私は切に願っている。

 

結婚がすべての人の間で尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。

(ヘブル人への手紙 13:4)

 

 

<おまけ>

 クリスチャン界隈で、「恋愛は罪」かのような価値観を広めてしまった、ジョシュア・ハリスという人がいる。彼は、「聖書が教える恋愛講座」(原題:I Kissed Dating Goodbye. 邦題がひどい。正しくは「聖書が教えてない恋愛講座」)という本で、恋愛はよろしくないという間違った価値観をひろめてしまった。幸いにも近年、彼は自分の過ちを認めた。彼は本の内容の訂正、出版の停止、そして自らの間違った主張によって傷ついた全ての人に謝罪している。(謝罪文・英語)

 彼の主張は、一定は理解できる。しかし、あまりにも「失敗しないこと」を強調しすぎてしまったあまり、ねじ曲がった価値観が伝わってしまった。大切なのは「失敗しないこと」ではなく「失敗したと感じた時に、どう立ち上がるか」である。そして、教会がすべきは「成功するための教育」と「立ち上がるためのサポート」である。

 

(了)

 

◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

The Cross Pendant

He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

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Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......

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