私はこのままでも幸せです。 ニック・ボイチチ
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
ニックは1982年12月4日に生まれた29歳の青年です。彼は生まれながらに手足のない状態で生まれました。ある時期までニックは自分を受け入れる事はできずに、苦しみ、死を願っていました。しかし、神様との出会いを通して、生きる希望を与えられ、今では全世界に希望のメッセージを伝える器として神様に用いられています。ニックのいくつかの言葉を紹介します。「ニック、僕はあなたの体験が想像できない」「あなたはの話がとても人を励ます」と言われ、ぼくは感謝しています。人を励ませた事は良かった。でも、誰でも寂しさ、悲しみを知っているはずだ。ひょっとしてあなたの体験は私よりひどいかもしれない。あなたは「違う」と思うでしょう。しかし、苦しみは比べられない、比べるべきではない。ある時、神様が僕の質問に答えた気がした。僕の質問は「どうして神が僕をこのように造ったのか?」神様からの答えは「あなたは私を信じる?」という質問だった。その質問に「Yes」と答えるならすべてを受け入れられる。僕が持っていないということで神を恨むという選択と、僕が持っている物に対して感謝するという二つの選択枠があった。そして僕は人の外見が完璧でも中身が壊れたら意味がないということがわかるようになった。そして、神が環境を変えなくても癒せることがわかった。
ニックに会った人々は先に握手を求めることのできないニックに先に近づき、抱きしめ、挨拶をします。今は活気のあるニックも幼い時はそうではありませんでした。自分は一人であり、生きる意味がありませんでした。学校に行く理由もありませんでした。私は自分が大学に行けるようであるとは考えもしませんでした。どうしてよいかわからず、大変暗くなり、さびしかったのです。神様が憎く、人間に恨みを持ちました。彼らが私を理解してくれないからです。私は怖かったのです。そして弱くなり、絶望に陥りました。8歳のときに人生をあきらめたいと深い絶望に陥りました。生まれる時から手と足のなかったニックは、他の子が歩き、走る事を学ぶ頃、車椅子に乗る方法を学び、他人と違う自分の姿から人生の希望のかわりに、苦しみを先に学びました。そのような彼が今のように活気にあふれ、幸せな青年になれたことは、生きる理由を探したからです。彼は自分が発見した人生に対する希望と情熱についてのメッセージを他者に伝えています。道を行くときに倒れることもあります。倒れたらどうしますか?皆さんも知ってるとおり、起きなければなりません。なぜなら、このように倒れた状態ではどこにも行けないからです。しかし、人生の中で、みなさんが倒れたとき、再び起きる力がないと感じられたときもあったと思います。皆さん、希望があると考えますか。なぜなら、私が倒れるとき、私には起き上がる為の腕も足もないんです。私が再び起き上がることは不可能ですね。しかしそうではありません。私は百回でも、起き上がろうと努力します。もし百回がみな失敗し、自分で起き上がることをあきらめるなら、私は絶対に起き上がることはできません。しかし、失敗しても、また試みるなら、そしてまた努力するなら、それは終わりではありません。どのように終わるかが重要なのです。再び起き上がることのできる勇気を得ることが大事です。ニックの生活は彼が語っているように決して挫折することはありません。倒れたとき、起きあがればそれでよいという事をニックは知っているからです。今でも腕と足があるようにと祈っているかと聞いていますか?はい、実際そうです。しかし、与えられないからといって、大きく失望するとかそのようなことはしません。神様が聞いておられようが、なかろうか、私は今でも奇跡を信じ、私は大丈夫です。神様は私にあまりにも偉大な使命を与えてくださいました。神様の栄光と愛に対する私の話を通して、人々の心が変わることを見ることは本当に素晴らしいことです。私は今も奇跡を信じます。奇跡がここにあっても、天国にあっても、私は今でも奇跡を信じます。天国で私は腕と足、そして新しい身体を持ちます。しかし私は、今、このままでも幸せです。(LVJCCブログ制作チーム:薫)ブログランキングに参加しています。クリックで応援してください。