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- 私に取って何が正しい宗教なのでしょうか?
ファーストフードのお店では、色々魅力的な食べ物がそろっていて、自分の食べたい物をオーダーできますし、数百もの違った香りや種類のコーヒーを自慢にしているコーヒーショップもあります。家や車の購入でさえ、私達の欲しい全てのオプションや特別なことを要求出来ます。私達は最早、アイスクリームのチョコレートやバニラやストロベリーのフレーバーを選択するような世界にだけ住んでいるのではありません。選択は王様なのです。あなたは、自分の個人的な好き嫌いや必要に応じて何でも見つけることが出来るのです。では、あなたの希望に丁度合う宗教については如何でしょうか。罪のことなど言わない、何も要求しない、沢山のうるさい規則であなたをじゃまするようなことが無い宗教、は如何がでしょうか。丁度私が書いたように、そのような宗教はそこ
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- 4つの霊の法則とは何でしょうか?
4つの霊の法則とは、イエス・キリストを信じることによって得られる救いの福音を分かち合う方法です。それは、福音の伝える大切な情報を、解りやすい4つのポイントにまとめたものです。4つの霊的法則の第1の法則は、「神は、あなたを愛しておられ、あなたの人生にすばらしい計画をお持ちです。」ということです。「神は、実に、そのひとり子〔キリスト〕をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子〔キリスト〕を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3:16)。キリストは、「わたしが来たのは、羊〔あなた〕がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」と言われました。(ヨハネの福音書10:10)それではどうして私達は神の愛を経験していないのでしょうか。何が、豊かな人
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- 救いの方法は何ですか?
渇きを覚えていませんか? 肉体的な渇きではなく、人生において渇きを覚えていませんか? 何か、あなたの心の深いところで、決して満たされない思いを感じていませんか? もしそうなら、イエスがその思いに答えることが出来るでしょう。イエスは言いました。「わたしがいのちのパンです。わたしに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネの福音書6章35節)あなたは混乱していますか? 人生の方向や目的が見つけられないような思いをしていませんか? それはなんだか、誰かが部屋の明かりを消してしまい、暗闇の中でスイッチを見つけることが出来ないような思いですか。もしそうなら、イエスがその迷いに答えることが出来るでしょう。イエスは言われました。「わたしは、世
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- 罪人の祈りって何ですか?
罪人の祈りとは、人が自分が罪人であること、自分には救い主が必要であることを理解した時に、神に祈る祈りのことばです。罪人の祈りをただ言うだけでは、何も達成されません。罪人の祈りは、純粋にその人が、自分が罪人であり、自分に救い主が必要であることを知り、理解し、信じた時にのみ有効となるのです。罪人の祈りの第一の特徴は、私たちすべてが罪人であることを理解することです。ローマ人への手紙3章10節で「それは、次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。ひとりもいない』」と宣言しています。聖書は、私たちすべてが罪を犯したとはっきりと言っています。私たちすべてが、神からの憐みと赦しを必要とする罪人です(テトスへの手紙3章5節-7節)。私たちの罪のゆえに、私たちは永遠の刑罰を受けるべき者であります(マタイ
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- ボーンアゲンしたクリスチャンってどういう意味?
ボーンアゲンしたクリスチャンってどういう意味?聖書でその答えが書いてある個所はヨハネの福音書3章1節から21節までです。主イエス・キリストはサンヘドリン(ユダヤ人を支配していた)のメンバーでパリサイ人で指導者だったニコデモという人に話をしています。ニコデモは、夜、イエスさまを訪ねました。ニコデモはイエスさまに質問をもって来たのです。イエスさまはニコデモと話をし、彼に言いました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言いました。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができますか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」イエスはお答えになりました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、
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- どのようにして神の義を受けることができますか?
神からの「義」を受けるには、私たちはまず何が「間違い」なのか知らなければなりません。その答えとは罪です。「善を行なう者はいない。ひとりもいない」(詩篇14編3節)。私たちは神の命令に対し反抗したのです。「私たちはみな、羊のようにさまよい」(イザヤ書53章6節)とあるように。悪い知らせは、罪に対する刑罰は死であること「罪を犯した者は、その者が死ぬ」(エゼキエル書18章4節)ということです。良い知らせは、愛なる神が、私たちに救いをもたらすことを達成されたということです。イエスさまは、ご自分の目的を「失われた人を捜して救うために来たのです」とおっしゃっています(ルカの福音書19章10節)。そして、イエスさまが十字架の上で死なれた時、その目的が達成されたことを「完了した」という言葉で宣言されました(
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- イエスさまが天国への唯一の道なのですか?
「私は基本的に良い人間です。ですから私は天国に行くでしょう」「私は少し悪いことをしましたが、でも、もっと多くの良いことをしました。だから私は天国に行けるでしょう」「神さまは、私が聖書に従って生活しないからといって地獄に送ることはないでしょう。時代は変わったんだよ」「子どもたちに対する性犯罪者とか殺人犯などの、本当に悪い人たちだけが地獄に行くのよ」これらはすべて、ほとんどの人々の共通の考えです。しかし、実際のところ、これらは全て偽りです。この世を支配するサタンは、私たちの心にこのような考え方を植えつけます。サタンとサタンの道について行く者たちは誰でも、神の敵なのです(ペテロの手紙第一5章8節)。サタンはいつも良い者のように変装し(コリント人への手紙第二11章14節)、彼は神に属さない人たちの心
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- どのようにしたら、私たちが死んでから天国に行くことを確信することができますか?
あなたには、永遠のいのちが与えられていて、死んだら天国に行くという確信がありますか?神さまは、あなたに確信を持って欲しいのです!聖書は言っています。「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」(ヨハネの手紙第一5章13節)。もし、あなたが今神の前に立ったとします。神が「なぜ、わたしはあなたを天国に入れなければならないのですか?」と尋ねたとしたら、あなたは何と答えますか。どう答えたらいいかわからないかもしれません。あなたが知らなければならないことは、神が私たちを愛してくださっていること、そして、どこで私たちが永遠に過ごすのかを確実に知ることができる道を用意してくださっていることです。聖
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- イエスさまをあなた個人の救い主として受け入れるというのはどういう意味ですか?
あなたはイエス・キリストをご自分の救い主として受け入れたことがありますか?答える前に、質問の説明をさせてください。正しくこの質問を理解するために、まずは「イエス・キリスト」「個人」「救い主」という言葉を正しく理解しなければなりません。イエス・キリストって誰? 多くの人々がイエス・キリストのことを良い人、すばらしい先生、または、神の預言者と認めるでしょう。これらは、イエスさまに関する動かしがたい真実ですが、イエスさまが本当は誰であるかについては、明らかにしていません。聖書は、イエスさまは肉の形をとった神であり、人となった神であると言っています(ヨハネの福音書1章1節、14節参照)。神さまは私たちを教えるために、癒すために、正すために、赦すために、そして私たちのために死ぬために、この地上に来られ
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- どのようにして神の赦しを受けられますか?
使徒の働き13:38は「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。」と言っています。赦しとは何でしょう?また、なぜそれが必要なのでしょう?「赦し」という言葉は、過去を水に流す、赦免する、負債を帳消しにするという意味です。私たちが誰かに過ちを犯す時、私たちはその関係を修復させるために、彼らの赦しを求めます。赦しは、赦されるにふさわしい人だから与えられるのではありません。だれひとりとして赦しを受けるにふさわしくないのです。赦しは、愛の行為であり、憐れみで、そして恵みです。赦しは、何をしたかにかかわらず、相手に対してされたことを心に留めないという決意です。私たちはみな神からの赦しが必要だと聖書は言っています。私たちはみな罪を犯し
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- 死んだ後にいのちはありますか?
死んだ後にいのちがありますか?聖書は「女から生まれた人間は、日が短く、心がかき乱されることでいっぱいです。花のように咲き出ては切り取られ、影のように飛び去ってとどまりません……人が死ぬと、生き返るでしょうか」(ヨブ記14章1-2、14節)と言っています。ヨブのように、私たちのほとんどがこの質問にぶつかるでしょう。正確に私たちが死んだら、何が起こるのでしょう?私たちは単に存在することが終わるのでしょうか?いのちは個人の偉大さを達成するために、この世を出たり戻ったりする回転ドアでしょうか?みんなが同じところに行くのでしょうか?それとも、私たちは違うところへいくのでしょうか?天国とか地獄は本当にあるのでしょうか?それとも、それは単に心理的なものでしょうか?聖書は、死後の世界があるだけでなく、永遠の
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- 永遠の命を手に入れましたか?
聖書は永遠の命への明確な道を紹介しています。まず、私たちが神に対して罪を犯したことを認めなければなりません。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ人への手紙3章23節)。私たちはみな、神に喜ばれないことをしてきたので、罰を受けて当然な立場にあります。私たちのすべての罪は、最終的に永遠の神に反することなので、永遠の刑罰を受けるに値するのです。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ人への手紙6章23節)。しかし、イエス・キリストは罪を犯したことがなく(ペテロ第1の手紙2章22節)、永遠の神の御子は人となって(ヨハネ1章1節、14節)そして私たちの罪科を死んで贖われました。「しかし私たちがま
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- 【疑問】「母教会」って何? ~“教会籍”という謎のシステム~
「母教会」「教会籍」「転会式」っていう耳慣れない謎の言葉を、クリスチャンの世界ではよく耳にする。なんやそれ? ▼「母教会」という謎の言葉 ▼「母教会」「教会籍」とは何か ▼「教会籍」システムの弊害 ▼外側から見た「教会籍」の違和感 ▼そもそも「教会」とは? ▼聖書に「教会籍」の根拠はあるのか ~概念的な“教会”と地域的な“教会"~ ▼現代においての地域教会のあり方 ▼クリスチャンは、もっと自由になったらいい ▼「母教会」という謎の言葉 世間はゴールデンウイーク真っ只中。地元に里帰りする人も多いだろう。クリスチャンの世界では、こういう時期に、よく「連休中は母教会に帰る」という表現を耳にする。母教会・・・? なんやそれ。クリスチャン世界のよくワ
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- 【疑問】清く正しく生きることが「証<あかし>」になるのでしょうか?
教会で悩み相談をすると、よく「そんなの証し<あかし>にならないよ!」と言われます。どういう意味でしょうか? ▼証しにならない?! ▼「証し」の言葉の意味 ▼クリスチャンたちが言う「証し」とは? ▼「良い行い」を備えるのは神 ▼弱い時こそ強い ▼「地の塩、世の光」とは? ▼証しにならない?! 「それは証し<あかし>にならないよ」。教会でよく言われる言葉だ。「証し<あかし」という単語にピンとこない人も多いかもしれない。要するに、「そんな生き方を他人に見せたら、クリスチャンらしくないからやめなさい!」という意味である。例えば、酒を飲むとか、テストでいい点をとらないとか、きちんと働かないとか、失敗してくよくよ悩んでいるとか、そういう姿である。そういう人たちに対し
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- 【提起】「とりあえず伝道師」そろそろやめてみませんか?
神学校を卒業した人は、すぐに「牧師」にならずに、「伝道師」となるケースが多いそうです。なぜなのでしょうか? ▼「とりあえず伝道師」 ▼そもそも牧師と伝道師は別の役割 ▼「五職・四職」とは ▼人手不足の牧師業界 ▼完璧な牧師などいない ▼牧師とか伝道師とかいう肩書きはオマケ ▼「とりあえず伝道師」 「牧師になるには、どうすればいいの?」よくある質問のひとつだ。私は、「日本には牧師という国家資格はないので、今すぐにでもなれますよ」と答える。実は、牧師になる明確な条件、資格などない。団体に所属する牧師になりたいのであれば、各団体の基準があるだろう。特定の学校を卒業するのが条件だったり、特定のトレーニングを受けるのが条件だったりする団体もある。団体に所属しな
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- 【疑問】「奉仕」をたくさんする人は偉いのか?<後編> ~奉仕で燃え尽きないために~
「奉仕」で燃え尽き症候群になってしまうクリスチャンが大勢います。何が問題なのでしょうか。 ★前編はこちら★ ▼「奉仕とは何か ▼あなたの居場所は「奉仕」ではない ▼「御恩と奉公」が奉仕の理由 ▼教会の実態に見合わない奉仕 ▼あきらめる勇気 ▼奉仕を辞める勇気 ▼「無償」は当たり前ではない ▼支え合うコミュニティ ▼マルタとマリアの話 ▼「奉仕とは何か 前回の記事<前編>では、奉仕とは何かまとめた。聖書において、「奉仕」は、様々な場面で登場する単語である。奉仕は教会の中のピアノの奏楽や案内係、といった小さな枠には収まらない。あなたの人生そのものが「奉仕」なのだ。 日本語の「奉仕」には「君主のそばにいて働く」という意味がある。あなたは君主た
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- 【注意】「教会教」に気をつけろ!
キリストを信じるのが「クリスチャン」ですが、キリストよりも「教会」を大事にしてしまっている人がいます。どういうことでしょうか。 ▼「教会教」の信者たち ▼「教会」という単語の意味 ▼イエスが示した「教会」の定義 ▼「教会」の目的とは何か ▼聖書の言葉VSキリスト教の伝統 ▼「教会教」に陥らないために ▼「教会教」の信者たち 上京した時、東京に知っている教会はなかった。仕方なく、家の近くの教会を巡ってみた。何週間か経ったある日曜日、訪れた教会で嫌な思いをした。礼拝会が終わると、私より2、3年上の若い男性が話しかけてきた。牧師の息子だという。「普段はどこの教会に行ってるの?」彼は言った。「上京したてなので、まだ教会探してます」僕は答えた。「まだ教会探して
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- 【疑問】「洗礼」はクリスチャンになる条件なのか?<前編> ~洗礼はきよめではない~
「洗礼」を受けないとクリスチャンにはなれないのでしょうか。 ▼ハードルが高い「洗礼」 ▼「洗礼」の意味とは ▼新約聖書の「洗礼」 ▼洗礼はきよめの儀式ではない ~よくあるカンチガイ~ ▼旧約聖書の「洗礼」の伏線 ▼ハードルが高い「洗礼」 クリスチャンになるには、「洗礼<せんれい>」を受けないといけない。多くの日本人がそう思っていることだろう。ハッキリ言う。それは間違いだ。 イエスを信じている友人が相談してきた。「牧師に洗礼を受けたいと言ったら、『じゃあ洗礼準備コースを受講してください」と言われたとのことである。準備コースの期間を聞くと、6ヶ月だという。それを終えないと洗礼は受けられないということだった。 彼は、「今すぐにでもクリスチャンになりたいのに、あと6
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- 【疑問】「みこころの相手」は存在するのか?
クリスチャンたちのいう「みこころの相手」、いわゆる「定められた結婚相手」なるものは、存在しているのか? ▼「みこころの相手」とは? ▼神が結婚相手を定めたケースは圧倒的少数 ▼実例1:イサクのケース<単なる棚ぼた野郎> ▼実例2:サムソンとティムナの女のケース<ドロドロ愛憎劇> ▼実例3:ホセアとゴメルの女のケース<かわいそうなホセア> ▼「みこころの相手」は「赤い糸で結ばれた相手」ではない ▼感情も神から与えられるもの ▼結婚は聖書のはじめから終わりまで記されている神の奥義 ▼「みこころの相手」とは? クリスチャン同士で話していると、よく「みこころの相手」というフレーズを聞く。いわゆる「みこころの相手」とは、「神が定めた結婚相手」を指す。
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- 【疑問】クリスチャンは土葬じゃないとダメなのか?
クリスチャンの埋葬は、どのようにすべきなのか? クリスチャンではない人に聞かれたので考えてみました。 ▼クリスチャンの埋葬方法とは? ▼クリスチャンの復活についての基本的信仰 ▼ユダヤ教の復活についての信仰 ▼バプテスマのヨハネは何と言ったのか ▼オマケ:ひからびた骨からよみがえる ▼クリスチャンの埋葬方法とは? 「クリスチャンって死んだ後、死体の埋葬はどうするの? 土葬じゃないといけないの?」ある日、友人からこんなことを聞かれた。「埋葬の方法」は、20代の私にとって、正直言って、あまり考えてこなかったテーマだ。しかし、人間いつ死ぬか分からない。自分の考えを、今のうちにまとめておくのも悪くはない。果たしてクリスチャンは土葬すべきなのか、それとも火葬がよいのか。
- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......