神の導きの必要”
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、
”神の導きの必要”について考えてみました。私たち人間は誰でも神の導きが必要であることを認める必要があります。
「主はへりくだる者を公義に導き、へりくだる者にその道を教えられる」(詩篇25:9) 聖書は神からの導きを受け取るために必要なことが幾つかあることを教えていますが、まず私たちは自分には神の導きが必要であるということを認める謙遜さが必要です。高慢な者は自分の考えだけを頼りにし、神の導きにも人の助言にも耳を傾けようとしません。そのためにしばしば落とし穴に落ちてしまうことがあるのです。聖書は人間を羊に例えていますが、人間と羊とは多くの共通点があります。たとえば、羊は生まれつき道に迷う傾向がありますが、人間もそうです。預言者イザヤはこう言っています。
「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。」(イザヤ53:) これは、私たちが神の御心を知らない理由です。実際のところ、ほとんどの場合において、私たちは神や他の人の言う事に従いたくないのです。私たちはみな自分の思う道を行きたがります。私たちは、自分に指示が必要であるとか、導きが必要であるなどとは認めたくないのです。 羊に関するもう一つの特徴は、視力が弱いことです。彼らは遠い前方を見ることができません。彼らは崖に向かって歩いていても、それが分かりません。だから彼らには羊飼いが必要なのです。それは私たち人間も同じです。私たちも将来を見ることができません。私たちは明日何が起こるかを知りません。ましてや来年、あるいは10年後に何が起こるか知りません。私たちは今日の午後に起こることすら知らないのです。 神は、どんなに頑張っても将来を見ることができないようにあなたを造られました。たとえ将来を予言するためのあらゆる情報を持っていたとしても、あなたは将来何が起こるかを本当には知ることはできないのです。では、なぜ神はそうされたのでしょうか。それは、あなたが神に頼るようになるためです。 私たちは、将来を見ることができないので、しばしば躓きます。箴言14:12には、
「人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある。」と記されています。私たちは皆、その時は正しいと思えたものが後になって間違いであったと分かるような決断をすることがあります。自分の知識と経験だけに頼ると、その道が行き詰まりになり、そこで私たちは困り果ててしまうのです。だからこそ私たちは、「私には神の導きが必要である」という大切な事実を認め、
「神様、私を助けて下さい」と祈る必要があるのです。
今日の 一言: 私には神の導きが必要である 平安鶴田牧師
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