-
- 神は心変わりしますか?
マラキ3:6に「主であるわたしは変わることがない。ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない。」と宣言されています。同じように、ヤコブ1:17には「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は主から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」と言われています。民数記23:19はこれ以上できないほどはっきりしています。「神は人間ではなく、偽りを言うことはない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」神は心変わりすることはありません。これらの節は、神が変わらず、変わらされることのない方であることを主張しています。では、創世記6:6のような節をどのように説明したらよ
-
- 神はすべての人を愛しておられるのですか?それともクリスチャンだけですか?
ある意味で、神は世界中のすべての人を愛しておられます(ヨハネ3:16、Iヨハネ2:2、ローマ5:8)。この愛には、条件はありません。神が愛の神であるという事実だけに基づいた愛です(Iヨハネ4:8、16)。すべての人類に対する神の愛は、神が、それらの人々を彼ら自身の罪によって即座に罰することはしないというあわれみを示された事実が物語っています(ローマ3:23、6:23)。神が人々に悔い改めのチャンスを与えておられるという事実によって、この世に対する神の愛が表されています(IIペテロ3:9)。しかしながら、神がこの世を愛しておられることは、神が罪を無視されるという意味ではありません。神は、正義の神でもあられるのです(テサロニケ1:6)。罪は、いつまでも罰を免れたままいることはありません(ローマ3
-
- 神への恐れを持つとはどういう意味ですか?
未信者にとっては、神への恐れとは神の裁きと、神から永遠に切り離される永遠の死に対する恐れです(ルカ12:5、へブル10:31)。信者にとっては、神への恐れはそれとはかなり違うものです。へブル12:28-29はこのことをよく説明しています。「こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。私たちの神は焼き尽くす火です。」この崇敬と畏敬こそが、クリスチャンにとっての神への恐れにほかなりません。それは私たちが宇宙の創造者に自分を明け渡す動機となる要因です。箴言1:7は「主を恐れることは知識の初めである」と宣言しています。私たちは、神がどういうお方であるかを理解し、
-
- 神は今日でも私達に語られれますか?
聖書は神が人々に聞こえる声で語っておられることを何度も記録しています。(出エジプト3章14節;ヨシュア章1節;士師記6章18;第1サムエル3章11節;第2サムエル2章1節; ヨブ40章1節;イザヤ7章3節;エレミヤ1章7節;使徒伝8章26節;9章15節、これらはほんの少しの例です。)今日でも、神が聞き取れる声で人に話しかけることができない理由は 聖書的には何もありません。神が語られたという聖書の記録は何百とありますが、私達が覚えておくべきことは、それは4000年という人類の歴史の中で起こったということです。神が聞こえる声で話されたのは、例外であって、常例ではありません。 神が語られた例の 聖書の記録でさえ、それが聞こえる声でか、心のうちでか、ただ頭にひらめいた印象であったか、必ずしも明確では
-
- 神は愛であると言うのはどういう意味ですか?
神は愛であるというのはどういう意味でしょう?まず神のことばである聖書が「愛」をどのように説明しているか見てみましょう。それから、神に当てはめられることを見ましょう。「愛は寛容であり、親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」(第1コリント13章4-8節) これが神が描写される愛の姿です。神はこのようなお方です。そして、クリスチャンもこのようになることが目標なのです。(もちろんすでに達したわけではなく、いつもその過程にあるのですが、)神の愛がもっとも偉大な形で表現され
-
- 神は悪を造られたのですか?
まず、神がすべてを創造したというのなら、悪も神によって造られたに違いないというように思えるかもしれません。しかしながら、ここで、明確にしなければいけないことがあります。“悪”は、石や電気のような“もの”ではありません。 悪の“壺”はありません。 それよりも、悪は起こるもの、ランニング(走ること)のようなものです。 悪はそれだけでは存在しません。悪とは、実は善に欠けることです。例えば、穴は実際にありますが、何か他の物の中にあるだけです。土のないところを穴と呼びますが、土から離れては存在しません。 だから、神が創造されたとき、すべては良いものでした。神が造られた良いものの中のひとつが良いものを選択する自由を持った生き物でした。本当の意味で選択ができるために、神はそこに良いもの以外の物も選択の対象
-
- 旧約聖書の神はどうして新約聖書の神と違うのですか?
この質問の核心には、旧約聖書と新約聖書が示している神の性質について、根本的な誤解があるのだと思います。この基本的な考えを人々はこういう言い方で表します。「新約聖書の神は愛の神であるのに、旧約の神は怒る神である。」 聖書は、歴史的事件や歴史の中での神と人との関係を通して、神を漸進的に啓示しているのです。この事実からして、新約聖書と比較して旧約聖書の神は違うと、人は思い違いをするのかもしれません。しかしながら、旧約と新約聖書の両方を読むと、神は旧約から新約へと変わるお方ではないし、神の怒りと愛の両方が旧約と新約のどちらにも示されているとすぐにわかります。たとえば、旧約聖書全体を通して、神はこのように表現されています。「主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、、」(出エ
-
- だれが神を造りましたか?神はどこから来たのですか?
無神論者バートランド ラッセルはその著「自分はなぜクリスチャンでないか?」でこう書いています。もし、すべてのものに原因が必要であるというのが本当なら、神にも原因が必要である。彼は、それで、もし神が原因を必要としているなら、それは神ではない、という結論に達しました。(そして、神が神でないなら、では、もちろん神などというものは存在しない、と) これは、基本的には子供らしい質問、「だれが神を造ったの?」という質問をほんの少し高尚にしたものです。子供でさえ、物質は無から存在しないと知っています。だから、神がその‘何か’であるなら、その原因もあるはずでしょう と。この質問は巧妙なところがあります。なぜなら、神は、どこからか来たものだという間違った仮定をこっそりと取り入れて、それなら、それはどこだろう、
-
- 聖書は同性愛について何と言っていますか?同性愛は罪ですか?
聖書は一貫して同性愛の行為は罪だと言っています。(創世記19章1-13節;レビ記18章22節;ローマ書1章26-27節;1コリント6章9節) ローマ書1章26-27節では、同性愛は特に神を否定し、神に従わなかった結果であると教えています。 聖書は、罪と不信を続けている人をもっとひどい悪と汚れに神が‘引き渡される’それは、彼らに、神なしには人生はむなしく、望みもないことを示すためであると教えています。1コリント6章9節では、同性愛の行為をする者は神の国を 相続することができないと宣言しています。 神は、同性愛の欲望を持たせて人を造られたわけではありません。。聖書は、人は罪のせいで同性愛者になると言っています。(ローマ書1章24-27節) そして究極的にはその人の選択でなると言います。 中には同
-
- 聖書によるとマスターベーション(自慰、手淫)は罪ですか?
聖書は特別にマスターベーションについて書いていません。またそれが罪であるかどうかは特に言っていません。しかしながら、マスターベーションをする前、そしてそれに至る過程の行いは罪であるということは疑う余地もありません。 マスターベーションは、情欲を促す思いや、性的刺激、ポルノ本や画像などのあとの結果としてする行為だからです。 まず処理する必要があるのはこれらの問題です。 もし情欲やポルノという罪を捨て去り、それに打ち勝つことができれば、マスターベーションということも問題ではなくなるのです。 聖書は見かけだけでも性的不品行に見えることは避けなさいといっています。(エぺソ人の手紙5章3節)マスターベーションがこのテストにどうやってパスするか分かりかねます。 あることが罪かどうか試す良いテストのしかた
-
- 神はなぜ良い人たちに悪いことが起こるのを容認されているのですか?
なぜ良い人たちに悪いことが起きるのでしょう?これは神学の中でも、もっとも難しい質問です。 神は永遠、全知、全能、偏在なるおかたです。私たち 人間(永遠でも無限でもない、全知全能でも偏在でもない)が神のやり方を完全に理解することができるとどうして期待すべきでしょうか? ヨブ記はこの問題を取り扱っています。 神は、サタンにヨブを殺さない限りなんでも好きなことをしていいと許可されました。ヨブの反応はどうでしたか?「神が私を殺しても、私は神を待ち望む、、」(ヨブ記13章15節)「 主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ記1章21節)神がなぜそれらのことが起こるのを許されたかヨブにはわかりませんでしたが、神が善なる神であることは知っていたので神を信頼し続けたのでした。 究極的に、私た
-
- 聖書は恐竜について何と言っていますか?聖書に恐竜は出てきますか?
恐竜の話題はクリスチャン社会において長い間続いている議論の中のひとつです。その議論とは、地球がどのくらいの年齢なのか、創世記をの正しい解釈と、私たちの周りで発見される物質的証拠をどう理解するかについてです。 地球がずっと長い年月を経ていると信じる人たちは聖書は恐竜について何も述べていないという傾向があります。なぜなら、彼らの凡例によると、恐竜は初めて人間が地上に現れる何百万年も前に死に絶えたのだからと。聖書を書いた人たちが生きた恐竜を見るはずはなかったのです。地球がはわりと短い年月しか経ていないと信じる人たちは、実際、‘恐竜’ということばを使わなくても、聖書は恐竜について述べていると言う傾向があります。恐竜の代わりに、へブル語のタニン(tanniyn) ということばが使われます。‘ タニン’
-
- カインの妻は誰ですか?カインの妹だったのですか?
聖書は、特にカインの妻が誰であったとは言っていません。唯一の可能性として、カインの妻は彼の妹、姪、または兄弟の孫娘など、、、ということになります。聖書はカインがアベルを殺した時、何歳であったか記録していません。(創世記4章8節) 二人とも、農夫だったので、充分成長した大人であり、それぞれ家族を持っていたと思われます。 アベルが殺された時、アダムとエバには、ただカインとアベルだけではなく、きっともっと多くの子供がいたでしょう。あとになって、もっと多くの子供が生まれています。(創世記5章4節) アベルを殺したあと、カインが自分の命が狙われると恐れているという事実(創世記4章14節)は、その頃にはアダムとエバに多くの子供たち、たぶん孫やひ孫たちまでもいたであろうということを示しています。カインの妻
-
- イエスは死後、復活までの3日間、どこにおられたのですか?
第1ペテロ3章18-19節で、「キリストも一度罪のために死なれました。正しいかたが悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神に導くためでした。その霊において、キリストは捕らわれのの霊たちの所に行って、みことばを語られたのです。」とあります。「霊においては」ということばは、「肉においては」ということばとまったく同じ組み立てでなっています。それで、‘霊’ということばは‘肉’と同じ範囲にあると結び付けたのがベストのようです。つまり、肉と霊はキリストの肉と霊であるというわけです。‘霊においては生かされて’というのは、キリストが罪を負って死なれたせいで、キリストの人としての霊が父なる神から分離したということを指しているのです。(マタイ27章46
-
- ペット/動物は天国に行きますか?ペット/動物には魂がありますか?
聖書は、ペット/動物に‘魂’があるかどうか、またペット/動物が天国にいるかどうかについては特に教えていません。しかしながら、聖書のいくつかの一般的な原則を当てはめ、この主題に少し光を投げかけて見ることもできます。 聖書は人間も(創世記2章7節)動物も(創世記1章30節;6章17節;7章15、22節)いのちの息を持っていると述べています。 人間と動物のおもな違いは、人間は神のかたちに似せて造られたということです。(創世記1章26-27節).動物は神のかたちに似せて造られたのではありません。 神のかたちに似せて造られたとは、神のように、霊性を持つ能力、知能、感情、意志などを持っていることです。そして、死後も続く面も持っているということです。だから もし、ペット/動物も‘魂’または、非物質的(霊的
-
- 聖書は人種の違う者同士の結婚について何と言っていますか?
旧約聖書では、イスラエル人が他の人種と結婚することはいけないとして禁じています(申命記7章3-4節)。この理由は、イスラエル人がもし、偶像礼拝者や異教徒と結婚すると、惑わされて、まことの神から離れて行ってしまうかもしれないからでした。 同じような原則が新約聖書にも述べてあります。もっと違うレベルでですが。「不信者とつり合わぬくびきを一緒につけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう?」(第2コリント6章14節) イスラエル人(唯一まことの神を信じる者)が未信者と結婚しないようにと命令されたように、クリスチャン(唯一まことの神を信じる者)も未信者とは結婚しないようにと命令されているのです。 特にこの質問に答えると、いいえ、聖書は、
-
- 異言の賜物とは何ですか?異言の賜物は今日のものですか?異言で祈るとは?
異言で話すという現象が初めて起こったのは、使徒伝2章1-4節にあるように、ペンテコステ(五旬節)の日でした。使徒たちが出て行って、群集に、それぞれのことばで福音を述べ伝えたのです。「 あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」(使徒伝2章11節).‘異言’と訳されている ギリシャ語は、文字通り“言語”という意味です。だから、異言の賜物というのは、自分の言語と違う、自分の知らないことばを話す人に奉仕するために、その人の言語で話すという意味です。第1コリント12-14章はパウロが奇跡的な賜物について書いているところですが、「ですから兄弟たち。私があなた方のところへ行って異言を話すとしても、黙示や知識や預言や教えなどによって話さないなら、あなたがたに何の益と
-
- 聖書は賭け事について何と言っていますか?賭け事をするのは罪ですか?
賭け事は、次のように定義することができます。「お金を増やそうとして、見込みのないものに、お金を費やすこと」聖書は特に賭け事、宝くじなどを罪と定めてはいません。 しかしながら、聖書はお金を愛することをやめるようにと警告しています。(第1テモテ6章10節;へブル13章5節)聖書はまた、急に裕福になることも控えるようにと勧めています。(箴言13章11節;23章5節;伝道者の書 5章10節) 賭け事が断然、お金を愛することに焦点を合わせ、安易に急に金持ちになる約束をして、人々を誘惑するということは否定できません。賭け事がなぜいけないのでしょう?賭け事は難しい問題です。なぜなら、あまり深入りしないで、時々するのであれば、お金の無駄使いではありますが、必ずしも‘悪’とは断定できません。人はいろんな行動に
-
- 聖書は入れ墨/体のピアースについて何と言っていますか?
旧約聖書の律法はイスラエル人にこう命令しています。「あなた方は死者のため、自分の体に傷をつけてはならない。また自分の身に入れ墨をしてはならない。わたしは主でアル。」(レビ記19章28節)だから、今はクリスチャンは旧約時代の律法には支配されていませんが、(ローマ10章4節;ガラテヤ3章23-25節;エペソ2章15節))入れ墨に反する命令が あったという事実をみると、そのことについて質問せざるを得なくなります。新約聖書では、信者が入れ墨をすべきかするべきでないか,何も言っていません。入れ墨と体のピアースに関しては、ある行為が良いかどうかを決める良いテストは、正直に、正しい良心で持って、それを祝福してくださいと神にお願いできるかどうか、また神の良い目的のためにそれを用いてくださいとお願いできるかど
-
- クリスチャンの十一献金について聖書は何と言っていますか?
十一献金は、多くのクリスチャンが苦闘する問題です。多くの教会では、十一献金があまりにも重要視されています。 同時に、クリスチャンの多くは主に捧げものをしなさいという聖書の勧告に従おうとしません。 十一献金/捧げものは喜び、祝福となるはずです。悲しいことに、今日の教会ではそういうケースはめったにないようです。。十一献金というのは、旧約聖書の概念です。十一献金は律法の要求するものでした。すべてのイスラエル人が自分で稼いだもの、生産した物すべての10%を、幕屋/神殿に捧げなくてはならなかったったのです。(レビ記27章30節;民数記18章26節;申命記14章24節;第2歴代誌31章5節)旧約聖書の十一献金は、いけにえの組織を預かる祭司やレビ人の必要に備えるための徴税の方法であったと理解する人もありま
- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......