神が全知であるとは?

”全知”ということばは、”完全な知識がある状態。すべてを知っているという素質”と定義されます。神がすべての被造物―目に見えるものであっても見えないものであっても―の支配者であるためには、全知でなければなりません。神の全知という素質は、三位一体の神のうちのひとりの位格だけに限られているのではなく―父、子、聖霊の皆が本質的に全知なのです。 神は何もかもご存知です。(第1ヨハネ3:20)神は私たちの生活の詳細を知るだけでなく、私たちを取り囲むすべて をもご存知です。なぜなら、神は, 雀が地に落ちるのも、私たちの髪の毛一本が抜けるのさえもご存知だと述べておられるから。(マタイ10:29-30)神は歴史の終わる時までに起こるすべての事をご存知であるだけでなく、(イザヤ46:9-10)私たちの思いが口に

神はどんなかたちに見えるのですか?

神は霊です。(ヨハネ4:24)それで神の外観は私たちが説明できるようなものではありません。出エジプト記33:20は「また仰せられた。『あなたは わたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。』」と記しています。罪ある人間が完全な栄光に包まれた神を見ることは不可能なのです。神の外観は全く想像に足りず、あまりにも栄光に輝いているので、罪ある人間が見て安全なことはないのです。聖書は、時折神が人々に現れる事を書いています。これらの例をとって、神が正確にどのような外観を持っておられるかを現わしていると解釈してはなりません。それよりも神が私達人間が理解できるようなかたちでご自分を現わしてくださったと理解すべきです。神がどんなかたちで見えるのかということは、私た

神が全能であるとはどういう意味ですか?

全能(ominipotent)ということばは、”全”omini という意味のことばと力potentという意味のことばから来ています。全知、偏在という性質と共に、もし神が無限で主権がある方なら、もちろん神はその通りですが、それなら、もちろん神は全能でなくてはなりません。神はすべての上に、またどんな時でも、すべての方法で、力があるのです。 ヨブ記42:2でヨブは神の力について述べています。「あなたには、すべてができること、 あなたは、どんな計画も成し遂げられることを私は知りました。」ヨブは神がすべての計画を行うことができる全能の力を持っておられることを認めているのです。モーセも、イスラエルに関するすべての目的を完全に成し遂げるためのすべての力が 神にあることを神から思い起こさせられています。「主

神は公平?

私たちにとって幸いなことに、神は公平ではありません。公平ということは、誰もが当然受けるべきものを受け取るということになります。多くの人にとっては、公平とはすべての人が同じように扱われるという意味です。もし、神が完全に公平なお方だったら、すべての人が自分の罪を償うために永遠に地獄にいることになります。それが私達が当然受けるべきものだから。私達はみな、神に対して罪を犯しました。( ローマ3:23)だから、当然永遠の死に価するのです。(ローマ6:23)もし、私たちが当然受けるべきものを受けたなら、火の池に投げ込まれていたでしょう。(黙示録20:14-15)しかし、神は公平ではないのです。その代わり、神は憐れみ深く、良いお方 なのです。それで、イエス.キリストを私達の身代わりに、私たちが受けるべき罰

神が無限であるとは?

神の無限の性質とは、単に、神は時間や空間の外に存在し、またそれに左右されないという意味です。無限とは単に「限界なしに」という意味です。神が無限だという時、私達は一般的に全知、全能、偏在などということばを使います。全知とは、神はすべてをご存知で、無限の知識を持っておられるという意味です。神の限りない知識が、すべてのものの支配者、裁き主としての資格を神に与えるのです。神はすべての起こる事柄を知るだけでなく、起こったかもしれないすべての事をも知っておられるのです。神をびっくりさせるものは何もありませんし、誰も神から罪を隠すことはできません。聖書には神の性質のこの面を現わす聖句がたくさんあります。そのような聖句の一つが第1ヨハネ3:20です。「、、神は私達の心よりも大きく、そして何もかもご存知だから

神が永遠であるとはどういう意味ですか?

永遠ということばは、「永久に続く、始めも終わりもない」という意味です。詩篇90:2は神の永遠性について述べています。「山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。」人間はすべてを時間で測りますから、始まりもなく、ただいつも存在していて永遠に存在し続ける何かを考え出すことは非常に難しいことです。しかしながら、聖書は神の存在も神の永遠性も証明しようとはしません。ただ、「初めに神が、、、」(創世記1:1)で始まります。それで、時が記録される始めに、神がすでに存在していたことを暗示しています。過去に無限に伸びる期間 から、前に伸びる無限の未来の期間まで、永遠の時から永遠まで、神はおられ、また永遠におられるのです。 モーセが神のメッセージ

父なる神という概念をどう理解すべきですか?

「私たちが神の子どもと呼ばれるために、―事実、いま私たちは神の子供です。―御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。」(第1ヨハネ3:1)この箇所は、(原語では) 「見なさい」という命令で始まっています。ヨハネは御父の愛の掲示を観察したかったのです。ヨハネはこれより前の章で神の愛という話題を紹介しました。(第1ヨハネ2:5、15)ここでは短く説明し、次に4章で詳しく説明します。ヨハネの目的は、御父がその子どもたちに下さる愛がどんな種類のものか、「どんなにすばらしい(偉大な)愛か」述べることです。「どんなにすばらしい」と訳されているギリシャ語は、新約聖書では6回しか出てきませんが、必ず、驚きと称賛を暗示しています。ここで注目すべ

神の栄光とは?

神の栄光とは、神の霊の美しさです。それは、美術的な美でも物質的な美でもありません。それは、神の性質から、神が神であることのすべてから発散する美なのです。 ヤコブ1:10は、富んでいる人に、「自分が低くされることに誇りを持ちなさい。」つまり、光栄だと思いなさいと言って, この光栄(栄光)は富や力や 物質的な美ではないという意味だと暗示しています。この栄光は人を飾ることもできるし、地を満たすこともあります。それは人のうちに見られることもあり、地の中に見られることもありますが、人間の栄光でも地の栄光でもなく、神の栄光なのです。人の栄光は人の霊の美ですが、誤りに陥りがちでついには無くなってしまうので、この聖句が言ってるように、低くされるものなのです。しかし、神の栄光は神の性質すべてのうちに現れていて

神に失望するのは間違ったことですか?

神に失望することは必ずしも間違ったことでも罪深いことでもありません。それよりも、それは人間の状態です。”失望”という単語は、”人の希望、願いや期待が外れた時の不満な気持ち”という意味です。神がなぜか私達の望みを満足させられなかったり、期待に沿わなかったりすると、失望を感じるのは避けられません。神が私達の思うとおりにことを行われなかった時、私達は神に幻滅したり、神の行動に不満を感じたりします。そうすると、神に対しての信仰が揺れ動くことがあります。特に神の主権と神の善良さに対して。 私達がこうすべきだと思うとおりに神が行動されない時、神にそうする能力がないからではないのです。それよりも単に神はそうすることを選択されなかっただけなのです。これは、神が勝手で、気まぐれ なように見えるかもしれませんが

神に対して腹を立てることは悪いことなのでしょうか?

神に対して怒りを持つことは、多くの人―信者でも未信者でも―がしばしば格闘してきたことです。私たちは人生で何かの悲劇が起こる時 、神様に質問します。「なぜ?」と。それは私たちの自然の反応だからです。しかしながら、私たちが本当に聞いているのは、「どうして、神様?」というよりも、「どうして私が?」と言っているのです。この反応は私たちの考え方に二つの欠点があることを示しています。第一に、信者として、私たちは人生は容易くあるべきで、神は私たちに悲劇が起こらないように守って下さるべきだという印象の元に行動します。神が悲劇から守ってくださらないと、私たちは神に対して腹を立てます。第二に、神の主権の及ぶ範囲を私たちが理解しない時、私たちは、状況や他の人たちやそれが私たちに及ぼす影響などを支配する神の能力に自

神の存在についての論拠がありますか?

神が存在するという決定的な論拠があるかどうかという質問は歴史を通して議論されてきました。非常に聡明な人たちがその議論の両方に立って討論して来ました。最近では、神の存在の可能性に反対する論議が、恐れずに神を信じる人を妄想性があって理性に欠けると責めるほど、戦闘的な心を持つほどに変ってきています。カール.マルクスは、神を信じる人は誰でも妥当でない考え方をさせる精神病にかかっているに違いないと主張しました。精神医学者シグモンド.フロイドは、創造主なる神を信じる人は妄想にかかっていて、フロイドの考えでは不当な立場を産み出す「願望の成就」の要因によって、そのようなことを信じているだけだと、書きました。 哲学者フレドリック.ニーチェは、信仰とは真理を知りたくないことと同じだといいました。 歴史上のこれら

今まで神を見た人はいますか?

聖書は、主イエス・キリスト以外に神を見たことのある人はいないと言っています(ヨハネ1:18)。出エジプト記33:20で、神は宣言されています。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」これらの聖書の箇所は、人々が神を「見た」と説明されているほかの箇所と相反するように見えます。たとえば、出エジプト記33:19-23はモーセが神と「顔と顔をあわせて」話したと説明されています。もし、だれも神の顔を見て生きていることができないのなら、どうやってモーセは神と「顔と顔をあわせて」話すことができたのでしょう?この場合「顔と顔をあわせて」という言い回しは、神とモーセが非常に近しいコミュニケーションを持っていたことを示す、比喩的な表現です。神とモーセ

神に質問することは間違っていますか?

問題は、私たちが神に質問して良いかどうかというよりも、むしろどのような方法で、どんな理由で神に質問するかということでしょう。神に質問すること自体は間違ったことではありません。預言者ハバククは、主のご計画のタイミングと媒介について、神に質問しました。ハバククは、彼の質問のせいで怒られたりすることなく、忍耐深い答えを与えられ、ハバクク書を主への賛美の歌で閉じています。詩篇にはたくさんの神への質問が書かれています(詩篇10篇、44篇、74篇、77篇)。これらは、神の介入と救いを節に求める、迫害された人々の叫びです。神は私たちの質問に、私たちの望むような答えをいつでもくださるわけではありませんが、これらの聖書の箇所から、神は真剣な心からの誠実な質問を喜んで受け入れてくださるとわかります。不誠実な質問

神はなぜねたむ神なのですか?

「ねたむ」ということばがどのように使われているかを理解することが大切です。出エジプト記20:5で神を説明するために使われているのと、ねたみの罪を説明するのに使われているのとは使い方が違うのです(ガラテヤ5:20)。私たちが「ねたむ」ということばを使うとき、自分たちが持っていない何かを持っている人をうらやましがるという意味で使います。すてきな車とか家とかを持っている(持ち物)ために、誰かにねたまれたりうらやましがられたりするかも知れません。または、ほかの人たちが持っていないような能力や技術を持っている(運動の能力とか)ために、ねたまれたりうらやましがられたりすることもあるでしょう。Aもうひとつの例は、その人の美しさのためにねたまれたりうらやましがられることです。出エジプト記20:5では、神は自

一神論は証明できますか?

「一神論(モノセイズム)」ということばは、もともとふたつのことばから来ています。「モノ」は「ひとつの」という意味で、「セイズム」とは、「神への信仰」という意味です。特に、一神論は唯一の創造者であり、支える方、すべての被造物の裁き主であるひとりの本当の神への信仰です。一神論は「ヘノセイズム」、つまり、たくさんの神々がいて、その上にほかのすべての神々を超越するひとりの神がいるという信仰とは違います。また、ひとり以上の神々を信じる多神論とは相反するものです。一神論に関する議論はたくさんあります。特別啓示(聖書)、自然啓示(哲学)、歴史的人類学などからの議論がその例です。下記に簡単に説明しておきますが、これは徹底的なリストではありませんので、ご了承ください。一神論の聖書的議論 ― 申命記4:35「あ

神と聖書は性差別主義ですか?

性差別主義とは、一方の性(通常男性)がもうひとつの性別(通常女性)を支配することです。聖書には、現代の私たちの思考傾向にとって女性に対して差別的に聞こえるような表現がいくつも出てきます。しかし、覚えておかなければならないことは、聖書がなにかの行動について説明しているからといってそれを支持しているとは限らないということです。T聖書には、女性を所有物のように扱っている男性たちについて説明していますが、それは神がその行動を認めておられるという意味ではありません。聖書は、私たちの社会よりももっと、たましいを改革することに焦点を合わせています。神は、心が変わればその結果その人の行動も変わることをご存知です。旧約聖書の時代、世界中のすべての文化はほとんど族長支配形の社会でした。聖書においてだけでなく、ほ

神は、罪人である未信者の祈りを聞いてそれに答えてくださいますか?

ヨハネ9:31は宣言します。「神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。」また、「神が罪人の祈りに答えられるのは、救いの祈りだけだ」とも言われています。その結果として、ある人々は、神は未信者の祈りを聞くとか、それに答えることは絶対にないと信じています。.しかし、ヨハネ9:31の文脈では、神は未信者を通して奇蹟を起こされることはないと言っているのです。I ヨハネ5:14-15では、神はみこころにかなう願い事をすれば、神はそれに答えてくださると言われています。おそらく、この原則が未信者にあてはまるでしょう。もし、未信者が神のみこころにかなった祈りをするなら、神のみこころに従って、そのよ

なぜ神は、地震、ハリケーン、津波などの自然災害が起こるのを許されるのですか?

なぜ神は、地震、竜巻、ハリケーン、津波、台風、サイクロン、地すべりやその他の自然災害が起こることを許されるのでしょうか? 2004年にアジアで起こった津波の悲劇、2005年アメリカ合衆国南東部でのハリケーン・カタリーナ、そして2008年のミャンマーでのサイクロンは、多くの人々にとって神の慈愛を疑わせる原因となりました。何年も、何十年もときには何世紀にもわたる穏やかな天気は神の「おかげ」とほめることはしないでいて、しばしば自然災害を「神のわざ」と呼ぶことは心痛の至りです。神は、宇宙全体を創造し、自然の法則を定められました(創世記1:1)。ほとんどの自然災害は、これらの法則が働いていることの結果です。ハリケーン、台風、竜巻は、様々な天候のパターンが衝突することの結果起こります。地震は、地殻の組成

神は男性ですか?女性ですか?

聖書を調べると、2つの事実が明らかになります。最初に、神は霊であって、人間の性質や限界を持たないということ。第二に、聖書に書かれているすべての証拠からして、神はご自身を男性の形で人類にあらわされているということです。始めに、神の本当の性質を理解しなければなりません。明らかに、神は人格です。なぜなら神は個性のすべての性質を提示しておられるからです。神には、心があり、意志があり、知性があり、感情があります。神はコミュニケーションされ、人格的関係を持ち、聖書全体を通じて神の個人的な行動が示されています。ヨハネ4:24にあるように、「神は霊ですから、神を礼拝する者は霊とまことによって礼拝しなければなりません。」神は霊的な存在ですから、人間の物理的な性質を持ってはおられません。しかしながら、人間が神を

神は今も奇蹟を起こされますか?

たくさんの人たちが、ご自身を「証明する」ために神が奇蹟を起こされることを願っています。「神が奇蹟や、しるしや、不思議なことを起こしさえしたら、私は神を信じるのに!」しかし、この考え方は聖書に反します。神がイスラエルのために素晴らしく力ある奇蹟を行ったとき、 彼らはそのせいで神を信じましたか?いいえ、イスラエル人たちはすべての奇蹟を見たにも関わらず、常に、神に従わず反抗しました。神が紅海を分けるのをその目で見た人たちが、後になって約束の地に住む人々を神が征服してくださるかどうかを疑いました。この真理はルカ16:19-31に説明されています。この物語の中で、地獄にいる男が自分の兄弟たちに忠告を与えるために、ラザロを死人の中から生き返らせて送ってくださるようにとアブラハムに頼みます。アブラハムは男

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