劣等感からの解放”
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、
”劣等感からの解放”について考えてみました。多くの人が劣等感のゆえに苦しんでいます。その理由は様々です。劣等感があると、人と正面から向き合うことが恐くなります。また劣等感があると、人を正しく見ることができなくなり、人間関係に様々な問題を引き起こします。また一方で、世の中には劣等感をバネにして、人にバカにされないようにと頑張ることで事を為し遂げる人もいます。それによって優越感を持ち安心するのですが、そもそも優越感というものは劣等感の裏返しなので、そういう優越感もまたちょっとしたことでガタガタと崩れてしまうものです。しかし、ここにそのような劣等感から本当に解放されていく道があります。聖書は、もし人がキリストの言葉にとどまるなら、人は真理を知り、真理は人を自由にする、と言っています。(ヨハネ8:31-32)本物の真理は、私たちを縛るものではなく自由にするものです。私たちが劣等感に縛られるのではなく、そこから解放される道がある、自分のあるがままをゆったりと受け止める自由を持つことができる、と聖書は教えるのです。そもそも劣等感はなぜ起こるのでしょうか。簡単に言えば、それは人と比べるからです。「自分は自分」と思えるならば劣等感を持つことはありません。素晴らしい人を見れば「素晴らしい」と心から言うことができます。ところが実際には多くの人が、つい人と比べて、「私なんか・・・」となったり、「私だって・・・」と背伸びをしたり、あるいは人をけなしたりと、様々な劣等感や優越感を持ってしまいます。良いところを良いとしてほめ、弱さは弱さとして受容できるなら、人間関係は良いものになっていきます。でもそのためには、どうしたらよいのでしょうか。答えは簡単です。人と比べることを止めればよいのです。神様はあなたを世界中に一人しかいないユニークな存在として、また他のものと取り換えることのできない大切な存在として造られました。ですから、一人一人が自分らしく生きることが大切なのであり、誰もがそうできるはずなのです。にも拘わらず、私たちはすぐに人と比べてしまいます。良くないと分かっていながら、人と比べることを止められません。それが問題なのです。そして、その問題の背後には罪という根源的な原因があるのです。しかし、もし私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめて下さいます(第一ヨハネ1:8)。罪という言葉には、悪い響きがありますが、ここで大切なのは、それが罪であるならば、そこから変えられていくことができるということなのです。また聖書は、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道である、と教えています(Iテモテ:)。人と比べて、あれもない、これもないと言うかわりに、自分に与えられているものを感謝する心があれば、私たちの生活も随分変わります。もしあなたがこれに同意されるならば、次に大切なことは、すぐに人と比べてあれこれ言ってしまう自分の良くない思い(罪)を、神様の前に認める(告白する)ことです。そうするならば、あとは神様がそれを赦し、すべての悪からきよめ、そこから解放して下さるでしょう。私たちは劣等感の結果、ねたんだり、嫉妬したりと、色々な心の束縛の中で生きています。もし、自分の努力でそこから抜け出すことができるのでしたら、ぜひそのようにしてみて下さい。人は「こうしよう」と心に定めることによってだけでも、随分変えられるものです。しかし、もしあなたが本気になってそれをやり遂げようとするなら、やがて、それが如何に難しいものであるかが、本当の意味で分かるでしょう。その時はぜひ、「神様、私にはできません。助けて下さい。」と祈ってみて下さい。そうすれば、今まで自分の努力ではできなかったことが、神様の力によって、だんだんとできるように変えられていきます。劣等感は、気付かないうちにあなたの人生を驚くほどに蝕み、あなた本来の素晴らしさ、持ち味を台無しにしています。神様は私たちをそのような束縛から解放し、自由を与える道を備えて下さったのです。
今日の一言: 真理はあなたを自由にする平安鶴田健次
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