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草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。

自然界にあるもの、また人間界にあるものは、すべて移り変わります。しかし、神のことばは永遠に変わることがありません。

結婚式で「アガペーの愛とは恋愛のような感情的なものではなく、選択です。」と聞きました。本当ですか?

そうですね。まず、イエスが語った言葉から見てみましょう。だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(マタイ6:24)
ここでは「愛する」とは選ぶことで「憎む」とは選ばないことです。通常愛するとは感情的要素が入ってきますが、聖書では愛することは選ぶこと、優先順位を決めることです。神が私たちに求める愛は感情だけに左右されるものではなく、理性的に、主体的に選びとるものです。もう一箇所、愛が選択であるとわかるところがあります。このことだけでなく、私たちの父イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わ

アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。

この箇所は、イエスが復活し、昇天したあとに、使徒ペテロがイスラエルの人々に語ったことばです。神がアブラハムと結んだ契約との関係から見ると、ポイントが4つあります。

もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。

聖書には「古い人と新しい人」という対比があります。ここで「古い人」とは人が生まれつき持っている罪の性質を指し、「新しい人」とはキリストを信じることで生まれ変わったクリスチャンの新しい性質を指します。しかし、人はクリスチャンになった後でも古い人(古い罪の性質)を引きずって地上生涯を送らなければなりません。実際生活の上では、クリスチャンの新しい性質は時間をかけて現れてくるものだからです。特に、救われたばかりの赤ちゃんクリスチャンは古い性質がまだ強く残っています。段々と霊的に成長して行くにつれて、古い人の罪の性質は弱められて行きますが、それでも死ぬまで消えません。何十年もかかって成長したクリスチャンでも同じです。今、地上生涯を過ごしているクリスチャンは、古い罪の性質を抱えながら、どのようにして、主

イエス・キリストを心の底から信じられるようになるにはどうしたらいいのでしょうか?

救いを受け取る信仰の決断は「自分の意思による選び」です。「心の理解」がついてくるのは、その後の歩みの中で少しずつ体験させていただくものです。もちろん信じたその場で体験できる人もいますが、さらに深い神の世界はやはり時間をかけて知っていくものです。「心の理解」は自力ではできないので、聖霊なる神の働きによってなされます。救いを「決断」で受け取った時に、聖霊が内側に与えられ、聖霊の働きによって、神のみことばと神の栄光(神のすばらしさ)が体験的にわかるようになります。信じたいという思いがあるのはすばらしいことです。それでしたら、あとは決断するだけです。イエス・キリストの福音に人生をかけてみようと「意思による選択」をするのです。もちろん、決心した後も、全く迷いもなく、100%神に従える人間などいないので

人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒瀆は赦されません。

これは、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人をイエスが癒したときに、ユダヤ教パリサイ派の指導者たちが、イエスの力は悪霊のかしら、悪魔(サタン)から来ていると非難したことに対して、イエスが語られたことばです。もちろん、イエスは、サタンの力によってではなく、神の御霊(聖霊)によって、悪霊どもを追い出していました。ユダヤ教パリサイ派の指導者たちは、これを目の前で見ながら、神の働きを悪魔の策略だと決めつけてしまいました。これが、「聖霊に逆らう冒瀆の罪」です。この罪の特徴は、2つあります。

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。

聖書は人に知恵を与え、信仰による救いを受けさせることができます。また、聖書はすべて、神の導きの下で書かれました。つまり、聖書が書かれた時に神の守りがあったということです。だから、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする「力」を持った書物なのですね。

ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。

人は皆、人生の中で、自分は死んだらどうなるのだろうか、と考えたことがあるのではないでしょうか。恐らく多くの方々が、死んだらおしまい、無の世界に入る、と考えていると思います。私は、17歳の頃にこの死の問題を何度も考えて、死んだら後には何も残らない、死は自分の力ではどうにもできないという切なさをぬぐえなかったことを思い出します。その頃、両親はまだそれほど老いてはいなかったけれども、いずれは亡くなってこの世での別れが必ず来る。そして、自身にも死はやって来る。今は、いろいろなことを考えたり、喜びや悲しみを感じたりできるが、死とともに全てが無に帰するはずだ。肉体が滅びれば、脳も機能しなくなり、死とともに、何もできなくなる。死は恐ろしい。死にたくない。しかし、死は必ず訪れる。この思いはその後もひとりにな

人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。

結婚式で頻繁に読まれている、とても有名な聖書の言葉です。結婚に対するイエス・キリストの教えが書かれています。

人の子とは、何者なのでしょう。

旧約聖書の中の巻、詩篇は、今でいうと賛美歌集です。その多くはダビデの作であり、この第8篇もそうです。ダビデはイスラエルの王ですが、生まれは貧しい羊飼いの家です。羊飼いの生活は、牧草と水場を求めながら、羊の群れを連れて荒野を移動する生活です。野の獣から羊を守るという危険な仕事でもあります。そのために杖の扱いや石投げの訓練も重ねます。そんな生活の中、ダビデ少年の楽しみは、立琴でした。夜は羊の番をしながら、満天の星空のもと、立琴を弾きながら神様をほめ歌っていたことでしょう。この詩篇第8篇は、そういう羊飼いの経験の中から生まれた詩です。ダビデは歌います。「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれに心を留められるとは。人の子とは、何者な

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。

阿弥陀仏にすがれば、極楽浄土に行けるという親鸞の教え仏教には、末法思想という歴史観があります。それは、釈迦が入滅した後、1000年間(一説には、500年)は、釈迦が説いた正しい教えが世で行われ、修行して悟る人がいる時代(正法)があって、その時代が過ぎると、次の1000年間は、修行が行われても外見だけで本当に悟る人がいない時代(像法)が来て、その次の1000年間は、人も世も最悪で、教えも修行も何もない終末の時代(末法)が来るとする歴史観です(※「世も末」の語源にもなっています)。日本では、一般に1052年(永承7年)が末法元年と言われていますが、それは仏教の腐敗が激しい鎌倉時代突入前の時代です。末法の世であるのだから、人が自力で修行をしても悟ることは出来ないので、ただ阿弥陀仏の御名を唱えれば(

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。

この聖句は、最後の晩餐において、イスカリオテのユダがその場所を去った後、イエスが残った弟子たちに、これから起こる出来事(贖罪の死、復活、昇天、再臨)のことを教えている箇所です。私たちが罪人として滅びゆくのではなく、永遠の命を授かるためには、イエス・キリストの十字架を受け入れること以外に道がないということを教えています。日本人なら、真理に至る道はいろいろあって良い?私がこの聖句を初めて聞いたのは、2007年2月のことです。得度*、五重相伝(浄土宗の修行)まで受け、熱心な仏教徒であった当時の私は、お付き合いで行った教会で「真理に到達するには、この道しかないのだ」というメッセージに非常に腹立たしさを覚えました。*得度(とくど)僧侶入門の儀式のこと何故なら、多くの日本人の精神構造である和の精神に根差

それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

この聖句では、結婚について3つのことが教えられています。第1に、結婚式は、親離れ式、子離れ式であること。つまり、経済的にも精神的にも自立することを確認する儀式です。第2に、結婚した2人の間に、仲介者としての神が存在しているという事実です。ゆえに、神が一つにしたものを人が離してはいけません。第3に、結婚とは、男女が長い時間をかけて一心同体になるということです。そもそも男と女は、平等ですが同じではありません。体の器官にそれぞれ役割があるように、男と女にもそれぞれの役割があります。同じ信仰を持って歩める夫婦はとても幸せです。

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

同志社大学の創立者・新島襄(1843~90年)は二十歳のとき、初めて漢訳聖書と出会いました。「元始(はじめ)に神天地を創造(つく)りたまえり」という最初の一句を見て、彼は考え込みました。「なるほど、この世界のあらゆるものは、これを造った神さまがいなくてはできないはずだ。机は大工が作ったものだが、その大工が用いた材木は決して人間が造ったものではない。すると、この書物にあるとおり、この世には真の神さまというものがいて、この天地万物を造り、ご支配しておられるにちがいない」納得した彼は、見えないが、天地創造者である神を信じたのです。

キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと…

※ケパとは12弟子のひとり、ペテロのことです。これは使徒パウロがコリント教会に宛てて書いた手紙の一部です。この教会はパウロが土台を築いたのですが、多くの問題がありました。彼らの中にはキリストの復活を疑っていた人もいたようです。そこでパウロは、復活が事実であることを教えるために、彼が宣べ伝えた福音とは何であったかを彼らに思い出させています。パウロは福音の3つの要素を述べています。(1) キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれました。(2)またキリストは墓に葬られました。(3)そして、三日目に死者の中から甦られました。私たちはこれを「福音の三要素」と呼んでいます。福音はグッド・ニュースです。「福音の三要素」について解説したメッセージがありますので、ぜひあなたもこの良い知らせを知

高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。

「これからどうしていけばいいんだろな」。大学卒業を控えた4回生の冬、私は最寄り駅の前の通りを歩きながら、そうつぶやいていました。当時、私は失意のどん底にありました。その年の秋に受けた外交官試験に失敗し、人生の目標を失いかけていたからです。その時に見知らぬ外国人に手渡されたのが、教会の英会話教室のチラシでした。1か月4000円という授業料の安さにひかれ、私は毎週日曜日の英会話レッスンのために教会に通うようになりました。ただし、レッスンの受講には一つの条件がありました。レッスンの後、牧師が聖書から語るメッセージを聞かなければならない、というものでした。メッセージは英語で行われ、日本語に訳されるバイリンガル形式でしたので、英語の勉強にもなると思い、私は抵抗なく聖書のメッセージに耳を傾けるようになり

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。(ローマ5:3~4)

私たち日本人は儒教的な環境で育ってきているので、患難や忍耐について固定的観念を持ってしまいがちです。そのため、この聖書箇所は前後の文脈を無視して誤解されてしまうことがとても多い箇所です。患難を耐え抜き、磨かれて品性が生まれ、その延長上で希望にたどり着くのだと考えてしまうのです。しかしながら、ここで言っている「希望」の根拠は私たちの頑張りではなく、神の恵みにあります。前後の節も読みながらこの箇所の本当の意味を考えてみましょう。

平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。

神経が高ぶり、ちょっとしたことが頭から離れない。体は疲れ、眠りたいのに眠れない。頭はキリキリと痛んでくる。こんな経験ありますか。不眠症はストレス社会の中で生活する現代人の悩みのひとつと言われますが、私もあります。枕元にメモ用紙とペンを置いて、何か思いついたら書きとめるようにしたことも。書いてしまえば、安心して眠れると聞いたからですが、書くうちに神経はもっと高ぶって眠れなくなってしまい、やめました。どんなに大きな問題に直面していたとしても、今夜はぐっすり眠って、すっきりとした頭、元気はつらつの体になって明日を迎えるのが一番。わかっていても、それができないのは、気持ちに余裕がなくなっているからです。詩篇第4篇には、不眠症解消の処方箋があります。ざっと次のような手順です。目をつぶり、問題を神様に話

キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

リチャード・ニクソン米大統領の側近であったチャック・コルソンは、ウォーターゲート事件への関与で有罪となりました。その後彼は、獄中で回心してクリスチャンとなりました。以下、彼の証言です。 イエスの復活は事実かと質問されると、私は「弟子たちと500人の人たちは、自分たちが目撃した事実を書いているのだ」と答える。すると、「どうしてそれが事実だとわかるのか」との質問が返ってくる。そこで私は、ウォーターゲート事件を例に取って説明する。その事件は、大統領に忠誠を誓った側近たちが共謀して起こした事件である。しかし、側近のひとりジョン・ディーンは、当局の調査が始まってたった2週間で、自分の身を守るためにニクソンに不利な証言をした。たった2週間でこの事件の隠蔽工作は失敗に終わった。すると、だれも彼もが罪を軽く

からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。

人と自分の能力や容姿を比べて、自分はダメだと思うことはないでしょうか。しかし、聖書ではそうした考え方とは逆の価値観が教えられています。

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