【疑問】「洗礼」はクリスチャンになる条件なのか?<後編> ~洗礼は救いの条件でも、牧師の特権でもない~

 ▼洗礼とは何か
▼「洗礼」はクリスチャンになる条件ではない
▼考えうる反証「バプテスマを受ける者は救われる?」
▼洗礼に「学び」は必要なのか
▼洗礼のすすめ
▼「洗礼」は牧師の特権なのか
▼洗礼を授けることはイエスの命令
▼おまけ1:「滴礼」と「全浸礼」はどちらが望ましいか
▼おまけ2:「幼児洗礼」の是非
▼おまえはもう死んでいる

「洗礼」は救いの条件なのでしょうか。

★前編はこちら★

  •  ▼洗礼とは何か
  • ▼「洗礼」はクリスチャンになる条件ではない
  • ▼考えうる反証「バプテスマを受ける者は救われる?」
  • ▼洗礼に「学び」は必要なのか
  • ▼洗礼のすすめ
  • ▼「洗礼」は牧師の特権なのか
  • ▼洗礼を授けることはイエスの命令
  • ▼おまけ1:「滴礼」と「全浸礼」はどちらが望ましいか
  • ▼おまけ2:「幼児洗礼」の是非
  • ▼おまえはもう死んでいる

 
▼洗礼とは何か

 前回の記事では、洗礼とは何かをまとめた。簡単にポイントだけ挙げる。

 

1:「洗礼」は、信仰を宣言する、信仰のスタートに関わる儀式である。

2:「洗礼」は、「きよめ」ではなく、「生まれ変わり」を象徴する儀式である。

3:ヨハネは「水」でバプテスマを授けたが、イエスは「霊」のバプテスマを私たちに与えた。

4:私たちの「肉」は、「神の息」に満たされた、「霊」のからだに「生まれ変わる」必要がある。そうしないと、神の基準で生きることはできない。

5:旧約聖書には「ノアの箱舟」や「モーセの海割り」など、「洗礼・バプテスマ」の「伏線」がたくさんある。

 さて、以上の点をふまえた上で、次回は以下の点を考えていきたい。

 

1:「洗礼」はクリスチャンになる条件なのだろうか。

2:洗礼を受けるためには「準備コース」たるものを受講しなければならないのだろうか。勉強して理解した上でないと、洗礼を受けてはいけないのだろうか。

3:洗礼を授けるのは牧師だけの特権なのだろうか。

 この3つについて、順番に見ていこう(※本来、「洗礼」は「バプテスマ」と表記すべきであるが、分かりやすさを優先し、この記事では基本「洗礼」と記する)。

 

▼「洗礼」はクリスチャンになる条件ではない

 「洗礼」は、「きよめ」ではなく、「生まれ変わり」の儀式である。これは前編で述べた。では、洗礼は救いのための条件なのだろうか。言い換えれば、「洗礼を受けた時にクリスチャンになる」のだろうか。「洗礼を受けなければ、たとえイエスを信じていてもクリスチャンではない」のだろうか。色々な意見があると思うが、私の個人的見解は、完全にNOである。聖書にはこう書いてある。

 

律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。(中略)では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある」。これは、私たちが述べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

(ローマ人への手紙 10:3~10)

 ハッキリと、「人は心に信じて義と認められ」「口で告白して救われる」と書いてある。洗礼の「せ」の字もそこにはない。私たちは、ただメシアであるイエスを信じ、受け入れ、宣言することによってのみ救われるのだ。洗礼は、救いとは全く関係がない。私たちは洗礼によって救われるのではなく、「イエスを主と告白するなら救われる」のである。

 また、別にハッキリと「洗礼は救いではない」と書いてある箇所がある。先の、ノアの箱船の箇所だ。

 

この水(ノアの洪水の水)はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。

(ペテロの手紙第一 3:21)

 洗礼は、良心をもって、イエスを信じる告白をした後に行う「誓約」である。いわば、「信仰を公に表明する儀式」といってもいいだろう。よく「洗礼式」は「神との結婚式」とも言われるが、この「誓約」という文言から来た発想であろう。

 洗礼の「水」は、罪を取り除く象徴ではない。罪を取り除く象徴は、キリストの血である。「水」は生まれ変わりの象徴であり、誓約の証である。

 洗礼は救われる条件ではなく、救われたことを宣言する儀式なのだ。順番を整理しよう。

 

1:福音を聞き、イエスを信じる

2:救われる。義と認められる。

3:その誓約として、洗礼を受ける。信仰を公に表明する。

 こういう順番である。決して、洗礼を受けたから救われるのではない。だから、洗礼を受けていなければクリスチャンではないという考えは、間違っている。イエスを救い主として信じる人がクリスチャンなのだ。

 

 

▼考えうる反証「バプテスマを受ける者は救われる?」

 あえてカウンターアーギュメントをあげるとすれば、以下の言葉が引用できるだろう。

 

信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

(マルコの福音書 16:16)

 これは、イエスの言葉である。「バプテスマ(洗礼)を受ける者は救われる」という文言は、「受けなければ救われない」といったようにも受け取れる可能性がある。

 しかし、それは間違いだ。後段を読めばよく分かる。後段は、「バプテスマを受けない者は罪に定められる」とは書いていない。「信じない者は罪に定められる」と書いてあるのだ。この箇所は「バプテスマを受ける」が対比されているのではない。あくまでも、「信じる」と「信じない」が対比されている箇所なのだ。信じる者は、その証明として、その誓約として、洗礼を受ける。ただそれだけだ。信じる者は救われ、信じない者は救われない。やはり、この箇所を根拠に「洗礼を受けないと救われない」と論じるのは間違っている。

 

 

▼洗礼に「学び」は必要なのか

 2つ目のポイントに移ろう。洗礼に「学び」、「洗礼準備コース」たるものは必要なのだろうか。私の意見では、全くもって必要ない。しかし、シンプルな福音の理解と宣言は必要と考える。聖書の洗礼が行われた人々の例を5つ挙げる。

 

【1:バプテスマのヨハネと民衆】

そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを述べ伝えて、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。(中略)そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

(マタイの福音書3:1~6)

ヨハネの教えを聞いた民はみな、取税人たちでさえか彼からバプテスマを受けて、神が正しいことを認めました。

(ルカの福音書 7:29)

 ヨハネは大勢の民衆にバプテスマを授けた。ヨハネの弟子たちも授けていたであろう。周辺地域から大勢の人が来て、「悔い改めなさい」というヨハネのメッセージを受け取り、バプテスマ=洗礼を受けていた。ヨハネは、この大勢の群衆一人ひとりに、「洗礼準備コース」たるものを受講させたのだろうか。ハッキリ言って、物理的に不可能である。ヨハネが洗礼に提示した条件はただひとつ。「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言ったのみであった(マタイの福音書3:8)。

 

【2:ペンテコステの3000人の信者】

人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。(中略)彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。

(使徒の働き 2:37~41)

 使徒の働き2章には、イエスの昇天後、初めて「聖霊」が下り、神の力が如実に現れた「ペンテコステ」の日の記述がある。詳細は別の機会にするが、一同に介したイエスの信者たちが、突然、外国語で神の素晴らしさを語りだしたのである。びっくりした周辺の人々に対して、ペテロはハッキリと、「イエスがメシアであり、お前たちはそのメシアを十字架につけたんだ」と宣言する。それを聞いた人々は心を刺され、3000人もの人々が洗礼を受けたのであった。

 3000人の人は、「その日」に洗礼を受けた。6ヶ月もの「洗礼準備コース」なんて受けやしなかった。その場でペテロのメッセージを受け入れ、イエスをメシアとして信じ、証明として洗礼を受けたのである。彼らは、「イエスを十字架につけろ!」と叫んでいたユダヤ人である。それが即日悔い改めて、洗礼を受けたのだ。なんとシンプルで簡単な救いだろうか。

 

【3:ピリポと宦官】

そこで、ピリポは立って出かけた。すると見よ。そこに、エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた宦官のエチオピア人がいた。彼は礼拝のためにエルサレムに上り、帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。(中略)そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが分かりますか」と言った。するとその人は、「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」と答えた。そして、馬車に乗って一緒に座るよう、ピリポに頼んだ。(中略)ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、イエスの福音を彼に伝えた。道を進んで行くうちに、水のある場所に来たので、宦官は言った。「見てください。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」そして、馬車を止めるように命じた。ピリポと宦官は二人とも水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。

(使徒の働き 8:27~38)

 このエチオピア人の宦官も、信じたその場でバプテスマを受けた。「洗礼準備コース」など受講していない。彼は、エチオピア人と書いてあるが、おそらくソロモンの時代に交易関係にあったエチオピアに移民したユダヤ人の子孫であろう。だからイザヤ書を読んでいたのだ。ちなみに、今日のイスラエルには白人のユダヤ人も黒人のユダヤ人も、様々なバックグラウンドの人がいる。

 彼が、ユダヤ教の素養があったことから、「一定の学び、旧約聖書の理解が必要だ」という意見もあるだろう。しかし、エチオピア人の宦官は、肝心のメシアについては旧約の内容ですら何も分かっていなかった。だから、ピリポがイザヤ書(53章)の内容は、イエスについての預言なのだと解説する必要があったのだ。宦官は、福音を聞いてすぐに「洗礼を受けたい」と申し出た。ピリポは、すぐさま宦官に洗礼を授けた。宦官は「勉強をして知識がついたから」洗礼を受けたのではなく、「福音を聞いて信じたから」洗礼を受けたのであった。

 

【4:ペテロとコルネリウス】

割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたことに驚いた。彼らが異言を語り、神を賛美するのを聞いたからである。するとペテロは言った。「この人たちが水でバプテスマを受けるのを、だれが妨げることができるでしょうか。私たちと同じように聖霊を受けたのですから」ペテロはコルネリウスたちに命じて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けさせた。それから、彼らはペテロに願って、何日か滞在してもらった。

(使徒の働き 10:45~48)

 コルネリウスは、カイサリアという場所にいたイタリア隊という部隊の100人隊長だった。彼は夢で、ペテロのところに行けと神のお告げを受けた。ペテロも同時に夢で、神からお告げを受けて、カイサリアに行き、コルネリウスと彼の家族に会った。そして、そこで洗礼を受けるよう命じたのであった。興味深いことに、この書き方を見ると、ペテロ自身が洗礼を授けたのではないようだ。誰が授けるかは重要ではないことがうかがえる。

 コルネリウスは神を信じていたが、外国人であった。彼は、外国人で初めて洗礼を受けた人となった。コルネリウスは外国人であったが、「ユダヤ教訓練コース」なんか受けなかった。ただ彼は、イエスを救い主、メシアを信じただけであった。

 

【5:看守と家族】

目を覚ました看守は、牢の扉が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。看守は明かりを求めてから、牢の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏した。そして二人を外に連れ出して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。二人(パウロとシラス)は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」そして、彼と彼の家にいる者全員に、主のことばを語った。看守はその夜、時を移さず二人を引き取り、打ち傷を洗った。そして、彼とその家の者全員が、すぐにバプテスマを受けた。

(使徒の働き 16:29~33)

 パウロとシラスは、言いがかりで逮捕され、牢屋に入れられていた。すると、地震が起こり、牢屋の扉もひらき、鎖も外れた。この箇所は、その時看守が、責任を感じて自殺しようとしたシーンである。

 この看守は完全に外国人である。ほぼ確実にユダヤ人ではない、ローマの兵隊だ。その彼も、彼の家族もすぐに信じてバプテスマを受けたのだ。「ユダヤ教訓練コース」はおろか、「洗礼準備コース」など受けていない。外国人であるから、旧約聖書の素養もほとんどないだろう。ただ、彼らは、「主イエスを信じた」のみであった。それですぐに洗礼を受けたのであった。

 

 どうだろうか。これらの例を見れば、「洗礼に学びが必要」とはとても思えない。共通しているのは、「イエスを救い主、メシアと信じる」という事実である。「イエスを信じる」というのが、たった一つの洗礼を受ける条件なのだ。細かい神学的なことは、その後学べばいいのだ。イエスを信じ、洗礼を受ける。その後で、大好きなイエスのことを、もっと学んでいけばいいのだ。

 もちろん、「当時の人は神の存在を当たり前に信じていたのだから、そもそものベースが現代の日本人とは違う」という意見もあるだろう。確かにそうだ。だから、私は、洗礼を受けるならば以下のような点を信じる必要があると思う。

1:神は唯一であり、この世界、そしてあなたを創った。

2:あなたは神と一緒でないと、本当の意味で生きられない。

3:神と一緒になるためには、あなたはあまりにも不完全な存在である。

4:あなたの努力によって、神と一緒に生きるにふさわしい者になるのは不可能である。

5:あなたがあまりにも大切な存在なので、神はあなたと一緒に生きるために、イエスを地上に送った。

6:イエスはあなたのために十字架で死んだ。そしてよみがえった。

7:イエスを信じれば、あなたはいつまでも神と一緒に生きることができる。

 あえて細かく羅列したが、福音はもっとシンプルだ。単純に言えば、あなたは「イエスを救い主」と信じれば洗礼を受ける資格がある。細かい神学は後でいい。「洗礼準備コース」なんてくだらない。どうせ覚えていやしない。私はそんなものは受けていない。意味がない。でもイエスが大好きだ。だから洗礼を受けるのだ。一体、日本の教会はいつになったら「洗礼を受けたい人を妨げる」のをヤメないのか。この意味のない「洗礼準備コース」が、いたずらに洗礼のハードルを上げているのは間違いない。イエスを信じたい人の気持ちをくじくのは、やめていただきたい!

 

 

▼洗礼のすすめ

 さて、イエスを信じてはいるが、まだ洗礼を受けていない人にオススメする。洗礼を受けよう。受けない理由はどこにあるのだろうか。「準備コース」が必要? くだらない。そんなくだらないことを強要する教会に参加するのはやめてしまえ(!)・・・というのはちょっと言い過ぎかもしれないが、あなたが洗礼を受けたいと思うなら、教会の人に相談してみてはどうだろうか。

 もし、教会が「絶対に準備コース受けなきゃダメ!」と言うなら仕方がない。付き合ってあげようじゃないか。あなたが信じたい、大好きなイエスのことをタダで教えてもらえるのだ。ラッキー! 結構なことじゃないか。存分に牧師とか、教会スタッフの時間を使ってもらおうじゃないか。すぐに洗礼を受けなくても、あなたは既に救われている。焦る必要はない。大好きなイエスのことを、もっと知れると思って、洗礼に一歩踏み出そう。

 あなたが洗礼を受けるのをためらっているとしたら、何か理由があるのだろう。その理由をしっかり考えてみよう。今、心に浮かんだことは、言い訳ではないだろうか。洗礼を受けていなくても、あなたはイエスを信じていればクリスチャンである。よく、「クリスチャンか」と聞くと、「洗礼“は”受けていない」と答える人がいる。では、受けない理由は何か。自分の心に聞いてみよう。「家族がクリスチャンじゃない?」「お墓どうする問題?」「まだ信心深くない?」・・・それらは、本当にあなたが大好きな(大好きになろうとしている)イエスより大事なのだろうか。イエスは、あなたがどんなに「いい人」なのかは全く気にしていない。さぁ、イエスの腕の中に飛び込もう!

 あなたがイエスを信じ、イエスと一緒に生きたい! と思うのであれば、私はすぐにでも洗礼を受けることをオススメしたい。

 

さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方(イエス)の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。

(使徒の働き 22:15)

 もちろん、まだ踏み出せない、という方もいらっしゃるだろう。ゆっくりでもいい。洗礼は救いの条件ではない。しかし、信じる決心ができたなら、すぐに受けることをオススメしたい。

 

 

▼「洗礼」は牧師の特権なのか

 さて、本記事のメインディッシュ。洗礼は牧師の特権なのか。洗礼はその大切さが強調されるあまり、ほとんどの教会では、洗礼を授けるのは牧師だけの特権となっている。牧師でなければ洗礼を授けてはいけないというのは、本当だろうか。聖書の中の例を見ていこう。

 

【聖書の中で洗礼を授けた人リスト】

※(?)付きの人物は、その人が授けたという明確な記述がないが、文脈からほぼ明らかに授けたと分かる人々。

・バプテスマのヨハネ

・バプテスマのヨハネの弟子たち(?)

・イエスの弟子たち

・ペテロ(?)(使徒2章)

・12弟子やほかの弟子たち(?)(使徒2章)

・ピリポ

・アナニア(?)(使徒9章・サウロ<パウロ>に授けた?)

・ペテロに同行した人々(?)(使徒10章・コルネリウスと家族に授けた?)

・パウロ(1コリ1章)

・シラス(?)(使徒16章・看守に授けた?)

・アポロ

 洗礼を授けたと明確に記述がある人は、意外に少ない。では、彼らは「牧師」だったのだろうか。実は、ただの1人も牧師ではないのである(※というか、牧師っていう職業自体ほとんどなかったのだが、またこれは別の機会に)

 バプテスマのヨハネは祭司の息子だから、それなりの教養はあったであろう。しかし、ペテロは、イエスの弟子だったが、神学教育は全く受けていない、ただの田舎の漁師だった。ヨハネやイエスの弟子たちも、ほとんどが田舎者であった。取税人出身者もいた。右翼活動家もいた。ピリポは、使徒ですらない、教会の事務職だった人物である(使徒6章参照)。

 アナニアに至っては、単に「アナニアという弟子がいた」と書いてあるだけ(使徒9章参照)。そのアナニアが、あのパウロに洗礼を授けたのであった(※「パウロは立ち上がってバプテスマを受けた」としか書いていないので、もしかすると洗礼を授けたのはアナニヤではない可能性はあるが、十中八九アナニヤが授けたのであろう)。アポロなんかは、イエスの弟子でもないし、「聖霊」の理解もないのに、勝手に洗礼を授けていたのである。

 これらの例を見ると、「牧師でないと洗礼を授けてはいけない」という考えは、全く根拠がない。アナニヤはどうなのか。ピリポはどうなのか。アポロはどうなのか。私たちは、イエスの弟子である。イエスの弟子であるなら、誰でも洗礼を授ける資格がある。その資格は神から来るものだ。「牧師」という称号がその資格を与えるのではない。

 パウロは、洗礼=バプテスマについてこう言っている。

 

あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。キリストが分割されたのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。私は神に感謝しています。私はクリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けませんでした。ですから、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたとは、だれも言えないのです。(中略)キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が虚しくならないようにするためです。

(コリント人への手紙第一 1:12~17)

 コリントの教会では、「誰に洗礼を受けたか」によって争いがあった。パウロはそれを「バカじゃねぇのお前ら」と一蹴したのである。彼は、はっきりと「私はバプテスマを授けるためではなく、福音を述べ伝えるために遣わされた」と宣言した。よく、クリスチャンの中に「私は●●先生から洗礼を受けました」と言う人がいるが、このコリントの箇所を読んだことがないのだろうか。誰が洗礼を授けたかは、全く意味がない。

 パウロに倣うのであれば、牧師ならむしろ、洗礼を授けないべきだ。洗礼を何人授けたかが重要ではなく、どれだけ福音を述べ伝えたかが重要なのである。

 

 

▼洗礼を授けることはイエスの命令

 まだ納得できない方がいるのならば、イエスのこの命令を読んでいただきたい。

 

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」

(マタイの福音書 28:18~20)

 これは、イエスの最後の命令で、「大宣教命令」(The Great Commission)と呼ばれるものだ。有名な箇所である。大宣教命令の内容をまとめると以下だ。

 

1:私(イエス)には一切の権威がある、ですから・・・(権威の宣言)

2:行け(派遣・拡散)

3:あらゆる国の人々を弟子とせよ(弟子化)

4:バプテスマを授けよ(洗礼)

5:命令を守るよう教えよ(教育)

6:私はずっと一緒にいる(約束)

 これは有名な箇所で、よく宣教をせよという内容で、一般の信徒に語られる箇所だ。これは、11人の弟子たちに語られたことだが、現代の私たち一人ひとりに語られていると受け取って異論はないだろう(※11人だけであらゆる国の人々を弟子とするのはそもそも不可能である・・・)。なぜこの「大宣教命令」のうち、「バプテスマ」だけは牧師だけの権利なのだろうか。イエスはそんなこと、一言も言っていない。

 であるとするならば、イエスの命令を実行しようとする人を、なぜとがめるのか。イエスの教えは、あなたの教会の伝統より価値がないのだろうか。あなたは、教会や教団の伝統を、イエスの命令より優先するのか。イエスは、そのようにしていたパリサイ人を批判したのではないのか。

 

またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました。それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物はコルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うなら-』と言って、その人が、父または母のために何もしないようにさせています。このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです」

(マルコの福音書 7:9~13)

 イエスの命令を無視し、あなたの教会や教団、「キリスト教」の伝統を優先させるならば、あなたは神のことばを空文化しているのである。あなたは、イエスの教えを無下にしているのである。

 洗礼は、イエスを信じる、イエスの弟子、クリスチャンであるならば、誰でも授けることができる。むしろ、そうせよというイエスは命令している。そして、それは名誉とはならない。名誉と栄誉を受けるのはただ一人、イエスご自身である。

 

 

▼おまけ1:「滴礼」と「全浸礼」はどちらが望ましいか

 さて、最後に2つだけ付け足したい。まず前編の最初に記述した、「滴礼<てきれい>」「全浸礼<ぜんしんれい>」の是非について述べる。

 

 「滴礼」と「全浸礼」どちらが望ましいのか。聖書を読むと、バプテスマのヨハネや、イエスの弟子たちは、川や泉で洗礼を授けていた。ピリポは宦官に「水のあるところ」で洗礼を授けた。また、洗礼の語源、「バプテゾー」は「浸す」という意味である。これらを素直に受け入れれば、前身が水に浸る、「全浸礼」が望ましいとも取れる。

 ただ、パウロの場合はどうか。アナニヤは、パウロが泊まっていた家で、パウロのために祈った。そのとき、パウロの目からうろこが落ちて、見えるようになった。そして、パウロは「立ち上がってバプテスマを受けた」と書いてある。それがその家だったのか、それとも泉や川に行ったのかは不明だ。家の中で、そのまま「滴礼」または「灌水礼<かんすいれい:頭に水を注ぐ>」のように行った可能性もある。ほかにも、一日に3000人が洗礼を受けたりしていたことから(使徒2章)、「全浸礼」は難しかったのでは、という指摘もある。

 私は、別にどっちだっていいと思う。それでケンカするくらいなら、しない方がいい。大切なのは儀式の意味合いで、形ではない。大切なのは、洗礼の方式ではなく、イエスに対する信仰だ。

 個人的好みを言えば、全浸礼の方が好きである。なぜなら、イエスを信じ抜くという人生の大きな決断を、水でチョロチョロっと頭を濡らしただけでは、どうも物足りなく感じるからだ。人生で一番大きくて、大切な決断なのだから、全身ザブンと水に入って出る儀式をした方が、それっぽいだろう。記憶にも残る。全身が生まれ変わる。「バプテゾー」の意味は「浸す」。それら全てを総合的に考えて、個人的な好みは「全浸礼」である。

 私が洗礼を受けた時に参加していた教会は、「滴礼」が基本だったが、頼み込んで川での「全浸礼」にしてもらった。牧師は快く受け入れてくれたし、同時に洗礼を受けた仲間もそうした。思い出に残る式だった。でも、別に好みなので、あなたが信仰を持って選んだやり方が正しいと思う。

 

 

▼おまけ2:「幼児洗礼」の是非

 では、生まれたばかりの赤ん坊に洗礼を授ける「幼児洗礼」はどうだろうか。これは、「滴礼・全浸礼」の議論とは少し違う。私の意見では、幼児洗礼はオススメしない。なぜか。以下のような点が理由である。

 

1:幼児は、洗礼の大大大前提である、福音の理解とイエスを信じる判断ができない。

2:イエスを信じていない洗礼に意味はない。頭が濡れるだけ。

3:将来的に、「幼児洗礼を受けた」という事実が「言い訳」となり、「自分の意思での洗礼」から遠ざける危険性がある。

4:聖書に幼児洗礼をした例はない。

 幼児洗礼をする人たちの心境は、以下の2点であろう。

 

1:幼児がすぐ死んでしまったら救われないかもしれない。洗礼を受けさせれば救われる。

2:親が子どもを神に捧げる意思を示す。

 1については、今までさんざん述べたように、洗礼について全く間違った解釈をしているので、改めて論評するに値しない。もし1のようなモチベーションで幼児洗礼を受けさせるのであれば、間違っている。

 2については、その心情は理解できる。旧約聖書で、サムエルの母ハンナが子どもを捧げる宣言をしたように(1サムエル1:11)、そのような宣言を両親がするのは良いことであると思う。しかし、そうしたいのであれば、ただその宣言を公にすればいい話であって、幼児洗礼をする理由にはならない。

 いたずらに幼児洗礼をしてしまうと、3で示したように、「幼児洗礼を受けたから」というのが「言い訳」となってしまい、「自分の意思での洗礼」を阻害してしまう可能性がある。もし、あなたの決断があなたの子どもを信仰のスタートである洗礼から遠ざけてしまうのであれば、あなたの幼児洗礼の決断は、害悪以外の何物でもない。あなたの自己満足のために、イエスが死んでまで愛してくださった、あなたの子どもを滅ぼさないでいただきたい。幼児洗礼はオススメしない。子どもを捧げるのであれば、洗礼ではない別の儀式や宣言によって示すべきである。

 ただ、既に幼児洗礼を受けた人は、悩む必要はない。それはただ頭が濡れるだけの儀式なのであるから、意味はない。あなたがイエスを信じたいのであれば、洗礼を受ければ良いと思う。ぜひ!

 

▼おまえはもう死んでいる

 今回の記事の概要をまとめたい。

 

1:「洗礼」はクリスチャンになる条件なのだろうか。

→違う。洗礼はイエスを信じた人の誓約式である。救いの条件は水ではなく、イエスの血である。

 

2:洗礼を受けるためには「準備コース」たるものを受講しなければならないのだろうか。勉強して理解した上でないと、洗礼を受けてはいけないのだろうか。

→違う。洗礼に必要なのは、福音の理解とイエスへの信仰だ。学びはその後で良い。

 

3:洗礼を授けるのは牧師だけの特権なのだろうか。

→全く違う。むしろ、洗礼を授けるのはイエスの命令である。イエスを信じる者ならば、誰でも洗礼を授けて良い。

 洗礼を受けたあなたは、既にこの世では死んでいる。しかし、イエスを信じるなら、神の息、神の霊があなたの中にある。イエスによって、あなたは新しい存在として生まれ変わったのだ。その生まれ変わりを象徴し、あなたの信仰を宣言する儀式が「洗礼」である。生まれ変わったあなたは、他の人にもその祝福、「良い知らせ(福音)」を伝える特権が与えられている。目の前の友達が、イエスを受け入れる準備ができたなら、さぁ、父、子、聖霊の名前によって洗礼を授けようではないか。

 

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。

(ローマ人への手紙 6:4)

 

私たちは、新しいいのちを歩んでいるのである。

 

(了)

 

◆このブログの筆者の小林拓馬は、現在、完全オンラインのプロテスタント教会「クラウドチャーチ」の牧仕として活動しています。

 

◆小林は、Podcast&YouTube「まったり聖書ラボ」でも発信中!

 

※この記事の聖書の言葉は、特に断りがない限り、<聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会>から引用しています。

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